9-53 集いし女傑達
闇色をした死の嵐に追い立てられるようにアルテミシアは今来た道を戻り、街の外へと吐き出された。
ちらりと後ろを振り返れば、そこには押し寄せるイナゴの群れのように地を這う黒煙が迫る。
――どこかで建物上に登るべきだった……?
ううん、そうしたってそのうち下から浸食されて建物ごと呑み込まれる!
カイリ領は起伏の激しい土地だが、ハルシェの街の周囲はのっぺりとした草原地帯だ。登って逃げられそうな丘などは無い。
正面には地平線を塞ぐようにハルシェーナの森が広がり、さらにその向こうには屹立し緑に覆われた峰々が天を突く。
子どもがおもちゃ箱をひっくり返したかのように、辺りには兵士達が放り出していった装備品や領軍の物資が転がっていた。
逃げ遅れた兵士達は、アルテミシアと同じように、街から溢れ出した闇色の風を見て走り出す。しかし彼らのほとんどは、ポーションによる身体強化と小さく軽い体を活かして身軽く走るアルテミシアにすら追いつけない。中には怪我をして動けない者もある。そして黒煙が迫る速度はアルテミシアの疾駆に匹敵するのだ。
彼らはまだ生きているがこれから死ぬ。数秒後に呑み込まれて死ぬ。助けている余裕も、助ける方法も無い! 生き残れそうなのは運良く手近に馬が居たか騎乗していた者だけだ。
アルテミシアは奥歯を噛みしめて走った。
「アルテミシア!」
数騎の騎兵と併走するアルテミシアめがけ、草原を真っ二つに切り裂くように狼ゾリが飛んでくる。
状況を理解しているのか緊張にギラギラ目を輝かせた二頭の狼は、泡を吹くほどの速度を出していた。ある程度近づくとソリは地面を抉りつつ(レベッカがエルマシャリスを抱えて保護した)急速にターンする。
アルテミシアに尻を向けたソリは助走を開始。
「急げ、飛び乗りな!」
「うぎ、あ、あぐああああっ!」
フィルロームが叫んだのと、その野太い悲鳴はほぼ同時だった。
あまりにも近くから悲鳴が聞こえたのでアルテミシアはすくみ上がった。次いで、馬のいななきと、大きな物が倒れ込む音。
併走していた騎馬が闇に絡め取られ、後足をやられたのだ。馬は主ともども闇に呑み込まる。すぐに見えなくなったが、今頃どうなっているかは推して知るべし。
恐ろしいことにアルテミシアが脇見をした瞬間、視界には確かに黒いものが見えた。横を向けば目の端に入る……すぐ背後まで闇が迫っている!
――間に合う? 間に合って……!
闇の勢いがここへ来て増している。
「ぎゃああああああ!」
騎兵がさらにひとり呑み込まれた。
心臓が焼けるようだった。
いざとなれば『森の秘宝』を装填した薬染爪剣を出す事で死を回避し、多少は永らえられるはずだ。しかしそれも時間稼ぎにしかならない。
ゲーム的に例えるなら、強烈な継続ダメージを食らい続ければ何度自動再生しようが死ぬ。復活潰しの常套手段だ。なお悪い事に、『森の秘宝』をここで使ってしまえばあの『獣』に対抗する必殺の武器を失ってしまうことに……
「頭抱えて歯ぁ食いしばれっ!!」
突如、横っ面を張り飛ばすような大声がアルテミシアを打ち据えた。
魔法によって拡声された何者かの声だ。……凛として張りのある、若い女性の声だった。
上だ、とアルテミシアは思った。だけど上を確認する余裕など無かった。まして頭を抱える余裕も。歯はもう食いしばっている。
アルテミシアはただ風が唸るのを聞いた。
パシュッ……
小さく空気が弾けるような音と共に、アルテミシアの背後で碧の光が爆発した。
ホタルのような光が飛び散り、アルテミシアを追い越していく。
「えっ!?」
思わずアルテミシアは振り返った。
黒い嵐が広範囲にわたって消し飛んでいた。ハルシェの街から放射状に広がっていたはずの黒煙が、丸く切り抜かれたようにアルテミシア達の周囲だけ吹き払われている。黒い霧に先程呑み込まれた騎士達が馬ともども干からびたミイラになって倒れているのがよく見えた。
黒い嵐が消えた空白区に再び黒煙は流れ込んで来るが、少なく見積もっても30秒程度の時間的猶予が生まれた。アルテミシアの隣を、必死の形相の騎兵が駆け抜けて行った。
「何が……」
不思議に思っている暇も無かった。
急降下して川の中の獲物を捕らえるカワセミのように、空から降りてきた何者かがアルテミシアを掻っ攫ったからだ。
「!?」
突然全身を強烈な加速度にさらされ、アルテミシアは声も出なかった。
アルテミシアを抱え上げた何者かは急激に高度を上げ、地面を這う黒い霧がとうてい届かない高さまで逃げた。ソリの上で驚いた顔をしているレベッカ達がみるみる遠ざかる。
「あんたらはそのまま逃げときな! こっちは引き受けた!」
アルテミシアの耳元で人さらいは叫んだ。
奇妙な感覚だった。聞き覚えがある声なのに誰のものか顔が浮かばない。
「えっと……どちらさま?」
身をよじって彼女の顔を見たアルテミシアは……絶句した。
旅の間見慣れた、迷子のエルフの顔がそこにあった。
「マナちゃん?」
「……あー、確かにそうなんだけど、そうじゃないってーか……」
何故だかバツが悪そうに彼女は視線をさまよわせた。
「そうだな、まあなんだ。今さらこう言うのもだが、『サフィルアーナ』って名乗るべきかな?」
それは滝口まなの転生先となったエルフの巫女の名前だった。
どういう事なのかアルテミシアは分からなかった。確かにマナは『獣』の気配に誘われるようにさまよい出たことがあった。ともすれば来てしまうかも知れないとは思っていたが……雰囲気が違いすぎる。
子どもらしい底抜けの無邪気さと無垢さは鳴りを潜め、森に潜み狩りをする猛獣のような本能的知性と荒々しいエネルギーを感じた。
儚く冷たい雰囲気の美貌を裏切る粗野な物言いは、まるで氷に火が付いているかのような背理的アンバランスさで、彼女の印象をいっそう鮮烈なものとしている。
「それは、いったい……」
「説明してる時間は無ぇ、あのクソ野郎をぶちのめしてからだ! ……それとも、このまま逃げるか?」
サフィルアーナに問われて、あらためてアルテミシアは眼下の状況を確認した。
もはやハルシェの街は漆黒の霧の海に沈んで、建物の二階以上が突きだしているだけという状態だ。そのど真ん中には、体表から流れ出す霧によって形すらよく見えなくなった『獣』が蠢いている。まるで禍々しいチョコファウンテンのような有様だ。
流れ出した霧は外壁の隙間から溢れ出して大地を侵している。今やその半径は、街の大きさの倍以上に拡大し、なお衰えることなく広がっていた。
サフィルアーナのことを詮索してる場合ではない。
もしここで『獣』をどうにかしなければ、あの死の霧は際限なく流れ出し破滅的な事態を招くだろう。
「逃げるったって、どこへ逃げるんだって話だけどな。さすがにアタイも三日も四日も飛びっぱなしで山だの海だの超えるのは無理だ」
「あれを倒すしかない……」
「どうも残念ながらそういう事らしい。それに、手立て無しってわけでもないんだ」
そしてサフィルアーナはアルテミシアを片腕で抱えたまま(純粋な腕力で抱えているのではなく、飛行魔法の余波で支えられてもいる)、もう片方の手で鮮烈な碧に輝く宝石を取り出した。
白く滑らかな手の上で自ら光を放つ『森の秘宝』が3つ。
「悪い、さっき一発使っちまった」
「黒い霧が消し飛んだのって、これ!?」
「相殺できるかと思って、魔法で砕いて吹き付けたんだ。霧に追いつかれそうだったから」
「……あれが無ければ死んでたかも。ありがとう」
アルテミシアが礼を言うと、サフィルアーナはくすぐったそうに笑った。
あの霧はどうも『獣』の一部らしい。黒い死の炎が今度は霧の形になったようなものだ。『森の秘宝』と打ち消し合うのは必然か。
「こいつは、あのクソ野郎が『獣』を作ったときに出来た『森の秘宝』4つ……のうち3つだ。巫女隊がこっちへ運ぶ途中だったんだがぶんどってきた。
過去に発見されて部族が保管してる『森の秘宝』は、今族長が回収しに行ってるらしい。だが、ありゃ森のあっちこっちに封印されてる。霧が森を飲み込むまでに全部集まるかどうかも怪しいもんだ」
「つまりこれが」
「文字通り最後の希望さ。
この『秘宝』と、あんたの持ってる分を使って、どうにか『獣』を消し飛ばさなきゃなんない。
でもさっきので分かったろ。『森の秘宝』4つで『獣』と対になってるはずなのに、『秘宝』ひとつ使ってたったあれっぽっちの霧を消滅させることしかできなかった。つまり無駄撃ちがあり得るんだ。おそらく、上手いこと直でぶつけないと効果が拡散して無駄になる」
「今の『獣』は、鎧を着てるようなもの……かな」
「行けるか?」
アルテミシアは黙って頷いた。
大丈夫だなんて断言できるほど楽観的な状況ではない。だけどその事実を口に出して認めたくなかった。もし失敗すればとんでもない破滅的事態だ。自分も命を落とすだろう。だから、どうにかするしかない。うまくやるしかないのだと。
そんなアルテミシアの内心を察したかのように、サフィルアーナは頷き返す。
「もちろんアタイも協力するさ。……恩は返すぜ、アルテミシアお姉ちゃん」