9-52 奥の手を用意するのはボスの嗜み
ギリギリで日付が変わってしまった……
鞄に入れたポーションから身体強化用のものを取り出したアルテミシアは、それを片っ端から飲み干してビンを行儀悪く荷台に転がした。少しでも身軽に動くためには、空き瓶まで鞄に入れていくわけにはいかない。
「ここで降ります!」
「大丈夫か!?」
「あんまり近づくとソリを狙われちゃいますよ!」
フィルロームが合図を出すと狼たちは速度を落とす。それが止まるのも待たずにアルテミシアは飛び降りた。
いつもの服ではなくて、物騒な爪も隠したアリススタイル。これなら『獣』に気取られることも無い。
……はずだ。
さすがにあんなものに近づくのは、気が付かれないとしても、必殺の武器を持っていたとしても、当然怖い。
それでもこの期に及んで退こうとは思わなかった。
狼ゾリに乗り込んだ者達をアルテミシアは見回す。
自らの不安を隠すように拳をぶつけるジェスチャーで激励するレベッカ。
ずっと気遣わしげにしているアリアンナ。
成功を確信しているかのように笑うフィルローム。
居合わせただけのエルマシャリスも、寝かされたまま胸元で祈りの形に手を組んだ。
守らなければとか、そんな大層なことを考えたわけじゃない。
ただ、アルテミシアにはこれが今生の別れとは思えなかった。それを確認して気持ちを奮い立たせただけだ。
「行ってきます!」
「気を付けて!」
アルテミシアは転がる鞠のように走り出した。
目の前では領軍が既に壊走しており、見上げるような巨人が今まさに残存兵を踏みつぶさんとしている。そこに横合いから断続的に矢が浴びせられて動きを鈍らせ……
――違う?
動きが鈍すぎる。
その場で完全に足を止めている『獣』は、攻撃に屈して身を沈めつつある……かのようにも見えたが、それは膝を曲げてぐっと溜めを作っているようにも見えた。
――まさか!
アルテミシアが思った瞬間、ドズン! と大地が揺れてアルテミシアは転ぶどころか吹っ飛んでしまうかと思った。
『獣』は跳躍していた。闇色の巨体が信じがたい跳躍力で宙を舞った。
「そんな!」
矢を射掛けてくるエルフ兵達を無視して、未だに踏みとどまる(あるいは負傷から逃げられずにいる)領兵達を無視して、『獣』は跳んだ。
外壁を飛び越えた『獣』は、神殿の鐘突き塔を足に引っかけて突き壊し、転倒するように街の中へ飛び込んだ。
再び重く大地が揺らぐ。そして、地面をめくり上げているかのように土煙が巻き上がった。
「わっぷ……」
アルテミシアは袖口で顔を覆って立ち止まった。視界不良のまま突っ切れば何が起こるか分からない。
と、すぐに背後からの不自然な突風によって土煙は吹き払われた。
それがエルフ兵の魔術師による風魔法だと気づいた時には、駆け足で誰かが近づいてきていた。
「無事か!」
弓を手にしたヘルトエイザだ。
背後にはエルフ兵達も続いている。さすがにここから弓を撃ち続けるのは厳しく、移動しているのだ。
「はい。煙にまかれただけなので……」
「あいつ、いきなり動いたな……残った兵士を無視して街に入ろうとしてる?
こいつぁ避難民と逃走する兵士の動きに引きずられてるな。街をぶち抜ける気だ」
『獣』は一般的に、人数×距離の近さという、信じられないほど単純な公式で狙う先を決める。
さっきまではともかくとして、今の『獣』はそうした機械的な基準で狙いを決めている節があった。
人数が多く居ればそちらへ引き寄せられる。目の前の獲物を後回しにしてもだ。
「どうするよ」
「……追いかけます」
「だな。そうするしか無いか」
避難の状況はどうなっているだろうか。
一刻も早く『獣』を止めなければ、それだけ死者が増える。
街へヘッドスライディングのように突っ込んだ『獣』は、早くも身を起こしつつある。
弓矢による妨害も途切れたことで一気に進み始めた。
『これ以上『獣』を進めるわけにはいかない。
市街戦に移るぞ。高所に陣取れよ! 多少勝手は違うだろうが、なぁに、木の上から矢を射るようなもんだ。お前達は、深く険しく昏き森に生きる戦士。人間が作った建物に登るなぞ軽いものだろう。
『ヘビのアギト』だ。散開して気配を散らせ。……行け!』
号令一下、エルフ兵達は風のように駆け出した。
崩れかけた外壁に手を掛けると、まるでリスが樹を駆け上がるかのようによじ登っていく。『獣』を両側から包み込むようにふたつの群れに分かれ、周囲の建物へ飛び渡っていった。
その時だ。『獣』の放つ炎とは明らかに違う、白くまばゆい光が街の方から湧き起こる。
「これは……?」
アルテミシアは訝る。
陣を構えようとしていたエルフ達も足を止めて、その発生源を警戒した。
折しも『獣』は街の入り口から近い広場に踏み込んだ所だった。
その『獣』に覆い被さるように、十重二十重に光の網が迸る。
遠目にはさながらクリスマスの電飾のようでもあった。
「ありゃ人間の神聖魔法だ」
「じゃあこれは領軍の攻撃ですか」
「多分、街ん中に待機してた神官系の魔術師部隊だな。治癒と浄化が専門だから危険な前線にはあんまり出て来ない。
こりゃもう街は捨てたかな。避難民を守るための足止めだ」
【 ―― fnouafhra;oflhr.flh!!!! ―― 】
『獣』が意味を持たない雄叫びを上げた。それは悲鳴のようでもあった。
光の網は一見すると細く頼りないが、まるでそれが超重量の鎖でもあるかのように『獣』は膝を突く。
そう、動きを止めたのだ。
「人間の神聖魔法も捨てたもんじゃない。普通の武器よりは効いてるようだ」
「なら、今のうちに!」
「任せた! 気を付けろよ!」
動きが止まった『獣』めがけて、再びアルテミシアは駆け出した。
崩れた街門を抜け、土煙の漂う大通りを抜け、その先に光と影が交錯する広場を睨む。
既にエルフ兵が弓を射掛け始めているところだった。光の合間を縫うように、『獣』の体に弓が突き刺さる。
高い所に見える影は、エルフ兵だけではなかった。純白のローブに身を包んだ神官達が金の錫杖を構え、屋根の上に、広場に面した建物のバルコニーに陣取っている。
その隣ではエルフ兵が矢をつがえ、引き絞る。阿吽の呼吸によって共闘が成立していた。彼らは一瞬ちらりと目を合わせ、自嘲のように笑い合った。
アルテミシアは一瞬、自分が手を出さずともこのまま『獣』を倒せるのではないかとすら思った。
だが、前方に見える『獣』の様子を見て思い直す。確かに神聖魔法と弓矢によって『獣』は大きなダメージを負っているように見えるが、それでも傷は高速で回復していた。
――やっぱり、これを使わないとダメみたい……!
今は姿を消している薬染爪剣の感覚を確かめるように手を握り合わせ、アルテミシアは『獣』に迫った。
『射撃やめっ! 彼女を通せ!』
いつの間にか三階建ての宿屋の上にヘルトエイザが立っていて、傍らに控える魔術師に拡声の魔法を受けて指示を飛ばす。
雨あられと降り続いていた矢が止まり、アルテミシアに道を空けた。
――よし!
「『静穏の……』」
変成服に『登録』した名称を呼び、服と武器を出そうとした。
ちょうど、その時だった。
【 ―― PhaseChange(3) ―― 】
『獣』が、意味のある言葉を発した。
それはアルテミシアが聞いたことのあるいかなる言語とも異なり、また意味を理解することもできなかったが、確かに意味のある言葉だとアルテミシアは感じた。
アルテミシアはすんでの所で足と口を止めた。今、『森の秘宝』を出してはいけないような気がしたのだ。『獣』が何かをしようとしている……
光の檻に捕らえられた『獣』の体が震えた。
震えた? 違う。震えるように、その輪郭が朧になっている。
攻撃を受けた時のように影色の粒子が舞い……いや、それよりもよほど強い勢いで……
「えっ?」
先程の土煙の再現かとアルテミシアは思った。
地面を巻き上げているかのように、爆発的な煙の波が迫る。
だがこれは『獣』が街を破壊して起こした土埃とは違う。『獣』の体表から剥離した闇色の粒子だ。
それが『獣』を中心として地を這うように流れ出している。
もし上空から広場を見ていたら、辺りの建物は、闇色の海に浮かぶ島々のように見えただろう。
ピシリ、ギシリと鳴る音があちらこちらから聞こえた。
瞬時にアルテミシアは目だけで辺りを見回す。
異常はすぐに見つかった。
石畳が割れ砕け、砂に還っていく。
いや、周囲の家々や店すらも、影色の煙に触れた部分は百年の年月を経た廃墟のように風化していく。ショーウィンドウのガラスが割れて崩れ落ちた。
「あ、あぁっ、ああ゛あーーーーっ!」
怖気を誘うような悲鳴が上がった。
広場の周りの路地から『獣』に魔法を使っていた神官だ。闇色の煙に巻き込まれた純白の僧衣は……茶色く風化し朽ち果てていく。黄金の錫杖もひび割れ、そしてそれを持っている彼は。
ミイラと化した。彼は倒れ、そしてその衝撃で壊れた。
「き……」
黒い嵐が眼前に迫る。
「きゃあああああっ!」
アルテミシアは踵を返し全力で走るしかなかった。