9-51 ヒロイックエントリー之図
「どうでした?」
「ヘルトエイザは残存兵を引っ張って来るそうだ。
ザンガディファの野郎にも連絡入れたが、『秘宝』を持ってきてくれるかは分からんね。
資料の訳は押しつけてきたけど、読んでおいてくれたかねぇ……」
≪虫報≫の魔法で連絡を取っていたフィルロームは、腰を叩きながら起き上がる。
『獣』に対処するには少しでも協力者が多い方が良い。そして特効薬である『森の秘宝』は残弾が多いほど戦いが容易になる。
フィルロームが言う通りなら、『森の秘宝』は所持者が死んだ時にそれを蘇生させる効果もある。『獣』を倒すのに手元にあるものだけで十分だとしても、ひとつでも追加で持って行けたらお守りとして心強いし、矢や魔法でぶつける手も試すことができる。
しかし問題は、それを出してくれるかどうかだ。最悪の場合、手元の弾だけで戦う事も考えねばなるまい……
【 ―― Print("あーのー……こんな時に申し訳ないんすけど、ちょっといいすか") ―― 】
と、そこで闇色スライムが声を上げる。
カルロスの体はしゅうしゅうと音を立てて、少しずつ闇色の粒子を集めていた。エウグバルドに破壊された体が再生しているのだが、元の通りになるにはまだかなりの時間が掛かりそうだった。
「どうかしました? って、わたしが言っても聞こえないんだっけ。なんかカルロスさんが呼んでます」
調合の手を止めずにアルテミシアは応じる。
「アルテミシアが通訳してるわよ。続けて」
【 ―― Print("あ、はい。えっと、その……俺、大丈夫なんすか……? ほら、あっちの『獣』はなんか暴走してるみたいっすけど……") ―― 】
カルロスは不安げだった。自分も『獣』に意志を食われやしないかと心配しているのだ。
「えっと……このままで大丈夫なのかってカルロスさんが言ってます」
通訳をしてから、アルテミシアは自分の考察を付け加える。
「……エウグバルドさんの断末魔からの推測ですけど、戦意をなくすと意志を食われるんだと思います。
今カルロスさんは、あの『獣』を止めるために戦おうとしているから、無事でいられる」
「あたしゃ、早いとこ引き上げた方がいいと思うんだがね。こいつを『獣』に乗せるのはロクな手じゃないと分かってやったことだが……どうも思ってたより危なそうだ。
こいつの魂が飲まれるのも困るが、この『獣』の体が制御不能になったらそれこそ収拾が付かないよ。
役目は果たした。もう元に戻すべきだ」
フィルロームはソリに積んだ荷物から、異様な臭気をはらんだ粉末を取り出した。ソリに繋がれた狼の片方がくしゃみをして『何ちゅーもんを出してくれとんねん』と言わんばかりに顔をしかめた。
本来は森のエルフ達が儀式に使う触媒の一種らしいのだが、これを用いることで『獣』と融合した魂を引き剥がす事ができるのだ。エウグバルドの研究書から得た情報だ。
もっとも、それはあくまで『理論上可能である』と記されていただけだ。成功するかどうかは分からない。何しろエウグバルドは実験すらしていなかった。……エウグバルドは、それを自分で使おうとは思っていなかった。どうせ『獣』を使うために死んだ身、引き返すことなど考えては居なかったようだ。
「どのみち、カルロスさんの回復を待っている時間は無さそうです。もう魂を引き上げて、『獣』の体は弱ってるうちに≪死門≫で封じましょう」
「それがよさそうだ。
『おい、あんた病み上がりのとこ悪いが力を貸してくれんかね。
弱ってるとは言え、元はあんなデカブツだ。あたしひとりじゃ荷が勝つ』」
『は、はい!』
フィルロームは荷物から短い杖を一本出してエルマシャリスに手渡した。そして、例の異様な臭いの粉末をカルロスにふりかける(カルロスは馬車に轢かれたカエルのような悲鳴を上げた)。
『『……≪死門≫』』
ふたりの影が混じり合って地を這い、カルロスを取り巻いていく……
ここで普通なら影に食われるようにして『獣』が消滅するのだが、その前に、影色の塊の中から青白い頭が飛び出した。
『ぷはーっ! 生き返ったっす!』
「おお、本当に出て来た!」
「でも死んでますよね?」
見慣れたカルロスの顔が、明確に人間の言葉で喋った。
「よかった。上手くいっ…………てます?」
『森の秘宝』をすり潰しながらその光景を見ていたアルテミシアは、異変に気付いた。
『うえっ!?』
浮かび上がろうとするカルロスの体に、粘り着くように影がまとわりついて引き留めている。
さながらそれはトリモチのようだった。
いや、まとわりつくとかくっついているというレベルではない。黒い影の接合部はカルロスとの境界を無くしていた。
――同化しかかってる!?
≪死門≫の力によって、『獣』は影の中に消えゆこうとしている。すなわちそれは、影にからめとられているカルロスも引きずられていくと言う事だ。
『うおおおおおおおおっ!?』
飼い主にリードで引きずられる散歩嫌いの犬のように、カルロスは空中でもがいた。ゴムのように黒い影が伸びて、カルロスと『獣』を繋いでいる。
「おいコラ、気張りな! あんたに≪死門≫を使ったら輪廻に送っちまう。
まだシャバに居たいなら、そいつをブッ千切るんだよ!」
『さすがにこの状況で退場はできねっすよ!』
カルロスは歯を食いしばり、空中で平泳ぎするように手足を掻いた。傍から見ればユーモラスな光景だが本人は必死だ。『獣』とカルロスを繋ぐ影が伸びきる……
「そのまま!」
レベッカが吠えて剣を抜き打った。
鋭い閃きが影を断ち切り、ススのような黒い粒子に変える!
『どわーったあ!?』
影から切り離された瞬間、勢い余ったカルロスは回転しながら木々をすり抜けて吹っ飛んでいき、2分後に戻って来た。
* * *
「ちょっと黒いのが残ってた気がするんですけど、大丈夫ですか?」
『そすか? なんともねーっすけど』
戻って来たカルロスは、幸い特に変わった様子は無かった。
だがそれでもエルフ達の表情は渋い。
「こりゃ確かにまずかった。正直舐めてたね」
『エウグバルド……』
特にエルマシャリスは憔悴しきった様子だ。
カルロスと同じ事を……否、もっとひどい事をエウグバルドはやっているのだ。さらに彼が憑依した『獣』は既に尋常ならざる状態にある。その魂を救い出すことができるのか。
「……アルテミシア」
フィルロームが声を低めて言った。
「待ってください。あとちょっとで全部潰し終わり……」
「そうじゃない、誰か来る」
フィルロームが言ったその時にはもう『誰か』が居た。
樹上を飛び渡ることを想定した最軽装のエルフ兵が草むらに膝を突いている。斥候兵だ。隠密行動の訓練を積んだエルフの気配を森の中で読むのは同じエルフでも難しいのだ。
『フィルローム様。現状のご報告に参りました』
『なんだい、≪虫報≫でいいじゃないか』
『進軍が止まってしまいます故』
『ほう? って事ぁ……』
シワ深い顔を歪めてフィルロームが獰猛に笑った。
『現在、ヘルトエイザ様の部隊が行軍中。それを追って、巫女様方が『獣』を鎮めるべくこちらへ向かっております』
『さすがだ、仕事が早い』
ちょうどその時、アルテミシアの手元では、最後の『森の秘宝』を完全に粉にした所だった。
美しい碧の輝きを放つ液体がポーションの瓶の中に流れ込む。その光は奇跡とも言える命の輝きそのものだ。
「できました!」
『よし、こっちも準備ができた』
その瞬間、光を吸い込まれたように一瞬、ハルシェの街の方が薄暗くなった。
秘宝の輝きとは全く逆の、負の奇跡。光を吸い込む光というおぞましき現象は本能的な恐怖を呼び起こす。
「今のは……!」
「奴め、火を噴いたな」
舌打ちせんばかりにフィルロームが吐き捨てた。
「急ぎましょう……早くあれを止めないと!」
狼ゾリはすぐにまた再び走り出した。
* * *
領軍は恐慌状態に陥っていた。
巨大な化け物が黒い炎を吹いた。それだけなら良い。火を噴く巨大な化け物というならドラゴンだって同じだ。
しかし、その炎がもたらしたものを見てしまった者達は、誰もが恐怖におののいた。
地は白茶けてヒビ割れ、剣も鎧も大砲も脆く砕け、人はミイラ(どこかの地方で作られているという特殊なアンデッドだ)のように朽ち果てて倒れた。炎を浴びた街の防壁は砂と化し、溶けた氷のように崩れた。
もしこれで、ただ燃えただけなら戦意は保たれただろう。焼け死ぬのもミイラになって死ぬのも『死ぬ』という結果は同じとは言え、しかし常識を越えた事態に直面すれば恐怖が先に立つ。
弓が剣が槍が杖が盾が、鎧すらも投げ出され、身軽になった兵達は我先にと逃げ出していった。
「ひるむな! 撃て! 撃てぇーっ!」
操機兵長はそう叫んでから、自分の命令に続く砲音が無いことを訝しんだ。
ふと周囲を見れば、その場に踏みとどまっているのは自分ひとり。右往左往し、てんでんばらばらに逃げ出す軍勢の中にちらほらと部下の姿が見えた。射石砲の半分ほどは炎に飲まれて、ミイラ化した部下の死体と共に朽ち果てていた。
「何たる……」
呆然と呟く。
士気はもともと高くない。領側がエルフに因縁を付けた末の侵攻だという噂もあった。大義名分ではなく、あくまで給金のため。そして『生意気なエルフどもに一泡吹かせてやる』という程度の考え。数に劣るエルフ達を圧倒的戦力で脅かしてやるだけの遠足だという気分で皆、やって来たのだ。この射石砲だって本当は、適当に森へぶち込んでやるため用意してきたものだ。
背後にはハルシェの街がある。未だ避難できていない市民。そして移動を始めたばかりの避難民。身を挺しても守らねばならない。
命懸けで領民を守る?
そう、それは領軍の仕事だ。金で動くだけの傭兵はいざ知らず、領兵は領軍に入る時にそれを誓うはず。
だが何事にも段取りというものがある。気分の切り替えは簡単にはできない。ましてこれだけの大所帯ともなれば……
「ぐ……」
視界のほとんどが黒カビのような汚らしい闇色に埋め尽くされる。巨木のような足だ。
もはや、闇色の化け物は目の前に居た。見上げなければその冒涜的な頭部を確認することができない。
こいつが腕を振るえば街の外壁は容易く崩れ去るだろう。
こいつが炎を吐けば街の一区画が消し飛ぶだろう。
その時、自分の命もついでのように消えてしまうのだと操機兵長は理解した。
巨人の胸元に開いた口から闇の炎が漏れる。
「女神よ……」
運命を呪いかけたその時だ。
横薙ぎの黒い雨が巨人を襲った。
巨体が、揺らいだ。
吐きかけた炎が立ち消えた。
裁縫に使う針山のように、巨人の体に大量の矢が刺さっていた。
何事かと思う間に第二波が降り注ぐ。
巨人の輪郭が朧になった。矢によって体を削られているのだ。
森の中で機動戦を行うための軽装甲。一本の木から削り出して作る美しき大弓。
エルフの兵団が戦列を組み弓を射かけていた。
『射て! 射て!
一本では通じずとも十本! それでも足りなきゃ百本だ!
掠り傷だろうとダメージを通せ! 奴の歩みを少しでも遅らせろ!』
自らも巨大な弓を引き絞るエルフの戦士……ヘルトエイザが檄を飛ばす。
操機兵長にエルフ語は分からなかった。しかし彼らが味方であることは分かった。
何が起こっているのか分からなかった。この化け物はエルフが領軍を倒すため操っているものとばかり思っていたからだ。……仮にそうでなかったとしても、エルフがついさっきまで戦っていた人間を助けるため行動するとは思えなかった。
さらに矢が射かけられる。闇色の巨人はエルフ達による攻撃など気が付いていないかのように先へ進もうとするが、攻撃と再生が拮抗するその一瞬、確かに動きを鈍らせていた。
そんな中、矢の嵐を迂回するように高速で草原を駆け抜ける何かが走り込んでくる。
巨大な狼二頭立ての浮遊する狼ゾリという正気を疑う代物だ。……実はエルフ達がしばしば軍事的に利用する代物なのだが、操機兵長はそれを知らなかった。
そしてそのソリの上に立つ、戦場には似つかわしくない小さな人影を操機兵長は見た。
信じがたいほどに美しい少女だった。
歳は10と少しに見える。晴れた空のように青いワンピースに純白のエプロン、そしてウサギの耳のように大げさなリボン。幼気さと大人びた知性が調和する青水晶の目。
造形美の極致を極めた体躯は一見触れれば折れそうなほどに華奢なのに、風にしなる大樹のような強かな印象はどこから湧いて出る?
たなびく髪は羊毛のようにふわりとして、目が醒めるような新緑の色をしていた。
狼ゾリの縁に掴まって立つ彼女は、ただ一心に闇色の巨人を睨み付けていた。