9-48 胎動
【 ―― Print("勝負あり、だな") ―― 】
エウグバルドは、自分のかぎ爪を顔の前に掲げて、舐めるように見ながら悠々と言い放った。
カルロスは、ひどく小さくなっていた。もはや人の形ですらなく、ひと抱えほどの闇色スライムがのたくっているような状態だ。
最初の一瞬はカルロスが優位に立った。だが、その体の大きさによる力の差……そして何より、再生能力の差が決定的だった。
かぎ爪に削り取られたカルロスの体が、闇色の霧のごとき粒子となって周囲を漂っている。それは徐々にカルロスの体に戻りつつあったが……
【 ―― Print("ぬっ") ―― 】
ボッ、と控えめな発射音が響く。
エウグバルドの胸部を、狙い澄ました射石砲の弾が貫いた。
砂をまき散らしたように闇の粒子が散り、大穴が開いたが……みるみるうちに肉が盛り上がり、再生していく。
強大な肉体を作ったエウグバルドは、『獣』の再生能力も極限まで高めていた。しかし対するカルロスにそこまでの再生力は無かった。通常の『獣』と比べればカルロスの力とて規格外だが、エウグバルドはその遙か上だったのだ。
【 ―― Print("そこで無様に這いつくばっていろ") ―― 】
無感情に言ったエウグバルドは、遠隔攻撃をうるさく仕掛けてくる領軍の方に向き直る。
さらに続く射石砲の一撃を、ハエでも払うようにかぎ爪で弾いた。
【 ―― Print("これから、どうするんすか……") ―― 】
もはや闇色の肉塊でしかないカルロスが、墓場で恨み言を呟く亡霊のように(実際彼は亡霊だが)どこからか声を発した。
【 ―― Print("気になるならそこで見ていろ。お前が再生する頃には全て終わっている") ―― 】
【 ―― Print("復讐、なんすか……") ―― 】
カルロスに背を向け、領軍に襲いかかろうとしていたエウグバルドは一瞬足を止めた。
カルロスはアルテミシアの推理も聞いておらず、事情をおぼろげにしか理解していない。しかしそれでもエウグバルドが何らかの復讐か八つ当たりのため動いていることくらいは察することはできた。
【 ―― Print("黙れ! 貴様に何が分かる!") ―― 】
【 ―― Print("どんな理由があっても、こんな非道……! 輪廻の女神様に見捨てられちまうっすよ!") ―― 】
【 ―― Print("神など居るものか!") ―― 】
小心だが善良な領兵だったカルロスは、一般市民として標準的な信仰心を持っていた。
そんな彼の純朴な警句を踏みにじるように、エウグバルドは細い足をズンと踏みしめる。
【 ―― Print("居るのなら俺が殺す!!") ―― 】
決然たるその一言と共に、エウグバルドは邪魔者から意識を引きはがす。
頭の中にあるのは、この先の算段だけだ。
カルロスの敗北を見て取った領軍は、防御や逃走の準備をしながらも次の攻撃を準備している。
射石砲に弾が込められ、魔術師達が詠唱を行う。
いかにして効率よく彼らを殺すか、エウグバルドは考えていた。
カルロス以上に大規模な邪魔が森側から入ることは、もう無いだろう。だが、すでにエウグバルドの予測は一度破られている。のんきにしていてはどんな手を打たれるか分かったものではない。
やはりまずは魔術師を排除するのが得策だが、そのためには……
『待って!』
その時、聞こえるはずのない声を、エウグバルドは確かに聞いた。
太陽すら覆い隠すような、天を突く巨体。
その麓に狼ゾリは到達していた。
運転席には腕を組んで悠々と巨体を見上げるフィルローム。ソリを引いてきた巨躯の狼たちは、牙を剥いてエウグバルドを威嚇し、警戒している。
その荷台では、レベッカに支え起こされたエルマシャリスが声を張り上げていた。
ポーションの助けを借りて、ようやく虫の羽音のような声を発するエルマシャリスが。
【 ―― Print("エルマ、シャリス……?") ―― 】
たとえ数十年の時を隔てていても、今のそれが聞くに堪えないほどのひび割れた声だろうと、聞き間違えるはずもない。
脳裏に焼き付いた数々の記憶がフラッシュバックする。走馬燈のように。
『お願い、エウグバルド。こんな事はもうやめて!』
【 ―― Print("そんな馬鹿な。本物か? 君は……何故、ここに……") ―― 】
射石砲がエウグバルドの胸を貫き、狙い澄まされた連携詠唱攻撃魔法による光線が頭を吹き飛ばす。
それでもエウグバルドは呆然と立ち尽くしていた。粒子と散った体組織が、じわじわと元に戻っていく。
狼ソリに乗った者達は、荷台の一点を見ている。
不自然にクッションが置かれた空席を。
――空席?
いや、おかしい。何かがあるはずだ。だがそれは、エウグバルドの世界が切り抜かれてしまったかのように、認識することができない。
『よう小僧、聞こえてるね?』
ニヤニヤと笑いながら、フィルロームはエウグバルドを見上げる。
『獣』の言葉は生ある者に理解できないのだと、エウグバルドは研究の中で知っている。だが、フィルロームの口調は嫌に確信に満ちていた。
研究書を読んだからだろうか? いや、まるで今の独り言を見えない誰かが通訳したような……
『あんたにゃもう、アルテミシアが見えないってのは本当かい? すぐそこに居るんだがね。
まあそこはどうでもいい。
アルテミシアに発明されたばっかりのポーションが、こいつに覿面効いたのさ』
まるで怪しい詐欺師のような(里を離れているエルフは、森育ちの世間知らずだろうと思われてよくそういう奴に声を掛けられる)フィルロームの解説。
そんな都合の良い話があるわけ無い。あるわけ無いのだが……
意識の無い者を操り人形のように動かす魔術、あるいは幻影……
エウグバルドは、己の豊富な知識を隅から隅まで洗いざらい思い返し、彼女が偽物である可能性を考えた。
だがその全てが、『獣』という魂そのものに近い姿になることで研ぎ澄まされた、魔術師としてのエウグバルドの超感覚に否定される。そこにエルマシャリスは確かに存在しているし、感知できる魔力は何らかのささやかな強化ぐらいだった(ポーションによる身体強化だ)。
『私は、もう大丈夫だから……エウグバルド、こんな、誰のためにもならない事は止めて!』
苦しげに胸を押さえ、脂汗をにじませながら、エルマシャリスは叫んだ。
ひび割れた小さな声で。精一杯の声で。
掲げていたかぎ爪が、重力に任せるようにだらりと垂れた。
言われるまでもない。
彼女が助かったと言うのであれば……
復讐の必要など、どこにある?
【……DELETE】
それを最初、エウグバルドは、射石砲の発砲音か何かだと思った。
【……KILL】
次は、耳元で囁くように、それが聞こえた。
*
「ん?」
本人以外で、異変に最も早く気付いたのはアルテミシアだった。
【KILL! DELETE! ―― Print("やめろ、違う、俺は、もう、そんな……") ―― KILL! DELETE!】
エウグバルドの声に、謎のノイズが混じった。
意味不明で聞き取れない、何かが。
「なに……?」
「どうした?」
「苦しんでます」
エウグバルドは、エルマシャリスでもアルテミシアでもない何かと喋っているかのようだった。
落ち着かなく辺りを見回すような仕草をして、やがて身悶えする。
【KILL! DELETE! ―― Print("ああ、そういう事か……! これの本質は、戦い、殺し、壊すこと……! 戦うことを止めれば、俺への抵抗に……!") ―― KILL! DELETE!】
頭を抱えるような姿勢で、巨体が倒れ込んだ。
「危ない!」
訓練されたソリ狼二頭は、フィルロームの指示すら待たず急発進。
ヒモのように細い膝を付いたエウグバルドを避けた。
【KILL! DELETE! KILL! DELETE! ―― Print("ぐお、あ、があああっ! やめろっ!") ―― KILL! DELETE! KILL! DELETE!】
うずくまって頭を抱えるエウグバルド。
もはやエウグバルドの言葉は、アルテミシアにも聞き取り難くなっていた。
常人には、奇怪なノイズの集合にしか聞こえない声。今やアルテミシアにも、ほとんど同じものが聞こえている。
苦しげにエウグバルドは胸を掻きむしった。
いや、それは自ら胸を抉っていると言うべき行動だった。
『自分を傷つけている……?』
フィルロームが訝しげに呟いた。
かぎ爪が、胸部を深々と抉る。右腕が左腕を切り落とす。地面に打ち付けられた頭が、べしゃりと、落としたアイスクリームのように形を崩す。
だが、再生の方が早い。
肉体を一度は離れた闇色の粒子が、すぐに『獣』の体となる。当然だ。そういう仕組みなのだから。それだけの再生能力を備えるよう、エウグバルドが作り上げた体なのだから。
【KILL! DELETE! KILL! DELETE! KILL! DELETE! KILL! DELETE! KILL! DELETE! ―― Print("ダメだ、止まらない! 逃げろ、エルマ……!") ―― KILL! DELETE! KILL! DELETE! KILL! DELETE! KILL! DELETE! KILL! DELETE!】
その、ノイズに埋もれた叫びが最期だった。
ぶるぶると震えていた黒い巨体に、びしり、と亀裂が入った。
さなぎが脱皮するように表面が崩れ落ちていく。中から細い針金のような芯が姿を現した。
そして、一旦は崩れ落ちた闇色の粒子が新しい体に纏い付き、編み上げていく。
『獣』の形が変わった。
体とアンバランスな巨大な腕は、少し控えめに。
細すぎた足と胴体は、隆々たるものに。
均整の取れた、鍛え上げられた肉体を形作る。
そのおぞましい色合いを別とすれば、一種の造形美ですらあった。
だがその胴体の上には、冒涜的な光景があった。
あの球形の頭部は失われていた。言うなれば首無し状態だ。
しかし、頭の代わりに奇妙なものが生えていた。
誕生日のケーキに飾ったロウソクのように、影で形作られた胸像のようなエウグバルドの上半身が、胴体の上に多数並んで生えていた。それらは微動だにせず、それぞれに異なる苦悶の表情のまま静止している。
【 ―― Engage; SetTarget(Sight) ―― 】
狼ソリが駆け抜けた直後。
さっきまで五人と二匹が居た場所を、死のかぎ爪が深々と抉り飛ばしていた。
* * *
「……!」
マナは弾かれたように顔を上げた。
ここ1カ月ほどアルテミシア達が滞在していた部屋も、今はマナひとり。ずっと子守役だったカルロス(あまり役に立ってはいない)まで出払ってしまい、ひとりお留守番を言い渡されていたのだ。
必死で読み解かされた研究資料は、机の上で土砂崩れを起こしている。床にはエルフの幼児向けに里で作られた、木工のオモチャ。
机の上の水差しには、水で割った鎮静ポーション。食事の後、言われた通りの量を飲んだ。
『獣』の気配をマナは感じていた。ずっと感じていた。
だが、今感じたのは、さっきまでより強大で、より邪悪な気配だった。
「いかなくちゃ……」
突き動かされるようにマナは立ち上がった。壁に立てかけてあった杖を手に取る。
ゲインズバーグの街で出会った、4人と1幽霊の顔が脳裏をよぎる。
『行かなくちゃ……』
彼女はもう一度、エルフ語で呟いた。