9-47 今や遅き奇跡
工房に戻ったアルテミシアは、再び調合に取りかかっていた。
――性質は見えてきた。
撹拌される乳鉢の中身は、粘性のある藍色の液体となっている。
――これは、パワーが足りない。何か強い材料が欲しい。
たぶん、薬草だけじゃ足りないんだ。
今のバランスを壊さずに、薬に魂を吹き込める材料があれば……
だが、この工房には本当に薬草しか無い。それは以前手伝った時に確認済みだ。
可能性があるとすれば、エウグバルドが燃焼ポーションを作るために集めた材料……薬草以外もあるはずだが、仮に残っているとしてもどこにあるのか、まず探さなければならない。
あるいは、星詠草を抱えてハルシェの街まで出向き、材料を探すか。ある程度大きな街なら、基本的なポーションの材料は揃うはず。貴重な時間をそれなりに使ってしまう事になるが……
「ううん……もしかしたら!」
ふと思い立ったアルテミシアは、エルフ基準の座高が高すぎる椅子から飛び降り、調合机の下に置いたポーション鞄を取り出した。
中にはいつも常備しているポーション類の他に、自前の調合器具。そして……
贈答用めいた高貴な雰囲気の木箱。ルウィスから送られ、旅の途中で受け取った竜の耳骨だ。
大きめの消しゴムみたいなそれを、同じく鞄から出したミスリルのトゲを付けたおろし金にかけ、墨をするように削り取る。意外にも軽い手応えだった。
削れた骨粉を乳鉢に流し込み、軽くかき混ぜると、今まで最大でも70台で止まっていた『精神修復』の効果値は一気に80まで上昇した。
「これ!」
他の数字の変動も見つつ、アルテミシアは数種の薬草をつぎ足す。バランスを取りつつ、後はもう少し、耳骨を足せば……
いつしか、工房内のエルフ達は皆、固唾を飲んでアルテミシアを注視していた。
骨、薬草、薬草、骨、薬草、薬草、薬草……
小さな手がある種の確信に導かれるように、未知のポーションを作り上げていく。
やがて、その乳鉢の中身は青白く輝き始め……
* * *
エルマシャリスの病室は、一度エウグバルドに誘われて訪れた時のまま。
里で大事件が起こっている中であるにもかかわらず、時が凍り付いたように奇妙な静寂を保っている。
本当ならヘルトエイザを立ち会わせたかったアルテミシアだが、呼びに行っている時間が惜しい。
伴うのはフィルロームひとりだ。今は彼女に代わってレベッカが、マナの口述書記をしている。
『そのポーションを飲ませるのですか?』
吸い飲みに注がれていく藍色の液体を見て、看護役のエルフは胡乱げな視線を向ける。
何故今そんなことを、とでも言いたげだ。日々、同じ時間に同じポーションを飲ませるだけで、体の維持には足りているのだから。
『彼女を助けられるかも知れないんです』
『……そう』
生返事が返った。彼女は立場上、この場所に詰めていなければならないのかも知れないが、外での騒動に気もそぞろという雰囲気だ。
こんな時によくわからないお願いを持ち込んだのだ。フィルロームの同行がなければ門前払いされていたかも知れない。
看護のエルフは、慣れた手つきでエルマシャリスの上体を起こす。眠たげに目を開けたまま、脱力しきって身じろぎひとつしない体……しかし、静かに彼女は呼吸しており、時折瞬きもしている。
……生きてはいるのだ。
『では、これを……』
アルテミシアはちょっと背伸びして、エルマシャリスの口にポーションを流し込んだ。
完成したばかりの精神修復ポーションを。
壁に寄りかかったフィルロームは、腕を組んで楽しげに見守っている。
うまく姿勢を変えることで、エルマシャリスにポーションを飲み下させる。
数秒間、アルテミシアは固唾を飲んで見守った。
己のチートスキルを信じてはいるが、だからと言って、このポーションが効くかどうかはまだわからないわけであり……
その時突然、エルマシャリスの体がびくんと跳ねた。
『ひっ!?』
それこそゾンビでも見るように驚いたのは、彼女を支えていたエルフだ。
彼女の手を離れたエルマシャリスはその勢いのまま跳ね起きようとして……身を折ってベッドの上にうずくまった。
『う、うう、あ、わ、私、は……』
カラカラにひび割れたか細い声が、エルマシャリスの喉から走り出た。
『効いたか! でかした、アルテミシア!』
『そ、そんな、そんな!?』
スポーツ観戦に来た若者みたいな勢いでフィルロームはガッツポーズを作る。
看護のエルフは、あわあわとうろたえるばかりだ。
無理も無い。これは、あり得ないことなのだから。例えば、石炭を燃やしたエネルギーで鉄の車が走った時、機械が遠隔地に音声を伝えた時、それを目撃した地球の人間達はこのように反応したのだろう。
『……エルマシャリスさん。分かりますか? ご気分は?』
『分かります……全部分かります』
彼女の声は囁くようだった。声量が出ないのだ。
『私は聞いていたし、見ていました……だけど、ついさっきまで心が死んだようになっていて、何が起こっても何も思わなかった……指一本動かそうと思わなかった……
ああ! このままでは!』
ガバと跳ね起きベッドから飛び起きるエルマシャリス。
しかし、彼女は生まれたばかりの草食獣のように、腰砕けになって床に崩れ落ちただけだった。
『あぁっ……』
『大丈夫ですか!?』
立とうとした。
ただそれだけでエルマシャリスは汗だくになり、箱根を走りきったランナーのごとくヒューヒューと荒い呼吸を繰り返すばかりだった。
――人間は、六週間寝たきりでいると筋力の99%が衰えるって話があったはず……!
いくら魔法で保護されてたって言っても、何十年も寝たきりだもん!
『落ち着いて、これを飲んでください。筋力と体力の補助になると思います』
『ありがとう……』
アルテミシアが、膂力強化と持久体力の混合ポーションを渡すと、エルマシャリスはむせそうになりながらそれを飲んだ。
新緑色の髪が乱れ、頬に張り付いている。
『貴女が何者でもいい……あの人を、エウグバルドを止めて……
きっと……恐ろしいことをしようとしている……』
声を振り絞るようにして、エルマシャリスは言った。
これさえ伝えることができたなら、もう喉が潰れてしまってもいいというかのように。
『……エウグバルドさんは、何をしようとしているんですか?』
『分からない……ただ、ついさっき……二時間ほど前かしら。私の所へ来て、別れの挨拶に来て……言ったの……
『人間に痛みを』、と……それっきり、行ってしまったわ』
『『痛み』……?』
――人間に? エルフでも部族でもなくて?
抽象的で雲を掴むような言葉だ。
だが、その意味を考えた時、アルテミシアの頭の中で雷光が爆ぜた。
全てのパーツが、繋がった。
『ああ……そうか、そうか、そうだったんだ!』
* * *
ごうごうと風を裂いて、巨大な犬ぞりは森の中を駆け抜けていく。
アルテミシアの倍以上は体重がありそうな、二頭の飼い慣らされた屈強な狼が、魔力によって地面から僅かに浮遊するソリを引いて、道無き森の中を疾走する。エルフは滅多にこうした乗り物を使わないが、荷物の運搬用に里に配備されていたのだ。
御者席に座ったフィルロームは、悠々と足を組んで狼の背中を見ているだけにも見えたが、彼女がコツリと踵を鳴らす度、狼たちはそれを敏感に聞き取って進路を調整していく。
『あの族長とヘルトエイザさんの暗殺が、上手くいっていたと仮定します』
風の音に負けないよう声を張って、アルテミシアは推理を披露する。
荷台にはワラ布団が敷かれ、エルマシャリスが寝かされている。
それを囲むように、アルテミシア、レベッカ、アリアンナが同乗していた。
エルフ語の全く分からないアリアンナには申し訳ないと思ったが、エルマシャリスに聞かせることを優先し、アルテミシアはエルフ語で話していた。
『混乱を来している間に、戦いは負けに終わります。
エルフ兵は領兵に対して、圧倒的に数が少ない……
大敗を喫したら、そのまま壊滅的損害を受けていた可能性もあります。
もしそこで、超強力な『獣』が大暴れしたらどうなるでしょう?』
『そりゃ考えるまでもないね』
フィルロームはあざけるように言った。
『全滅もあり得る』
人間との戦いで弱ったところに、あんな強大な『獣』が出れば泣きっ面に蜂だ。
戦える者のほとんどが死に絶えてしまい、里を捨てて逃げるしかできなくなるという可能性すら十分にある。
『問題はその先です。ふたつの事が起こります。
ハルシェーナの森のエルフは単純に数を減らし、有力な指導者とその後継者を失う。自治権は縮小し、長期的に見てカイリ領に政治的に飲み込まれていくでしょう。
そして、それでも『獣』が減るわけじゃありません。一気に数を減らした兵士を補うため、『湖畔にて瞑想する蔓草』は、周囲の部族にも『獣』との戦いをさせざるをせず……それでも足りず、人間に頼る』
『なんてこった……』
いろいろな意味が含まれていそうな言葉を、フィルロームが漏らした。
他部族を戦わせることすら、あり得ないはずだった。だがエウグバルドはそれを飛び越えて、人間すら『獣』と戦わせようとしているのだ。エルマシャリスを見舞った時の、彼の言葉がヒントだった。
『この森を政治的に飲み込み利権化すれば、人間だって『獣』を放っておく訳にはいきません。
もはや誰もが『獣』のために血を流さざるを得ない。社会の変革。みんな一緒にジワジワ煮殺されていく平等な不幸。
それが、エウグバルドさんの復讐……だったんだと思います』
エウグバルドは、エルマシャリスの事をどう思ったのだろう。
犠牲?
人柱?
生贄?
『もし、他のエルフ達が戦っていれば』
『もし、森の外の人間が戦っていれば』
それは、言ってみれば八つ当たりでしかない。しかし自然な感情でもあった。
おそらくエウグバルドはその時から、エルフ達すら仲間とは思えなくなっていたのだろう。今、無事に生きている者達は、ただひとりの例外も無くエルマシャリスの犠牲の上に存在しているのだと……
『そんな……! 私のため……っ、あ、かっ! ごほっ、ごほっ……』
『ごめんなさい、大丈夫ですか? 落ち着いて、落ち着いて……』
陸に打ち上げられた魚が跳ねるように、エルマシャリスがむせかえった。
多少の緊張すら、今の彼女には毒なのだ。アリアンナが彼女の体を横向きにして背中をさすった。
『……ただ、エルフの里があんまり迅速に潰れちゃうとダメなんですよね。戦いの勢いのまま領兵団に吹き飛ばされる可能性もあるけど、エウグバルドさんはそれを望んでない』
――第一の理由は、たぶん……真綿で首を絞めるようにしっかりガッツリ苦しんでから滅んで欲しいってこと、かな。
一秒でも長く苦しみ、『獣』を相手に戦うという痛みを味わわせる。
エウグバルドはそのつもりだろう。……エルマシャリスに気を遣って、口には出さなかったが。
だが、理由はそれだけではない。
『……そんな事になったら、エルマシャリスさんがどうなるか分かりません。
エルマシャリスさんの身の安全のためにも、今の戦争そのものはすぐに終わって欲しいし、里の形は残って欲しいと思ってるんですよ、エウグバルドさんは』
『エウグバルドがそう考えてると思う理由は?』
『エウグバルドさんが、戦いを終わらせるための交渉役を用意しておいたからです。つまり……わたし』
フィルロームもエルマシャリスも、レベッカまでもが意外そうな顔をした。
こんな言い方をするのは自意識過剰なようで少し恥ずかしいアルテミシアだったが、今の状況はそうとしか思えない。
エウグバルドはもう里に帰ることは無いだろうから、後を誰かに任せなければならなかったのだ。
『できるのかい? そんな事が……』
『できなくはないと思います。人間向けには最近の事件で名前が通ってるお姉ちゃん、森向けには元巫女であるフィルロームさんを立てて、わたしが二人羽織で動かす形なら文句も出なかったはずです。
そもそも、わたしたちは既に里の人たちから、それなりに認められています。里の代理人となることに、そこまで抵抗は出ないと思います。
そして、コネが出来た有力者をテコにして、領や国との交渉をまとめる……仕事を手伝うのを口実として、エウグバルドさんがわたし達を領側の有力者に引き合わせていたのは、そのためのコネ作りです。
基本的にレンダール王国側は、短期的には戦いを止める方向で動くはずなので、それも追い風になります』
その場合、おそらく領側の責任は、『獣』の大暴れによって大部分がうやむやになっていたはずだ。
国側から多少の責任追及はあるだろうが、人口・戦力ともに激減したハルシェーナのエルフ達が、カイリ領の支配下に置かれるのは既定路線だろう。
あとはそれを軟着陸させる要の交渉役が必要だ。エウグバルドが信頼を置けるだけの頭脳の持ち主が。
それは自分だったのだと、アルテミシアは察していた。
『その報酬として、薬草地は十分すぎます。
焼かれていた手紙は、『あれは今のところ君のものだが、領に接収されたくなければ仕事してくれ』って意味ですよ。それだけの価値があります。慎ましく生きれば一生不労所得で暮らせるレベルです。暴落でも起こらない限り……ですが』
『それでだ、アルテミシア。元々そういう企みだったのは分かった。今はどうなんだい?』
そう、ここまで語ったのは当初のシナリオだ。
それはアルテミシアが暗殺を阻止したために、入り口の時点で破綻していた。
『……エウグバルドさんの企みは、最初で大きく躓きました。族長も、ヘルトエイザさんも生き残った……今はきっと、最小限、達成可能な目標を達成しようとしているはずです。
もう森の中の事だからと『獣』を放っておけないほどに、『獣』の存在を印象づけ、人間を『獣』との戦いに引きずり出すこと……
『獣』の恐怖を人間に知らしめること……すなわち、ひとりでも多くの人間を殺すこと、かと』
ただでさえ顔色の悪いエルマシャリスがますます青ざめる。
『手紙を焼いたのは、今となっては意味が無いから。
族長とヘルトエイザさんの暗殺が失敗した以上、これ以上の森の政治的弱体化は諦めた……
それよりも、あんなものがあることで里の者からわたしが疑われたら、余計な火種になると思ったんでしょう』
手紙を焼いたくせに大切な研究資料を残していた理由も分かる。
あれは迷信と宗教的逸話に彩られた『獣』のヴェールを剥がす銀の弾丸だ。特に、森の秘宝が何であるかという点は。
あれの存在を知れば、もはや『湖畔にて瞑想する蔓草』は今のままで居られない。戦いを独占することを自ら放棄するかも知れない。
『『太陽に向かう燕』の里を徹底破壊したのは、あそこが人間の出入りも激しい商業ハブだからだと思います。
森側が無傷では、あの『獣』が森のために戦ったのだと誤解されて、森に責任をかぶせられかねない。それでは意味が無いんです。
だから、適度に森側にも被害を出した。……とても分かりやすい。
もう、エルフ兵を積極的に殺す気は無かったと思います。みんな、『獣』は自分に襲いかかって来るものと思って必死で攻撃するから……邪魔になって排除した、というだけで、主眼は里の破壊だと思います』
言うなれば、エウグバルドがやっているのは壮大なマッチポンプだ。
だが、安っぽい噂話めいた陰謀などではなく、周到に形作られた計略だった。
たったひとりの動きによって、本当に社会を変えるつもりなのだ。
寝かされているエルマシャリスが、やせ衰えた手だけを伸ばし、アルテミシアの手を掴んだ。
『……め、て……とめ、て……あの、人を……』
『はい。止めます』
すがるような視線。
ほとんど力の加わっていない彼女の手を、アルテミシアは握り返した。
『ちょっとだけ、わたしの責任もありますからね……』
アルテミシアはソリの進む先を睨み付けた。
知らずとは言え、エウグバルドには少しばかり手を貸してしまった。
そして、結果論でしか無いが、もし精神修復ポーションの可能性をエウグバルドに話していれば、こんな馬鹿馬鹿しい企みを実行に移しはしなかっただろうという後悔がアルテミシアにはあった。