9-46 This is not TSUBURAYA.
ズン……と震えが伝わってきて、雑貨屋の軒先につられた看板が揺れた。
ハルシェの街は騒然となっていた。街の通りに聞こえるのは、パニックを起こして逃げ出す人々の足音、親とはぐれた子どもの泣き声、尾ひれが付いた戦況の噂、射石砲の発射音、兵士達の鬨の声、魔法による爆発音、そして……重い地響き。
石を組んだ外壁の向こうに見え隠れする、艶めいた球形の頭部。
振り上げられ、禍々しく太陽を反射するかぎ爪……
森を出た『獣』は今や、ハルシェの街の手前の平原地帯、領軍の駐屯地まで迫っていた。
対する領軍は……雇い込んだ傭兵の半分くらいが『報酬より自分の命だ』と逃げ出してしまったが……侵攻する『獣』の前方に割って入るように展開していた。
この巨体を相手に通常の武器で攻撃を行うことは困難を極める。
近づけばかぎ爪による必殺の一撃で、瞬きの間にダース単位の死者が出る。
そもそも、いくら勇敢な兵でもあんなものに近づきたいわけがない。
必然的に、『獣』との戦いは遠距離戦となった。
「放てぇっ!」
ヘルメットのような兜を被った操機兵隊長の合図で、四門の射石砲が一斉に火を噴いた。
発射音は爆竹が弾けたような軽いものだ。性能が悪い火薬の爆発でなく、充填された魔力によって、大岩に推進力を与えられ発射される。
魔力反応の残滓である鱗光を宙に描きながら、四つの大岩が黒い巨体に吸い込まれ……胸部に大穴を穿った。
『獣』の巨体が衝撃に揺らぐ。しかし、操機兵隊長の顔は優れない。この攻撃が徒労である事は既に分かっているからだ。胸に開いた穴は、見る間に埋まっていく……
「……おい、残弾いくつだ!」
「30もありません!」
「クソッタレ! なんなんだあいつは! エルフはあんな化け物を飼い慣らしているのか!?」
その『化け物』がエルフの里まで蹂躙していることを知らず、隊長は忌々しげに叫ぶ。
砲撃を呼び水にしたように、攻撃魔法や弓矢が叩き込まれるが、それは化け物の体の表面を少しばかり削るに留まる。そしてすぐに、元に戻ってしまう。
『獣』の巨体に対して、その攻撃は、小石が飛んできてぶつかっているようにしか見えなかった。
と……その『獣』の身長が突然縮んだ。
いや、違う。太ももの辺りまでが地面に埋まり込んだのだ。
地属性の魔法による地形変動で捕獲したのだ。大穴はさらに深まり、獲物を丸呑みする蛇のように巨大な影を取り込んでいく。
だがそれも、ほんの数秒のこと。
黒い怪物が腕を振ると、地面には、痛々しく抉られた痕跡がいくつも付けられ、土砂が舞い上がる。穴を広げた『獣』は、のっそりと這い出すと、お返しとばかり、抉り返した地面を投げつけてきた。
「うわああっ!」
まるで土遊びをする子どものような仕草だが、この巨体がやると洒落にならない。
さすがに射石砲の弾のようにはいかず、空中でばらけてしまったが、その土砂の量は兵を怯ませ、隊列を乱し、一時的に行動を阻害するには十分だった。
その土かけ攻撃で、魔術師が狙われていたのである。
魔法による妨害が途切れ、軍の対応能力が損なわれる……
その一瞬を、『獣』は見逃さなかった。
「うわ……」
攻撃を受けた兵は、叫ぶ暇もあらばこそ。
急速に距離を詰めた黒い巨体が、かぎ爪を振り上げ……
その時。
ザッ……と、落ち葉をホウキで掃き集めたような音がした。
その奇妙な音を、戦場に居た誰もが聞いた。
ハルシェーナの森の中から、垂直に跳躍する蛙のように、何かが空へ飛び出していた。
それは小さな黒い影……いや、大きい。高速で飛来するそれは、近づくにつれて巨大さを示す。
それを見た『獣』は……10mの大きさとかぎ爪を持つ『獣』は、驚愕していた。
何故なら、高速で飛来するそれもまた、『獣』だったからである。
【 ―― Print("…………ぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおっ!!!") ―― 】
人には理解できない、『獣』の声。
空中を飛来する『獣』は接近時のドップラー効果を掛けた、悲鳴じみた雄叫びを上げていた。
子どもが粘土をいじくったように拗くれたフォルムの胴体。
プロテクターを付けたように盛り上がった肩と裏腹に、腕部は鎖のように細く……その先には手ではなく、握り拳のような奇妙な鈍器となっていた。言わば腕全体が鎖鉄球めいた形状なのである。
その身長は、目測でおよそ6m。
かぎ爪の『獣』よりは小さいが、空中で振りかぶられた鉄球状の腕は巨大であり……
【 ―― Print("らああああっ!") ―― 】
着地の勢いに合わせて振り下ろされるそれを、かぎ爪の『獣』は……エウグバルドは無視できず、頭上でかぎ爪を交差させて受け止めざるを得なかった。
鐘を打ち鳴らしたような重い音を立て、影と影がぶつかり合う。
空気が震え、攻撃を受けたエウグバルドの足は地面に1mめり込んだ。
【 ―― Print("何者だ……?") ―― 】
草原に着地した、自分の胸ほどまでの『獣』……
だが、これほどの『獣』であっても、出現すれば森は大騒ぎになる。
もうひとつの、あり得ざる存在……
【 ―― Print("通りすがりのゲインズバーグ領兵っすよ!") ―― 】
鉄球腕の『獣』は、キュビズムの技法を用いて描かれた絵画のような顔で、歯を剥いて笑った。
*
大量の研究書類を処分しないどころか、整理して残したのは、『短時間であの書類を読み解いて対処されてしまう危険性』と『あの研究成果を残すことによる利益』を天秤に掛けた結果だ。
エウグバルドは、偶然身につけていた超マイナーな言語・古代エレイラ語で書類を記述することで前者のリスクを低減した。
古代エレイラ語は文法や語彙が洗練されており(単純とも言う)、現代語に対応させた辞書のひとつもあれば、たとえ専門的研究書であっても読み解くのは容易い。そういう点でも都合が良かった。
知る者自体が少ないだけで、学習も容易だ。エウグバルドはこのシステマティックな言語を気に入ってから、一週間でほぼ完璧に読み書きできるようになった。これは100以上の言語を操り、言語の学習に慣れたエウグバルドだからこそだが、常人でも1カ月あれば十分だろう。
それでいて、今、里にこれを読める者は居ない。理想的と言えた。
……そのはずだったのだ。
エウグバルドが最も警戒したのはアルテミシアだったが、エルフ語すら読めないアルテミシアがこんな言語を扱えるはず無いだろうと警戒を解いた。
それは結果的に判断ミスであった。
もっとも、それは滝口まなという異世界人が持ち込んだ超常的能力によるズルであったのだから、エウグバルドの計算は99%正しかったと言えるのだが……
だが、仮に解読されたとしても、よりによって対抗する『獣』を生み出して自分にぶつけるなどという冒涜的な手段を取るとは思っていなかった。
【 ―― Print("その体を構成するには、糧とする魂が百でも足りないはず……") ―― 】
目の無い顔で(なぜか視覚はある)カルロスを睨み付けるエウグバルド。
自らの魂を『獣』に乗せることで今や『獣』そのものと化したエウグバルドだが、これほどの『獣』を作り出すのは苦労した。なにしろ『獣』を巨大化させる材料は、人の魂なのだ。獣や草木の魂で多少の代用は利くが、どう足掻いてもここまでの巨体は作れない。
エルフは死者の魂を死霊魔術によって送る風習を持つ。ゆえに、それをこっそり集めて材料にすることはできない。部族の者に悟られないよう、長い時間を掛けて人間の社会から罪人の魂などを少しずつ集めて蓄え、それを使って最大最強最悪の『獣』を生み出したのだ。
エウグバルドに及ばないとしても、カルロスの体を作り上げるには、一朝一夕に集まるような量の魂ではないはずで……
【 ―― Print("ああ、そうか、そうか……! 俺が殺したエルフの魂を材料にしたな!") ―― 】
その顔に歯と口があれば、エウグバルドは歯がみしていただろう。
『獣』と相対する事が多いエルフ兵は、魂を獣に食われないよう、魔術的な防御手段を備えている。今や『獣』と化したエウグバルドは、虐殺したエルフ兵達の魂を始末することができなかった。
それが何か問題を起こさないかと気にしてはいたのだが……まさか、このように使われるとは想定していなかった。
【 ―― Print("『材料』なんて言うもんじゃねぇっすよ。あんたの仲間じゃねぇすか。それに…………みんな、無理やり詰め込まれたわけじゃねぇっす! これ以上、同じ目に遭う奴が出ねぇように! それと、自分を殺したあんたが許せないって! 自分の大切な人を殺したあんたが許せないって! 俺に力貸してるんっす!") ―― 】
カルロスはキュビズム絵画のような顔で吠えた。
彼はこの事態を、ゲインズバーグを襲った悲劇に重ねていた。
【 ―― Print("せっかく言葉が通じるようになったんすから、聞かせてもらうっすよ……こんなひでぇ事、どうしてできるんすかああああああ!?") ―― 】
【 ―― Print("ぬっ!") ―― 】
鉄球のごとき手がうなりを上げて振るわれ、かぎ爪とぶつかり合う。
まるで鉄の武器が激しく打ち合ったように火花が散った。
「撃てぇっ!!」
そこへ、射石砲が撃ち込まれる。新たな『獣』の乱入という事態に呆然としていた領兵団が動き始めたのだ。
発射された石弾のひとつが巨木のごときエウグバルドの右腕を捕捉する。魔力による燐光を彗星のごとく引きながら、それは腕を貫いた。
腕が抉られてくびれ、垂れ下がる。すぐに組織が再生し始めるが……そこにカルロスの次の一撃が襲いかかった。
勢いを付けた横薙ぎの殴打を受けエウグバルドの右腕がちぎれ飛んだ。
【 ―― Print("ふざけるな……俺には、仲間など……あの日以来、ひとりたりとも……!") ―― 】
エウグバルドは無事な左手で、落ちた右腕を拾ってつなぎ合わせる。
傷口には影色の泡がボコボコと湧いて、腕を再連結させるが、その一瞬の隙。カルロスは地響きと共に12mほどの高さに跳躍。
がら空きの頭部めがけて両腕を振り下ろした。
* * *
森の中、『太陽に向かう燕』の里から少し離れた場所に、アルテミシアとフィルロームは居た。
近くでは、五本の巨木がねじり合わせられて弓なりにたわんでいた。
カルロスの巨体を普通に魔法で飛ばすとなると、魔力の消費も膨大になるが、近くの樹をまとめて自然魔法でねじ曲げて、投石器のごとく撃ち出したのだ。おかげでフィルロームの消耗はほとんど無い。
あのカルロスを作り上げたのは、もちろんフィルロームだ。
命を落としたエルフ兵達の魂を束ねて『獣』の核とし、死石で『獣』を呼び出し、最後にカルロスの魂を吹き込む……
それはエルフ達の価値観からすれば、外道中の外道とも言える行為だ。
だがフィルロームはそれをやった。
もともと彼女はエルフの価値観から自由な方だが、それだけでなく、エウグバルドの残した研究資料を読んで、もはや『獣』についての禁忌は信ずるに値せずと考え始めているようでもあった。
彼女の行動は、あのエウグバルドに対抗しうるカルロスという戦力だけでなく、もうひとつの成果を生んでいた。
「どうして、こんな……」
アルテミシアは、目に突き刺さるように鋭く輝く、碧色の宝石を見ながら呟いた。
……カルロスの体を生み出した後には、残っていたのだ。『森の秘宝』が3つほど。
「やっぱり、ってとこだね。まだ解読は終わってないんだが、ある程度目星は付いてた。いささか驚いたのは本当だがね」
驚いているアルテミシアに対して、既にエウグバルドの研究資料をある程度読み進めているフィルロームは、何かが腑に落ちたような様子だった。
「もしかしたら、あれを倒せるかも知れないよ。それにはあと少し、時間が欲しい。あんたも調合を頑張りな」
微妙にここまでの説明が分かりにくかったので補足しますと、完成後の『獣』は魂を吸い寄せて喰らうという性質がありますが、ただの捕食によって大幅に強化される事はありません。
魂を材料に超強力な『獣』を作るのは、エウグバルドの研究成果である特殊な術式を要します。