9-40 ミディアムレア
集会場は、騒然としていた。
戦時である現在、普段集会場として使われている大部屋は、族長ザンガディファが詰める作戦司令部となっていた。
床に広げられたパピルスには簡単な森の地図が描かれ(正確な地図など最初から作っていない。既に頭の中にあるから不要だと考えているのだ)、自軍と敵軍の展開状況を示す木彫りの駒が置かれている。
壁には兵站物資や兵力について書かれた張り紙が貼られ、それは司令部にもたらされる情報が刻一刻と書き加えられて、年輪のように数字の変化を積み重ねていた。
そんな部屋の中に、完全武装したザンガディファと近衛兵、そして参謀となる長老会議の面々が居て……
今現在、彼らは、踏み込んできたヘルトエイザと配下の兵ら……つまり『改革派』に与し、戦列を離れてこの場に集った兵達に囲まれていた。
『これはどういう茶番かな、ヘルトエイザ』
兵同士が武器を突きつけ合う、一触即発の空気の中。ザンガディファが、怒りと苛立ちを込めた、遠雷のような声で問うた。
ザンガディファの味方であるはずの近衛兵達も、覚悟を決めてこの場に立っているはずのヘルトエイザ側の兵もまとめてすくませるような、威厳と威圧感のある声だった。
その声と視線を真っ向から受け止めて、己も大剣に手を掛けたヘルトエイザは、鼻で笑う。
『耄碌するにはまだ早いだろ、見て分からないか』
『まさか今この時を狙って、ワシに剣を向けるか。『改革派』なんぞという集まりを作って、妙な考えを里に広め始めたときに見損ないはしたが……そのさらに下だ。見下げ果てたぞ。
今、我が部族が混乱を来せば、人間どもは混乱に乗じて、さらに苛烈に森を攻めよう』
『分かってるさ。親父殿』
親父殿、という禁忌の言葉に、その場に居た者のほとんどは、ぞっとする思いだった。
ぎり、と音が聞こえそうなほどに強く、ザンガディファが奥歯を噛んだ。
皺深い顔に、更に深く濃い皺が刻まれる。
『っ……! 黙れ! お前はもう、ワシの息子ではない。
お前が『冒険者になりたい』なんぞと言い出して森を出たあの日からな!』
『ああそうさ、めでたく勘当された俺は、あんたらが代わり映えのしない生活を送ってる間、冒険者になって外の世界を巡ってきた。30年間もだ! 勉強のため、この部族と里の未来のためにな!
おかげで世の中のことも人間のことも、あんたよりよく知ってるはずだぜ』
雷が落ちたような一喝にも、ヘルトエイザは平然としていた。
本来であればヘルトエイザは、父であるザンガディファの補佐として長老会議に名を連ねておかしくない頃だ。少々若いと言えど許容範囲、“獣”との戦いでも十二分に功績を積み上げてきた。
それが未だ、現場で兵を率いる分隊長に過ぎないのは、一度部族を出て、戻ってきてからも再び部族の一員として迎えられるまでに時間が掛かり、さらにゼロからキャリアを積み直したためだった。
不当に低い地位に貶められているような状態だが、しかしヘルトエイザの態度に卑屈な所は無く、自信に満ちていた。
実際彼は、歳に見合わぬ地位の低さを恥じてなどいない。それと引き替えにして手に入れた、己の経験と能力の価値を、自分自身が知っているからだ。
己の境遇を嘆くことがあるとすれば、それは、発言力の弱さ。
エルフの部族は厳しく統制された縦社会だ。一介の分隊長では、意志と意見を部族の大方針にまで反映することは難しいのだ。
だがそれも、今日までだ。
『この先どうやって収めるか、ちゃーんと算段はできてるのさ。だから安心して引退してくれ。なに、今日という日まで部族に尽くしたあんたを殺しはしない。ちと不自由な目に遭ってもらうだけさ』
『抜かせ! ……フ、万一の備えくらいしておらんとでも思ったのか。お前達が本当に見下げ果てたゲスであれば、この時を狙ってくるだろうとは……考えておったぞ』
ザンガディファが言いつつ、腰に提げていた宝珠に手を掛けた。たとえ、後方の作戦司令部に居ると言えど、戦時に武装した族長がただの装飾品を身につけているはずも無し。何らかのマジックアイテムであることは確実だった。
ザンガディファのそれが、にらみ合っていた双方にとって、開戦の合図となった。
剣を手にした兵達が体に緊張をみなぎらせ、引き絞られた弓から放たれるように飛び出し、ぶつかり合う瞬間……正確には、その寸前だ。
『させるかっ!』
ザンガディファに向かって、『改革派』側の兵士のひとりが、何かを投げつけた。
宙を舞ったそれは、薬玉……ポーション散布用の爆弾だ。
気が付いた瞬間、ザンガディファの傍らに控える魔術師が防御の魔法を詠唱し始める。
薬玉は便利だが、乱戦の中で使うには問題がある。敵味方問わずポーションを吸わせてしまうからだ。
それ故に、味方だけに防御の魔法をかけ、あるいは抵抗力を上げるポーションを飲ませておいて無差別に巻き込むという使われ方をする事が多い。そういう類いのものだと看破したのだ。
事実、ヘルトエイザの狙いはそうであった。
薬玉を投げた兵士本人も、そのつもりであった。
薬玉はザンガディファまで届かず、前列の護衛兵によって切り払われる。
空中で両断された薬玉は……
紅蓮に燃える太陽の如く、爆発した。
『ぎゃああああああっ!』
辺りは赤々と照らされた。
爆炎が、今まさにぶつかり合おうとしていた兵士達を敵味方問わず包み込み、服を、そして革製の……すなわち可燃性の鎧を燃え上がらせ、火だるまになった者達が炎の中を転げ回り、踊り狂う。
辛うじて難を逃れたのは、爆心地から離れていた者達。ザンガディファやヘルトエイザも含めた数人だけだった。
『な!?』
『消火だ! 水魔法を! ……おい、ベルチャント! お前何を使った!?』
ヘルトエイザが、薬玉を投げた兵士の胸ぐらを掴み上げる。
しかし、ベルチャントと呼ばれた兵士の側も、何が何だか分からないという様子の混乱状態だった。
『いや、そんな! これは、無力化のためのものと言われ……』
『言われ……!?
おい、予定と違うものを使ったな! あれは何で、誰に言われて使った! そして実際は何だ!』
『ひ、あ……こ、こんなはずじゃ……』
だがその答えが返るより早く、ヘルトエイザは、さらなる危険を察知して総毛立つ。
覚えのある嫌なニオイ、しびれ始めた指先……
『まずい、ここを出ろ! これはただの燃焼ポーションじゃ……』
袖で口を押さえながら叫んだヘルトエイザだったが、最後までその言葉を言えなかった。
膝から力が抜けたようになって立っていられず、床に崩れ落ちる。
ヘルトエイザだけでなく、炎に巻かれた者達も、そうでなかった者達も、糸を切られた操り人形のようにどたばたと倒れていった。
『こ…… れは 』
体が動かない。
喉が焼けるように熱い。
針金で締め上げられているように肺が痛む。
頭に霞がかかったように意識が遠のいていく。
――燃焼に毒、麻痺毒、誘眠。喉が痛ぇのは、催涙煙幕か何か……とにかく呪文封じだ。いくつ混ぜてやがんだ。
おい、死ぬぞ。これは死ぬぞ。
毒ポーションの効果で衰弱して死ぬ。内臓から出た血が喉に詰まって死ぬ。炎に巻かれて死ぬ。煙の毒で死ぬ。
そのいずれからも、逃れられない。もはや体が動かない。
執拗で周到な死の罠だった。
そもそもヘルトエイザ達は、薬玉の使用に備えて抵抗強化ポーションを服用してきた。
だが、それ以上に強い薬を吸ってしまえば意味が無いのだ。
倒れているヘルトエイザの目の前では、同じように倒れて動けない兵達が、敵味方問わず炎に体を焼かれている。身動きが取れぬまま炎に焼かれ、死へ近づいていく。
まだ、生きているかも知れない。今助ければ、一命を取り留めるかも知れない。
薄れ行く意識の中で、ヘルトエイザは足掻こうとした。
諦めるわけにはいかない。目の前で死に瀕している者達を助けなければ。
そしてここで自分が死んだら、これから、里はどうなるのだ。
しかし、ヘルトエイザの体は、もはや小指一本たりと動こうとしなかった。
――何故だ。何故、こんなことに……
怒りと絶望の中で、ヘルトエイザが意識を手放しかけた時。
『皆さん、ご無事ですか!?』
こんな場所で聞くはずのない声が……里に滞在している、奇妙な人間の少女の声が、耳に飛び込んできた。