9-24 アレと戦う方が難易度低かった説
足をグチャグチャにされた『歪みの獣』は、もはや立ち上がることができなかった。
背筋運動の要領で、なんとか体を起こして殴りかかろうとしてはいるものの、それでは巨大な右腕を支えられない。
その『獣』の足をナマスどころかペーストにしてのけた薬染爪剣の刃には、液体とも固体とも分からない、真っ黒な泥のようなものがくっついていた。
「うわ、グロっ……洗って落ちるかな、これ」
このまま捨てるようなことにはなってほしくない。
確かにアルテミシアが斬ったのは、もやしのような足部分だけだが、レベッカの大斧でも『獣』の腕を切断するには到らなかったというのに、薬染爪剣はよく頑張ってくれた。職人技だ。
呆然と見ていた人々(マナはよく分かってない様子だったが)の中で、いち早く我に返ったのはフィルロームだった。
「よくやったアルテミシア!」
親指を立ててニヤリと笑う。
そして杖を振りかぶると、すぐさま呪文を唱え始めた。
「≪死線≫!」
掲げた杖の影が、ずるりと鎌首をもたげ、実体となって這い出す。
獲物を狙う黒蛇のように『獣』へ襲いかかる影。だが、それは次の瞬間、かんしゃく玉が弾けるように四散していた。
「くっ……男の味も女の味も知ったババアなんぞお呼びじゃないってか!」
「わーっ、フィルロームさん子どもの前でなんて言い方ーっ!」
「当の子どもが言うかね、まったく」
もちろんアルテミシアが言った『子ども』とはマナのことなのだが通じるわけも無い。
フィルロームは元々、これを封じる巫女だった。しかし、巫女は純潔でなくばならない。
つまり、長い間、外の世界を旅していたフィルロームは……まぁそういうわけだ。
そんなフィルロームに代わって決然と進み出たのは、マナだった。
「マナがやるっ!」
「マナちゃん!?」
「……≪死線≫!」
地に落ちた彼女の影から、黒いものが轟と駆ける。
フィルロームのそれよりも、はるかに速く圧倒的に。
辺りを染め上げる黒の奔流が、『獣』の黒き体を飲み込んだ。
【 ―― ―― 】
声にならない、控えめにガラスを引っ掻くような悲鳴が聞こえた気がした。
そして、泡立てられるクリームのように渦を巻いて溶け合っていた黒いものが、やがて、蒸発するように消えて行った。
「消えた……」
ふと手を見れば、薬染爪剣の刃は新品同様の輝きだ。
本体と一緒に、手にこびりついていた欠片も消滅したらしい。
「本体が消えたら全部消えるのか。よかったー……うぼっ!?」
「アルテミシア!」
飛びついてくるアリアンナ。天然のエアバッグがアルテミシアに2HITした。
「怖かったーっ! 死ぬかと思ったーっ! ありがとーっ!」
「離れ……わたしが死ぬ……窒息……」
「わっ! ご、ごめん……」
頭を抱き込まれて、巨大な胸に押しつけられていたアルテミシアを、アリアンナは慌てて解放した。
あの胸は二重の意味で凶器だ。こんなもので殺されたら死んでも死にきれないとアルテミシアは思うが、この胸に殺されるなら安らかに死んだうえ、勢い余って輪廻から解脱するか三日目に復活する男も少なくないだろう。多分。
などとアルテミシアがアホなことを考えている間、フィルロームは『獣』が消えた辺りの草むらを撫でるようにして、ためつすがめつ何かを調べていた。
「こいつはまた驚いた。確かに消えてる。……あんた、まだこれをやれたのかい?」
「できるよー」
フィルロームに問われたマナは、不思議そうに首をかしげた。
確かに、魔法に失敗して精神を病んだ巫女なら、もう魔法は使えないだろうけれど、マナの場合はそうじゃない。ただ転生者が来てしまっただけだ。
「マナちゃん、えらーい」
「えらい? えらーい!」
アルテミシアがマナの手にタッチを決めると(本当は頭を撫でたかったが当然届かない)、ぴょこぴょこ飛び跳ねてマナは喜んだ。
「さて、問題は……『獣』を倒すつもりのエルフ兵増援部隊が、わさわさ来るだろうってことよね」
「そりゃ確実に来るだろうさね。どうする?」
「姿をくらます? うーん……」
成り行きでアルテミシアは『獣』を倒してしまった。これをアルテミシアは『なんとなくまずい』と思っていた。
おそらく、これはエルフ達の面子をつぶした格好だ。この里の政治的な部分に、無駄に深く関わることになりかねない。恩とプライドに板挟みにされたエルフ達が、どんな態度に出るかは未知数だ。
アルテミシアは、抱き合ってへたり込んでいるふたりのエルフ兵の方を見た。
『ねぇ、私達は夢を見ているんじゃないのかしら?』
『もうやだー! ごめんなさいー! 私が悪かったー! もう焼き魚に塩は付けません許してー!』
強大な『獣』の出現、そしてそれをアルテミシアが倒してしまったという理解を超えた事態にパニックを起こして泣きわめいている。
「とっても良い事を考えました。このふたりが全部やったことにしましょう」
「無理」
「だよね」
レベッカの容赦無いツッコミをアルテミシアは受け入れた。
それは確かに、無理がありすぎる。
「どうすんだい?」
「……成り行きですけど、せっかくの恩ですから高く売りましょう。兵士を殺して出て来たと思われる大物なんですから、ネタとして悪くないでしょう。証人だって居ますし」
アルテミシアは方針転換した。
成り行き任せで、予定とは違う方向へ行ってしまうが、手札があるなら問題ない。なるようになれ!
『……と、言うわけで、信号弾? 投げたんですから、じき部族の兵士が来ますよね。わたし達があれを倒したんだって事を説明して、取り次いでください。多少かっこよく話を盛ってもいいです』
『わ、わ、わ、分かるました』
ふたりはアルテミシアにお願いされ、水飲み鳥の飾りのごとく、首をぶんぶん縦に振る。
まもなく、木々の合間を抜けてくるように、忽然と武装したエルフの小隊が現れた。
見回りのふたりと同じような格好の者ばかりだが、その中にひとり、鳥の羽でカラフルに飾り立てた革鎧を着ている男が居た。
こいつが救援部隊の隊長らしい。
『……人間!? 「何者だ!」』
『お待ちください!』
隊長が人間語で誰何の声を上げると同時、小隊のエルフ達は弓と杖を構えて人間どもへ向ける。
その前に、見回りズふたりが立ちはだかった。
『こ、この方々は礼に則って訪れた客人でして! ね、ね、ネズミの干物! そして、その、『獣』を!』
『『獣』を倒しました! そして封じられて! サフィルアーナ様が! 塩は付けません!』
そしてふたりは、これまでの経緯を早口に説明した(まだ混乱しているようで、頻繁に焼き魚の話が混じった)。
ふたりの話を聞いて、増援のエルフ兵達は、弓を構えたままで疑問の表情を浮かべる。
隊長などはもう、頭を抱えんばかりの苦悩と苦悶の表情だった。
『お前ら、もう一度、俺の目をよく見て言ってみろ。あいつらが、『歪みの獣』を倒して封印しただって!?』
『あの、『あいつら』とおっしゃいますが、正確にはあの緑の髪の人間がほとんどひとりで倒して……』
『焼き魚!』
焼き魚呼ばわりと共にアルテミシアは指さされ、増援部隊全員の視線が集中する。
腕を組んでじっと立っているアルテミシアを見て、みんな、形容しがたい表情だった。驚けばいいのか、冗談として笑えばいいのか。
『余計に信じられんわ!』
『事実です!』
『それから、サフィルアーナ様が……』
『なん…………』
そこで隊長は初めてマナに気付いたようであった。
処理能力を超えた事態に対する、頭のフリーズ。しばし絶句していた隊長は、背後から剣でも突きつけられているような顔で、魔術師らしきエルフ兵を手招きする。
『連絡!』
『はっ……≪虫報≫』
魔術師が呪文を唱えると、見えない獣が走ったように、草が一直線に、森の奥へ舞い飛んだ。
魔術師の杖先に光が灯る。それを差し出され、隊長は光の塊へと話しかけ始めた。電話的な何からしい。
『……は、実は……』『……いえ、できれば族長に……』『……その、サフィルアーナ様と、エルフがひとり、人間が3人……』『……エルフの老婆? 居りますが……』『……族長様、あまり大声は……』『……はぁ、承知致しました……』
「聞いたかい? アルテミシア」
直立不動のアルテミシアに、フィルロームが囁きかける。
「聞きました。『族長』って言いましたよね」
「ああ。こいつは話が早そうだ」
「早すぎても逆に面倒ですけど……どうなるか」
会話は手短。ほとんどは『族長』の言葉を待っている時間だった。
眉間に縦ジワを刻んで話していた隊長は、食いしばった歯の間からため息をつくと、きりっとした顔を作ってアルテミシア達に向き直る。
「……よく聞け、人間ども。そして脱走者よ。これより貴様らを拘束し、里へ連行する。抵抗はしないことだ」
隊長は、ちょっとぎこちない人間語で警告した。
まあそうだよね、とアルテミシアは思った。
そう。部族としての面目を保つにはそうするしかない。
マナを掟に従い殺すと決めたなら、みすみす戻って来たのを丁重にもてなすなんて、間違いを認めることになってしまう。そして、自分から部族を捨てたフィルロームにいまさら遠慮など無い。
例え、これからどのように扱うか決めるのだとしても、ひとまずは罪人に準ずる形で管理下に置くというのは、あり得る話だった。
『ひとつ、お願いがあります』
『……エルフ語?』
敢えてエルフ語でアルテミシアが話しかけると、隊長はたじろぐ。
心中、アルテミシアはほくそ笑んだ。どうせ人間語しか分からないと思っていたのだろう。こうやって軽くおどかしてやると、相手はアルテミシアの存在を計りかね、及び腰になる。
『マナ……サフィルアーナとわたし達を一緒に置いて欲しいのですが』
いくらなんでも、そこは譲れない。まさか今すぐ殺されはしないと思うが、引き離されたらどうなるか分かったものではないからだ。
隊長は、ちょっと考えてから答えた。
『……ならん』
『今の会話で、わたし達の扱いまで命令されてました? 上に聞かなきゃ『ならん』かどうか、分かんないでしょう』
『命令されていた! いいから大人しくしていろ、人間。さもなくば……』
アルテミシアはカカトに体重を掛け、草むらに隠すようにして足の下に置いていた薬玉を、容赦なく踏んづけて砕いた。
ブシュ、と水っぽい音がして、アルテミシアの足下から霧が立ち上る。
アルテミシアの目の前で、エルフ兵の隊長のしかめ面が腑抜けになって、そのまま崩れ落ちるように倒れた。包囲していた者達も同じく。見回りのエルフ兵もふたりで抱き合うように倒れていた。寝言で焼き魚のことをつぶやきながら。
あらかじめ抵抗強化ポーションで対策していたアルテミシア達だけが無事だ。
誘眠ポーション。効果は名前通り、単純明快だ。
レベッカは倒れた隊長を引きずり起こし、彼が持っていた、獣の骨を削ったような剣を抜く。
それを喉に当てて抱え込むと、ティアラのような兜で軽く頭突きをぶち込んで彼を叩き起こした。
『んなっ…………』
『隊長さん、もう一回聞いてもいいですか? わたしたちをどうするんでしたっけ?』
エルフ兵の隊長は、もう何も言わなかった。