0-1 ダイレクトメールはゴミ箱へ
三人兄弟の三男として生まれる。兄弟とは疎遠。
大学卒業後、商社に就職。3年目に脳卒中で父が倒れ、その後母が病死したことで父の介護のため退職(母の病死は介護疲れによるものとされる)。
30歳の時、父の死と共に再就職。派遣社員としてIT企業に勤める……
通野拓人(32歳男性・独身・童貞・彼女居ない歴=年齢)の半生を、あんまり詳細でないWikipedia記事風にまとめると、以上の通りだ。
現代の日本において、『社会人としてマトモに生活する人生』というレールに乗り続けることは難しい。
少なくとも今の自分はレールを外れてしまったとタクトは思っていた。
働けど働けど増えぬ貯金残高。
連日の残業。2桁連勤に休日出勤。
クソみたいな仕事、クソみたいな上司、信頼できない同僚。
何より……それを変えることができない自分自身。
――俺、いつまでこうして生活してられんだろ……
土日を挟んだ8連勤目の月曜日という、死と哲学と宇宙を最も感じる時間。
タクトはドリンク剤を飲みながら、ゴミ(書き上げた途端に仕様変更を告げられたプログラムのコード)を呆然と眺めていた。
死にたくないから生きている。だけどいつまで生きていられるのか分からなかった。
生きていける程度の給料は貰っている。だがもし今、病気で倒れでもしたら完全にゲームオーバーだ。仕事ができなくなれば飢えて死ぬ。そもそも医者に掛かるだけの貯金も無い。
ついでに付け加えるなら、近いうちに精神か肉体のどちらかをやられて倒れるのは、ほぼ確実であるように思われた。
その一番の原因はと言えば……
「み~ちのぉ~」
「うっ!?」
粘り着くような声が聞こえて、タクトは姿勢を正した。
振り返った先に居たのは、児島雄一という男で、タクトが派遣されてきたこの会社の社員。そしてタクトの上司だった。
四十がらみの神経質な小男で、チンパンジーのように表情豊かな顔の上に、黒くてフサフサした安っぽい質感の物体をのっけている、特徴的なファッションの男だ。
性格を一言で言うなら、クズ。三言で言うなら、キング・オブ・クズ。
この人物評はあくまでもタクトの主観だが、十人中九人くらいは自分の見解を支持してくれるだろうとタクトは確信していた。
どうしようもない男だが、部下を掌握し、人権と労働基準法を無視して壊れるまで働かせることだけは得意な奴で、その悪魔的な能力だけはタクトも認めざるを得なかった。
「な、なんでしょうかっ、児島さん」
「べつにぃ?」
「……なんでもないんでしたら、これから昼休みですんで」
「はーん、仕事は一人前やれねぇくせに、昼休みは一人前取るんだなぁ。パンなら、食いながら仕事くらいできんだろぉ?」
ちなみに、十分間の休憩は一人前ですらない。
労働基準法では、一日八時間以上の労働をする場合、最低一時間の休憩が義務づけられているはずなのだが、この会社に来てから守られたためしがない。
『労働基準法なんて守ってたら会社が潰れるんだよ!』とは児島の弁だ。本当にこんな事を言う人間が居たのか、と驚いたタクトだったが、残念ながらタクトはその言葉に従うしかない立場だった。
「用があるのは俺じゃなく、こいつだよ」
児島に小突かれて出て来たのは、タクトと同じ会社から派遣されている飯野なる男だ。
タクトは顔見知りで時々言葉を交わす程度の関係。特徴はあまり重要でないから省くとして、顔が土気色で今にも倒れそうだった。
「す、すいません通野さん……なんか俺、体調悪くって。俺がやってる分の仕事――」
そこまで聞いてタクトは全部分かった。
体調不良のた飯野を児島がムリヤリ出勤させて、最低限仕事の整理だけさせて、『誰かに仕事を押しつけたら休ませてやる』的な事を言ったのだろう。似たような事がこれまでに何度もあった。
そしてこんな時、タクトならだいたい仕事を引き受けるという事を児島は知っている。
児島の思惑に乗るのは業腹だが、タクトはやはり、そうするしかなかった。
こんな風に困ってる奴を、見捨てられないのだ。
「いや、分かった。分かったからマジでお前すぐ帰れ。治るまで休んどけよ。こっちにうつるし」
「ほーう。じゃ、その間もお前が仕事すんだな?」
嫌な笑いを浮かべて児島が問う。飯野は申し訳なさそうに縮こまるばかりだ。
つまりタクトは、ふたり分の仕事をひとりでやらなければならない。サービス残業とサービス休出で補うしかない。
そもそも、病気で働けない者が出た場合でも仕事に問題が出ないようにするのは児島の仕事であるはずなのに、こいつは自己責任と連帯責任を振り回して部下に押しつけることしかしない。
児島はこれで立派にマネジメントしているつもりなのだから、たまったものではなかった。
「じゃー、よろしくなー!」
もう言う事は済んだとばかりに去って行く児島の背中を、タクトは絶望的な気分で眺めていた。飯野はタクトに一礼して、そそくさと帰って行く。
死ぬほどキツイ仕事をして、上司の無茶苦茶に付き合わされ、手取り十万円台ではどう考えても割に合わないのだが、このご時世、転職したところで今よりマシな仕事に就けるかは分からないのだ。
飯野が帰っていく姿も見ずに、タクトは殴るような勢いでキーボードを叩き始めた。
不安と苛立ちを叩き付けるかのように。
* * *
その4日後。なんとか日付が変わる前に仕事にひと区切り付けたタクトは、休日出勤のスケジュールを頭の中で組み立てつつ、駅までの道を歩いていた。
そして近道のために繁華街を突っ切ったタクトは、そこで、ちょうど飲み屋から出て来た数人の同僚を見た。
体調が戻らずにまだ休んでいるはずの飯野の姿もあった。
「あー、ったく……飲まなきゃやってらんねーよ」
「ホントだよ! あのクソ上司、今日は三回も俺のこと怒鳴りやがった」
「つか飯野、お前本当に来てよかったのかよ」
「いいんスよ。だって通野さん来ないんでしょ」
飯野がオチを付け、酔っぱらい達は腹を抱えて笑う。
ひとりだけスーツを着ていない飯野は、保健室登校ならぬ飲み会出勤だったらしい。
「じゃなくて体調だよ!」
「もう大丈夫ですよ。でもたまには1日くらい余計に休んだってバチ当たんねーっしょ」
「おっまえ通野に悪ぃだろ! あいつ今日来てねーの、お前の仕事やってるからじゃねーの!?」
「あー、うん、そこは……ごめんなさいってことで」
酔っぱらい達は肩を叩き合いながらまたしても爆笑した。
「ひでー! ひでーよお前!」
「いやでも感謝はしてるよ!? こういう時、いっつも助けてくれるし!」
「すげぇよな、あのエネルギー……」
「何頼んでも『はい喜んで!』だもんな」
「俺もこないだ客先に怒鳴られに行くとき替わってもらったわ」
「なんでそこまでできるんだろ」
彼らはしみじみと嘆息する。
同僚達は皆、タクトに仕事で助けられた経験があった。主に仕事の肩代わりという形で。
とにかくいつでもギリギリのスケジュールが詰め込まれている現場だ。誰かが余分に働かなければならない。そしてそれは大抵の場合、タクトだった。
呆れ・ありがたさ・嘲笑を足して、4で割ったような薄い会話。酒の席の(と言うか飲み終わったところだが)雑談。
それは上司の話や給料の話、天気の話と同じジャンルの、単なる『共通の話題』でしかなかった。
「栄養ドリンクでも買ってきません? 週明けにでも」
「差し入れか」
「あの人死んだら困るしな、俺ら」
後ろめたさを誤魔化すようにそう言って、ほろ酔いサラリーマン達は夜の闇へと消えていった。
タクトはなんとなくビルとビルの隙間に隠れ、彼らが解散して帰ってくのを待っていた。
顔を合わせたところでお互いに気まずいだろう。
話は全部聞こえていたが、ただ少し悲しいだけで、特に腹は立たなかった。
自分がそういう役回りだというのは、とうの昔に悟っている。こんなやり方でしか自分の居場所を作れないのだ。
* * *
通野拓人がどんな少年だったかと言えば、平均より少しだけ優しく、平均より少しだけ正義感が強い、10人にひとりくらいは居るような良い子だった。
現代人は、利他的な性質が特に強い原人から進化したという説がある。
自分自身に得が無くても……場合によっては損をしてでも他者を気遣えるという特性は群れを強固なものとし、身体能力的に優れているはずだった他の原人を淘汰したと。
その真偽は定かでないが、ほんのちょっとでも『困っている人を助けるヒーロー』に憧れた事が無い人というのは、むしろ珍しいだろう。
優しくあること。理不尽な目に遭う人を助けること。それは人の遺伝子に刻まれた原初の善性だ。
タクト少年もそうだった。
だが、少年はやがて知る事になる。現実はハードなのだと。
拾った財布を届けたら、既に中身が抜かれていたらしく泥棒扱いされた。
いじめられているクラスメイトを庇ったら、いじめの矛先は自分に向いた。
学級委員に勧められて始めた通学路清掃は、なぜかその学級委員がやったことにされていた(なお彼は全校集会で清掃活動を表彰され私学推薦も受けた)。
やがて、タクト少年は考えるようになる。
ヒーローとは、自分がしたことを誰かに正しく評価されて、初めてヒーローたりうるのだと。その結果としてヒーローで居続けられた者なのだと。
報われない善行を続けられるほど強い人は、そう多くない。
思い返せば、タクトの中で何かが決定的になったのは、小学生4年生の時だったろうか。
その頃、タクトは既にいじめの対象だった。端緒はかつていじめられているクラスメイトを庇ったことだったかも知れないが、もはやそれとは関係なく。行儀とテストの点だけは良い、頭でっかちの優等生に居場所は無かった。男児たちが仲間と認めるのは先生に気に入られる優等生ではなく、共にイタズラをして、同じ相手をいじめて、立ち入り禁止の場所を一緒に探検してくれる『共犯者』なのだから。
ある時、クラスの男子児童たちが校庭隅のフェンスによじ登る競争をしていたという理由で、担任教師は2時限ブチ抜きの説教をかました後、男子全員に放課後のトイレ掃除を言いつけた。タクトを含む数人は競争に不参加だったが連帯責任とされた。
ぶちぶち文句をたれながら掃除へ向かうクラスメイト達にタクトは言ったのだ。『オレがひとりでやっておく』と。
それは、連帯責任をかぶせられたクラスメイト達を哀れに思い、担任教師の横暴な判断から守るためだった。言いつけを破ってフェンス登りをするような奴らが、まともに掃除をしないのは分かりきっていたから、そちらは最初からどうでもよかった。
だが、その日からしばらくの間、タクトへのいじめは手ぬるくなった。それどころか、今まで悪口しか言ってこなかったクラスメイトからも一目置かれ、学校を休んだ子へのプリント配達や、教室で飼っていたハムスターの死体の始末など、しばしば頼まれ事をするようになった。
ゴミのように扱われていたタクトは、その時初めて、自分の居場所があると感じられた。
……自分の行いが報われたと感じた。
* * *
子どもらしい真っ直ぐな正義感はやがて摩耗し、タクトには保身としての献身だけが残った。
自分を切り売りすることで、辛うじて『必要な人』であり続けている。
コツはいくつかある。『分かりやすい人助けである事』『人知れず実行するのは避ける事』『身を削る献身である事』……
仕事を辞めて父の介護をする事になったときもそうだった。兄ふたりの代わりにタクトが犠牲になった。おかげでせっかく滑り込んだ就職先をフイにし、今こうして底辺派遣社員として悲惨な生活を送っているが、険悪だった兄たちは年賀状を送ってくる程度には好意的になった。
捨て身と言うな。パシリとも言うな。これは必要なコスト。
自己犠牲は辛いが、本当に『要らない人』になってしまったら、あっという間に見捨てられ、為す術無く死ぬだけ……タクトはそう思っていた。
同僚達を見ろ。彼らはタクトを便利に使っているが、同時に『死んだら困る』と言って、ギリギリの所では一応心配してくれているではないか。
こういうやり方がタクトにとっての精一杯。器用にコミュニケーションを取って周囲を味方に付ける事なんてできない。それほどの価値が自分にあるとは思えないから、引け目を感じ、二の足を踏んでしまう。
捨て身になる事で初めて堂々と、誰かにとって『必要な人』になれるのだ。
「幸せ者だな、俺は。必要とされている」
自嘲するようにクールに言いながら、タクトは少し泣けてきた。
欺瞞的だと分かってはいる。
死にたくないから生きているだけ。いつの日か願った正義の味方にはなれず、小狡い保身のために自分自身を切り売りして、どうにかこうにか世を渡っているだけの人生……
ふと、このまま電車に乗らずホームから線路に飛び込んでしまおうかと、衝動的にタクトは思った(4日ぶり189回目)。
『死にたくない』と『もう死んでもいいや』が絶妙に均衡する午前零時。
ちょうどその時、ポケットに入れていたスマホがブルブルと震え、メールの着信を告げた。
仕事用のメールボックスに来たメールは、全てスマホに転送している(そう設定しないと怒られる)。
まさかこんな時間にと思いつつも、仕事の連絡だったら見落とせない。タクトは念のためスマホを確認した。
そして、見た。奇妙奇天烈なダイレクトメールを。
『転生屋 渋谷区店開店!』