幸せ
包丁を握る背に、貴方の気配がする。
くわえた煙草に火をつける金属音。
灰皿に灰を落とす乾いた音。
深く吸い込んだ紫煙を吐き出す呼吸音。
仕事を終えて、遠い道のりを通ってきてくれる貴方に、少しでも安らいでほしくて、私は包丁を握る。
ただただ、一方的に雑多な情報を垂れ流すだけの機械の箱が、楽しそうな貴方の笑い声を呼んでくれるから、嬉しくて肩越しに同じ画面を振り返る。
火にかけた鍋はふつふつと小気味良いリズムを刻む。白い湯気とともに出来上がりが近い事を知らせる香り。
お気に入りの相棒たちと共に、私は急ピッチで想いを形に仕上げていく。
「ただいま。」
貴方を出迎える玄関。
飛び出すようにドアを開けると、貴方の穏やかな笑顔が見える。
「お帰りなさい。お疲れ様。」
玄関での抱擁。
会えない時間に積み重ねた、想いの全てが報われる瞬間。
全身で貴方の存在を感じると、ふわふわと宙に浮いていた感情さえもすとん、と着地する。
「お腹すいてる?」
「すいてる。昼、食べられなかったんだ。」
「そか。急いで作るね。」
「ゆっくりで良いよ?」
「大丈夫。」
何気ない会話に、貴方の気遣いを感じて胸の奥から暖かいものが溢れてくる。
頬は自然に緩み、体が軽くなる。
貴方の今日のリクエストは青椒肉絲とエビチリ。
かに玉とスープを加えて、テーブル一杯に形に表した想いを並べよう。
茶碗に盛った白米が素晴らしい照りと艶を誇っている。
パリパリのピーマンと筍が細切りの牛肉と一緒にタレに絡んでいる。
プリプリの海老は、ピリ辛の餡に絡まって泳いでいるし、少し焦げてしまった卵はそれでも堂々と皿の上で寝そべっている。
後は、白い湯気の漂うスープをお椀に迎えるだけ。
「ちょっと、作りすぎちゃった…」
「大丈夫。全部食べられるさ。」
就業時間をカウントダウンで待ち焦がれた一日の終わり。両手に買い物袋を下げて帰路に着いた。
テーブル一杯に並んだ好物を見て笑むあなたが見たくて、ついつい買い込んでしまう。
心と体にまとわりつく疲れが気怠い道も、口いっぱいに料理を頬張る貴方を思い浮かべるだけで愛しく感じられて。
『愛してるよ。』
伝えたいのは何時だって、その想いだけ。
だから、貴方の存在を背中で感じながら、私は台所に向かう。
「いただきます‼」
「召し上がれ。」
嬉しそうに頬を膨らませる貴方の顔が、何より嬉しい、私のご褒美だから。