『静かなる勝利』
経済戦争はコワイです。
1561年(16歳)
国主として、正月の年賀を受ける。
俺は、登城した皆に、今後の抱負を述べた。
「浅井領を明るく豊かにしていく」
なんともまあ、昭和テイストなスローガンだ。
国主、国人領主、商人、その他が、それぞれに必要なものを補いながら、互いに成長する方針を示した。
利害の調整も必要だ。
皆にはそれぞれの思惑を、俺に聞かせるように言って置いた。
まあ餌を撒いたと言えよう。
一例を挙げれば。
国人領主、商人に『近江物』と呼ばれる各物産の原料栽培や、1次加工品の委託、製品の買い上げを通じて利益を供与する。
革製品についても一括仕入れをおこない、小谷城下で売ることで中間利益を得る方針だ
最大の懸案である柏原については、『既に手は打ってある』とだけ伝えた。
『一色家のネガキャン』も、順調だ。
メディアは無いが、口コミの効果というものはおそろしい。
兼好法師の言葉通りだ!
噂が、一人歩きして怪物となる。
年が明ける頃には、もはや誰も義龍のことを『ー色』と呼ばすに『斉籐』と呼ぶようになった。
(やれやれ、これで普通にサイトゥさんと呼べるわ~、一色かっこ斎藤かっことじ義龍は判りづらかった~。)
そろそろ、将軍.足利義輝公より 『上洛せよとの命令』 が、一色家に届く手筈だ。
「六角家との対立についての審議をしたい」という名目になるらしい。
上洛経路を押さえられている義龍は、将軍への目通りなど不可能だけれどな。
何とか使者を伊勢ー大和経由で派遣したらしいが、本人(義龍)が上洛するなど、ムりである。
(ざまあ、みさらせ~)
5月、信長率いる尾張勢が、美濃に進入すると、森部村(安八町)にて長井利房、日比野清実らが迎撃、激しく争った。(森部の戦い)
尾張の今の現状では、長駆しての稲葉山城攻略はできずに撤退している。
「流石信長、おそろしく気が早い!でも、勢いがたりないな」
(『桶狭間の激戦』の影響は深刻そうだ。)
とは言え、これで稲葉山城下も安全とは言えなくなった。
この状況を利用して、少しずつ稲葉山城下の商人を調略・誘致しよう。
小谷に人を集めるのだ。
同5月、若狭武田氏の要請で、朝倉景紀が軍総大将として出陣し、逸見氏の叛乱を鎮圧している。
義兄の浅倉景晃殿も従軍したらしい。
俺も、補給物資の手配で僅かながらも協力した。
武田(若狭)のお手伝いご苦労様だ。
「無事に叛乱鎮圧した」そうで、まずはめでたい。
帰国早々手紙が届いた。
姪の千代姫が可愛くて仕方がないと手紙が来ていた、のんきな兄者だ。
うちも、子供が生まれたので羨ましいと言うより、気持ちが判るという感覚だ!
姉の鞠も呆れて居るみたいだ。
(反乱の影に丹波国の松永長頼の支援があるからなかなかやっかいだ。)
より一層の連携を深める為に、俺は敦賀へご挨拶に向かった。
景晃夫妻に会うのも久しぶりだ。
義兄だし、楽しく飲み明かそう。
延々と、大野郡司家(朝倉景鏡)の悪口を聞かされた、どうにも馬が合わないらしい。
とは言え、俺に愚痴るなよ。
景鏡も、敦賀が浅井との関係で、近頃かなり発展をしているのが気にくわないのだろう。
景晃の功績をねたんで、めっさウザイらしい。
まあ、敦賀港の再興の功績は景紀殿と景晃と俺だからな。
敦賀は、浅井との外交も上場だ。
分家同士の主導権争いに巻き込まれ気疲れな事であろう。
敦賀郡司家は、養子とは言え朝倉宗滴の流れだ、武門のプライドが半端なく高い。
景晃もその傾向がある。
父親の朝倉 景紀殿も大変であろう。
6月
そろそろ、斉藤家と停戦協定の交渉をするが。
それとは別に美濃の国人領主と、個別に不可侵協定を結ぶ方針だ。
まあ早い話が美濃国人衆の取り込みだ。
西美濃3人衆+1につなぎを取ろう。
結局、使者が派遣され、一方的な和解調停がなされた。
『占領地の返還と、関ヶ原、牧田、上石津の割譲である』
我勝てり! by.賢政
斉藤義龍は、がっくりしていた。
「一方的にこちら(斎藤)が不利な、条件だがこの際致し方がない。
なんとか垂井は除外してもらえたので、石高的には大した事は無いしな。
あの信長の侵攻の脅威を考えれば、浅井との停戦条件としてはたかがしれている。
この八方ふさがりな状況を打開するには安いものだ……とほほ 」
賢政くん容赦なさ過ぎです。