とりあえず、ひとつの結論!
美濃情勢に異変が!
賢政の思考が暴走します。
信長は、一揆の対処の為に、いったん美濃攻略を諦めざるを得なかった。
本願寺との対立は避けたかったのであるが、三河の一向一揆が飛び火して尾張を襲った。
一揆の規模自体は小さかったものの、信長は『半兵衛の策』のせいで手ひどい目に遭うのだった。
「さずがは、黒軍師だ、やり口が汚い」
俺が、半兵衛の感想を述べる。
「しかし、策とはそういう物なのでは?」
勝重が、首を傾げる。
「確かにそうだが、『勝つために何をしても良いのか?』と、問われれば、『否』というのが領主だと思う。」
俺は勝重を諭した。
「負けてしまっては、元も子もございませぬが?」
「そうだ」
「では何故に?」
「さあな」
俺にしてみれば、戦国時代の殺し合いなど血生臭くはあるが、可愛いモノだと思う。
戦国というわりに、『ヤラセでは無いのか?』と疑うぐらい、死者が少ないのである。
一晩で、100万人の民間人の死傷者が出たり、一瞬で10数万の人間が・街が、消し飛ぶことはないのだ。
まあ、俺の感覚ではあるが、戦争ならば、2千から1万人くらい死なないと、大損害の気がしない。
平和な平成の御代でも、交通事故で、年間一万人、自殺で、三万人死んで居るのだ。
戦国なら、毎日1000人ぐらい死んでいても俺は驚かない。
まこと、人間というモノは罪深い生き物である。
その業は、際限がないのかも知れない。
人を殺すのに、血を見る。
今の時代はそうである。
それは生物としての争いであり、ある意味健全(語弊はあると思うが)なのかもしれない。
俺は、システムで人を殺すのはよくないと思うのだ。
『血も見なければ、相手の痛みも知らない』 というのは、
いくらなんでもそれは、ダメだと思う。
なぜならば、『このような地獄を、今後起こさないでおこう』という反省・自省が無いからである。
つまるところ、そのような意識では、力に酔ってまた”いくさ”をやってしまう。
「効率のよい作戦であった」で済ませてはいけないのだ。
つまり、効率的に人を殺す事を考える軍師という者は、為政者には向いていないのである。
為政者とは、国を守り国民に安寧をもたらし、民の幸福の最大公約数を実現する者なのである。
もちろん、先を見通さなくてはならない。
敵対する者から、民を護らねばならない。
だが、『護ること』と、『敵を攻撃する事』とはイコールではない。
相手を傷つければ、憎しみが返ってくるのである。
交渉をして、共存・共栄の道を模索せねばならない。
相手は、絶対悪では無いのである。
共存・共栄の道を模索する事に幸せを見いだせない者は、いずれ破局を迎えるのだ。
チートな英雄に任せて物事が上手く行くはずが無いのである。
乱世の指導者というモノは、血を見ずにはいられないのであろうが、血に酔ったり、血に飢えてはいけないのだ。
理性を持って、理想をかなえるべく、現実と戦わねばならないのである。
「殺すことよりも、生かすことに光明を見いだせなくては、いずれ自らも滅びるのだ」
『人を呪わば、穴2つ』
つまり、人を恨んだ争いの果てには、自らの滅亡が待っているのだ。
『怨恨の連鎖』を断ち切らねばならない。
国ごとの対立を収めるには、より大きな枠『日の本』が重要な意味を持ってくるのだ。
そういう意味では、『天皇家』 『将軍家』というものが、大きな役割を果たすのだと思う。
俺は、将軍足利義輝公にとても期待しているのだ……。
まあ、そんな殺伐とした暗い話も、今日だけは止めておきたい。
今日は、目出度い日なのである。
弟の浅井政元(16)に北畠家(北畠具教)から養女菊姫(17)が輿入れしてきた。
祝言を盛大に執り行ってやる。
政元が照れて可愛い、
お菊ちゃんも可愛いよ!
政之にも、そのうちイイ縁談が来るからそう羨ましそうな目で見るな。
え?「兄上は沢山の奥方がいてズルイ?」
「良し判った、政之よ、自分が好きな子を連れてこい。俺は、そうした。キリッ。」
最近は文化人としての仕事の方が多い。
俺は、意外と出不精なので、大抵はみんなを呼び寄せる。
岡山あらため小峰迎賓館のお披露目でもある。
俺プロデュースの
お・も・て・な・しが心を揺すぶるのか、皆感動してくれる。
堅物の公家もニッコニコだ。
たまにお金をせびりに来る公家衆もいるけれど、そういう方はお茶を点てた後、主筋の六角様に一筆したため
「こいつ金が欲しいらしい、よろ」
丁重に船に乗せ観音寺城下へ追い返す。
主筋の近江守護に内緒で無駄な献金をするわけにはいかない。
11月
竹中半兵衛は、突然、斎藤竜興に稲葉山城を明け渡した。
そのまま退去して、姿をくらませてしまった。
「「「……」」」 皆が唖然とした。
「( ^o^)ノ おいおい、いくらなんでもそりゃ無いでしょ!」
『夜逃げの半兵衛』である。
無責任すぎる。
この年、三好長慶が病没したそうなのだが、なんだかもう、どうでもよくなった。
織田信長も、しばらくは惚けていた。
そりゃそうだと思う、何故半兵衛が、稲葉山城を放棄したのか?判るまい。
「罠ではないのか?」
そんな噂が飛び交った。
確かにありそうな話ではある。
充分な確認をしたが、本当に退去したみたいだ。
信長は、気を取り直し試しに稲葉山城の攻略を目論むものの、見事に失敗したようだ。
斎藤竜興に、ある程度の指導をしたようだ。
まあ、それ以上に尾張の兵は弱いのだ。
浅井家は、すでに西美濃衆を味方に付け、西美濃を調略完了しております。
俺は、竹中半兵衛の動向を徹底的に調べるように命じた。
半兵衛さえいなければ、美濃は出来る限り欲しいのである。
まあ、多少は信長に譲ってやるつもりだが。
1565年(20歳)
松平・今川は、ようやく一揆を平定したようである。
予想以上の被害、と云うか、想像を絶する被害だったようだ。
三河全土が、もはや一揆を続けられないほどの被害をこうむったとも言える。
何しろ、三河では、もはや米を作っていないのである。
米を奪われる位であればと、農民が雑穀だけを栽培していたらしい。
これでは、領有したとしても苦難が待ち受けている事だろう。
深刻な飢饉の被害があるようだ。
対して、信長の尾張は、一揆の矢面に立っていた。
多くの”一揆勢という名の流民”が、富裕な尾張へと流れ込んできたからである。
その対策に頭を悩ませているようだ。
激しい戦闘はないが、商家・農村への襲撃が後を絶たないらしい。
俺は、半兵衛が美濃を退去したのを確認した上で、美濃衆を寝返らせた。
浅井家は、西美濃および美濃北部の攻略を完了した。
『夜逃げの半兵衛』いくらなんでも無責任すぎる。
どうやら、半兵衛は、稲葉山城が『牢獄』であると気付いたようです。