表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
長政?はつらいよっ!! 静かなる逆襲!!  作者: 山田ひさまさ
~ 浅井はやっぱりハードだねっ!! ~
13/23

軍師.『竹中半兵衛』 半兵衛の苦悩の巻

半兵衛の苦悩の巻


竹中半兵衛重治は、若くして才を見せたといいます。


半兵衛の足跡を、美濃視点でお送りいたします。


天文13年(1544年)

半兵衛は、美濃の斎藤道三の家臣で大野郡大御堂城城主、竹中重元の子として生まれました。


一説によれば、半兵衛は人質として稲葉山城へ預けられ、快川和尚の指導を受けたとされます。


弘治2年(1556年)の長良川の戦いで、竹中重元は、道三方に付いたために失却しました。

父の不在中、不破光次らに居城を攻められるも、半兵衛は、母と弟と共にこれを撃退し、名をあげました。

当時まだ、13かぞえでした。



 その後、竹中一家は、美濃国不破郡岩手にて潜伏していました。


永禄元年(1558年)

 悪政をしいていた不破郡岩手城主・岩手弾正信冬を攻略し、西美濃の不破郡一帯を支配しました。


永禄2年(1559年)

 重元は、菩提山城を築いて居城を移し、重治らもこれに従ったといいます。

重元・半兵衛は、家臣山田助左衛門を関ヶ原に派遣し、領主の九門太郎を討って版図を拡大しました。

その勢力は不破郡一帯に及んだのです。 (約3万石か?)



 竹中重元が築いた菩提寺山城は、麓の西福(現禅幢寺)に表屋敷を構えています。

有事には、山頂の城に籠もるという、一般的な控えの山城形態でありました。

岩手氏を追った後、不破河内守が攻め寄せたが、明泉寺の防衛ライン(岩手川)で撃退しています。

実際に登ってみると、その要害ぶりが実感できます。


標高402メートルの菩提山に1時間ほどかけて登ると、大きく開けた山頂に菩提山城があります。

南北におよそ210メートル、東西最大幅およそ60メートルの広大な敷地であり、規模の大きな城郭です。

(現在、建造物群は残っていませんが、堀切や堅堀な どの遺構を見ることが出来ます。)




半兵衛の苦悩



『不破の関砦』 陥落す!


半兵衛の苦悩は、ここから始まった。


 ことは、将軍の近臣.伊勢定良が一色義龍の娘と、六角義治との婚姻を画策したことから始まる。

婚姻自体は一度お流れになりましたが、義龍は義治と共謀します。

浅井家の躍進を危惧する竹中家の献策もあり、『浅井攻め』は、間近となっておりました。


しかし、『桶狭間の激戦』にて、尾張への警戒感が高まり、一度策謀は頓挫いたしました。


そこで半兵衛は、西美濃勢と諮り攻略規模を縮小した上で、浅井攻めを敢行します。

半兵衛は、それほどまでに『浅井賢政』を、警戒しておりました。



半兵衛の策は、浅井の封じ込めを狙うものでした。


不破の関を落とし、近江側の長久寺、妙応寺に美濃勢の拠点を作る。

柏原の手前まで進出し、柏原の宿を美濃の影響下におく。

柏原-不破ルートを抑えて、浅井の軍の美濃侵攻の意図を完全に封じ込める。

竹中氏が、砦を守備する。

柏原の宿の利権を双方で折半とし、替わりに通行許可を出す事で手打ちとする。



永禄3年(1560年)7月


半兵衛の計画が実行された。


商人に扮した、配下の者が密かに砦に紛れ、裏門を開いた。

近江側に潜んでいた、竹中氏の手勢が砦に侵入、短時間で制圧した。


「数度の戦闘は避けられないが、地形を利用すれば容易に撃退は可能である。

誘引し思いっきり反撃すればよい」

と豪語し、西美濃勢を近江へと招き入れた。


実際に、半兵衛の計画の通りに事は進み、見事に近江の大軍を撃退しました。

(この時、半兵衛が撃退したのが、六角勢だったことで話は大きく変わってしまいました。)


 竹中氏が、柏原-不破の関の隘路を確保して、この戦いは終結しました。



軍師 『竹中半兵衛 重治』の名声は、こうしてさらに高まったのです。

その名は、地元の西美濃のみならず、『日の本中』に届く勢いでした。


 かくして浅井家は、美濃への進出ルートを竹中氏に完全に押さえられることとなったのです。


 竹中半兵衛は、戦略的要地を手中に治め、ひと安心していた。

これで、浅井家を卦じ籠めることに成功したのだ。


「ー色の京への進出についても、竹中氏が主導権を握ることができる。浅井賢政は、さぞ口惜しい事であろう」

半兵衛は、おもわずほくそ笑んだ。



 一色義龍も、その時点では、戦略上の要地の確保に喜びを露わにします。


「流石は、半兵衛名軍師じゃ」と、惜しみない賞賛をしました。


なんといっても、あの道三さえ果たせなかった快挙です、あそこが上洛する上での最大の難所だからです。


「良くやった」と、上機嫌で西美濃三人衆と、軍師.半兵衛をねぎらった。






 それに対し、浅井賢政は、対ー色の戦闘の為、柏原の宿に住む町人、出入りの商人に対し避難勧告を発した。


柏原を『主戦場』としてでも一色と対決する意思を示したのです。


『売られた喧嘩は高く買う主義だ!!』と、言ったと伝えられています。





一色義龍は、頭を抱えた。


事態は、六角との全面対決の様相を呈したからである。


手に入れたのは、わずかな土地だけだ。

僅かー万石にも満たない。

確かに、『要地』であり、確保すべき所ではあるのだが。


浅井家はともかく、六角家とまで事を構えて手に入れる土地ではない。

2万余もの敵をわざわざ作るなど……馬鹿げた話だ。


 しかも、商人達までが動揺しておる。

不破、鈴鹿、八風。その他全ての峠を浅井・六角に押さえられた。

街道で、美濃の商人もしくは、美濃の物産のみ差し止められているのだ、無理もない。


美濃が交通の要とはいえ、それは、京、近江に通じているからである。

京、北陸への通路を止められてしまえば、美濃の価値は半減どころではない。


これでは、津島の商人にいいようにされてしまいかねない。




半兵衛も頭をかかえた。


「よもや停戦を合意出来なかったとは……」

美濃との交易は、たとえ戦時下でー時的に途絶える事はあっても、すぐに元に戻るそう決まっている。

双方にとって、大切な収入源なのだまちがいない。

商人の反感を買うなど、領主として特策ではない。


それが、『半兵衛の読み』だった。


 負けた方は収入が減るのは、確かだ。

だからこそ、停戦の餌として『あえて柏原は取らなかった』というのに……、


「浅井賢政は、馬鹿なのか?」


「奴は為政者として、なっていないではないか?」



 京では、

『さすが、おろかな義龍は~裏切り者の恥知らず、蝮の子供は、道三の子、親殺し兄弟殺して平気な子~、さすがの”さいとう”美濃のへび~』

という童歌わらべうたまで流行っていた。

おそらくは浅井が流したのでしょう。

年が明ける頃には、もはや誰もー色と呼ばす、斉籐と呼ぶようになっていました。



 そんな中、足利義輝より、『上洛せよ』との命令が、一色家に届きます。

「六角家との対立についての審議をしたい」とのことですが……。

完全に近江路を封鎖されている義龍は、上洛など不可能であった。


何とか使者を伊勢-大和経由で派遣しましたが、本人(義龍)が上洛するなど、ムりでした。


結局、使者が美濃に派遣され、一方的な和解調停がなされました。

条件は、

『占領地の返還と、関ヶ原、牧田、上石津の割譲』でした。




「一方的にこちら(斎藤)が不利な、条件だが、この際致し方がない。

なんとか垂井は除外してもらえたので、石高的には大した事は無いしな。

あの信長の侵攻の脅威を考えれば、浅井との停戦条件としてはたかがしれている。

この八方ふさがりな状況を打開するには安いものだ……」

斉藤義龍は、がっくりしていた。



 南宮山城には、城主として『井伊直盛』が入った。

あの井伊家の元当主である。

兵数以上に、『井伊の赤鬼』の名前が皆には脅威でした。


交戦は禁じているらしく、半兵衛が策を以て仕掛けた時も冷静に対処されたようです。



それから、数年が経ちます。


信長の攻勢に晒された義龍は、渋々ながら半兵衛を重用していました。


しかし、義龍は、今や竹中半兵衛を嫌っていたのです。


義龍は、自分だけ名をあげやっかい事を持ち込んだ、竹中氏に対して警戒を抱くとともに、半兵衛を疎んじたのである。


しきりに尾張の者が、垂井と連絡を取っていると報告も受けていた。


半兵衛が采配を振るえば振るうほど、義龍は彼を遠ざけた。


半兵衛は、戦の時だけ呼ばれる存在になってしまった。


舅の安藤守就以外の西美濃の国人衆は、なぜか半兵衛から距離を取り始めた。


浅井賢政からは、利権がらみで調略が。

織田信長からは、脅迫まがいの恫喝が。

それぞれ仕掛けられていた。


それが、半兵衛を孤立させていった。

ある意味、信長の狙い通りであった。

信長は、半兵衛を手中に収めるべくあらゆる手を打っていた。



もはや、半兵衛自身、訳が判らない状態だ。


戦であるならば、負けることもあるのは、承知している。

それは、覚悟の上である。

相手が自分より優れていたり、情報不足もあろう。

不測の事態であれ、納得しよう。


しかし、自分は、浅井賢政に負けたのだけは承伏しかねるのだ。


あのような君側の奸以下のゲスな男に、自身の策略が破られようとは……



主君におもねり、悪知恵を巡らせ、勝つためには民を苦しめる事を厭わない賢政は悪だ!

武士の風上にも置けない。

金貸しか、商人のような卑しいヤツではないか。

そんな思考に囚われていた。



半兵衛は、それからも尾張の猪武者(信長勢)を相手に策を講じ続けます。


鮮やかに勝利して憂さ晴らしをするも、あの敗北が半兵衛を苛んだ。


なにより、勝利に貢献したにもかかわらず、義龍の扱いが酷いのが許せない。

それもこれも、賢政が美濃を追い込んだからだ。


本来賞賛されるハズの、わたしが・・・


半兵衛は、思考の泥沼に足を取られ抜け出せないでいた。


 若くして名声を掴んだ、青年は意外と打たれ弱かった。

戦力差がある状況では負けも織り込み済みであり、策がならなくても何処かに心の逃げみちはあった。


 しかし、戦略上の要地を鮮やかに奪い、敵の大軍を完膚無きまでにたたきのめし、その後も完璧に押さえ込んだのに……。

なぜに、そのことを主君に非難されなければならないのだ?

理解出来ない。

あいつが、六角を唆したのだ。

卑怯者なのだ!




 まあ自分の事を棚に上げてよく言ったものだ。

しがない国人の半兵衛の立場では、大局的には浅井賢政に勝てないのである。

ある意味、奴は壊れてしまっていた……。



永禄7年(1564年)

2月

竹中半兵衛が、僅かな手勢で稲葉山城を占拠した。


『主君、斉藤義龍を惨殺!』


義龍の子、竜興を当主に仕立てあげ、自らの傀儡とした。



その凶行は、黒軍師.『竹中半兵衛』 の悪名と共に、日の本中に轟いた。




竹中半兵衛、暗黒面に落ちるの巻

でもあります。


正式に、ライバル設定です。

死ぬほど手強いです。

何故こんなことになったのか?を書きました。


これからの展開がコワイです、書くのがツライかも……。


昼間のほのぼのはどこへ行ったのでしょうかね?

これを書くために、三人の嫁に活を入れました。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ