『観音寺騒動』
めんどくさいお話しです。
もちろん史実とは、かなり違います。
新町、『長浜』の完成祝い!
そんな多少まったりした空気の中、嬉しいお知らせがある。
8月
縁の方が男子を出産した、次男(嫡子)誕生だ。
名前は『遮那王丸』とした。
六角承禎様始め、多くの皆様からお祝いをいただいた。
平井の父上が、とても喜んでいる。
お目出たいことが続くものだ。
もう一人も経過は順調だ。
― そして、秋。 ―
『観音寺騒動』
六角義治が、家臣『後藤賢豊親子』を観音寺城内で惨殺するという事件が起こった。
六角氏の最有力の重臣で人望もあった後藤賢豊をだ。
(まあ、いわゆる『観音寺騒動』である)
「何を考えているんだ?」
理由は諸説あるが、賢豊は定頼時代からの六角家中における功臣として人望も厚く、進藤貞治と共に「六角氏の両藤」と称されるほどの宿老であった。
奉行人として、また、六角氏の当主代理として政務を執行できる権限を有していた。
だから、若年の当主・義治が、賢豊の権力を嫌い、これと争ったのであろう。
『当主としての執行権を取り戻すために殺害した』と、皆には思われている。
(地位を利用して着服していた疑いもあるが、裁判無しに惨殺では誰も納得しないだろう。)
「ああ、やはり義治はいろいろ我慢出来なかったか。
俺の時で懲りておけばいいのに、またやらかすとは、成長せん奴だ」
俺はひとりごちた。
なにか理由があるのかもしれないが、あまりにも短絡的すぎる。
せっかく賢豊が、がんばって六角家を盛り立ていたのだが逆に徒になったか?
なんにしろ流石に2回目の大ポカだからな。
義治では、六角が持たないだろうな。
と言うか俺が困る。
さすがの俺も、義治の排除を考えざるを得なかった。
案の定、六角義治に対する家臣団の反感は恐ろしく深刻だったそうだ。
義父平井定武の書状によると、……
『六角家の家臣の多くが六角氏に対して、ものすごい不信感を爆発させ収拾がつかない状態である』
まあそうだろうな、後藤家からも義治を糾弾する書状が俺にまで来ているし。
俺を担ぎ出す気満々だな。
まあ将軍家が健在である現状では、下手に主家を突っつくと、謀反人になりかねない。
だから、やみくもに軍を出すわけにはいかない。
穏便に義治を排除する方向で調停しよう。
平井どのに連絡を入れよう。
騒動はさらに広がりを見せ、うっかり息子をかばった承禎も義治と共に観音寺城から追いだされてしまったらしい。
『いまは、重臣の蒲生定秀・賢秀父子が仲介に奔走している』と、義父上からの手紙に書いてあった。
赤尾清冬、磯野勝昌を俺の名代として観音寺城に送り込むことにした。
この二人なら人質の時からの家臣だから観音寺城の構造と六角家臣に詳しいしな。
夜叉丸曲輪に精兵150人を入れ詰めさす。
あくまで一応浅井は配下というポーズだ。
佐和山の磯野員昌には、念のため有事に備えるように伝えておこう。
荒神山の砦につめている、海北綱親にも警戒を強化させよう。
今回は、出陣は無しの方向で行くことを伝えている。
守護・将軍家に刃向かって、謀反人呼ばわりされたくないからな。
今回の騒動で俺に書状や使者を送ってきたものは多い。
中には臣従の申し出もあるが……なんのことやら。
特に今後についての協力要請が、多岐にわたり送られてきている。
愛智一族の高野瀬氏、池田氏、山崎氏、は、すでに浅井方に属している感じだが…
楢崎氏、永原氏、平井氏も協力関係を申し入れてきた。
後藤氏を始め、宮城氏、小倉氏、山岡氏、今村氏、といった六角被官もよしみを通じてきた。
甲賀衆のうち、美濃部氏、和田氏、山口氏、が内々に協力を求めてきている。
三雲氏、山中氏、水原氏、望月氏、多羅尾氏は、六角承禎派として手を貸して欲しいようすだ。
とりあえずわざわざ小谷までやって来た者には、落ち着いてもらうようお茶に招待した。
皆を区別しないで、されど個別に応対する。
― 小谷城にて ―
「賢政殿!ぜひ…」
「まあ、落ち着かれよ。」
「しかし」
「事は六角家当主が絡む問題、無用に騒ぐのは宜しくありません」
「ですが」
「私も、観音寺城へ飛んでいきたいところですが、ヘタに動くわけにもまいりません。」
「……」
「とりあえず承禎様がご無事であるならば、見守りたいと思います。」
「むむっ」
「平井の父上によろしくお伝えください。ではもう一服立てましょう。」
「……おいしい。」
「□□殿は、なかなか筋がよろしいですなぁ」
(とりあえずほめごろし)
「はあ」
「かような事態に、お家の為に親身になって対処出来るとは、流石は□□殿です」
「賢政殿~♡」
(まあ、簡単に言えばこんな感じで、無意味な要求を躱した。)
それからも、平井定武殿と連絡を取り合い事態を見守った。
とはいえ、俺も猪飼氏と山岡氏とは真っ先に連絡を取り合っている。
大切な商売のパートナーだからな。
後は、状況次第で構わない。
替えが効くからだ、と云うか利権の横取りも可能だしな。
清冬からの報告によると、蒲生定秀が、この機会に国人連中を抱き込む画策をしているらしい。
六角家臣からの要望を『近江式目』にとりまとめる事を主張している様子だ。
俺的には、『領主の権限を制限』されてはかなわないので、そこは絶対に排除したい。
(せめて対象を義治に限定して欲しい。)
やはり蒲生家が、この機会に乗じようとしているようだ。
「こいつは、手強い相手だな」
他に事態の収拾が可能なのが誰かを見定め、後藤氏、進藤氏に連絡を取ることとした。
両籐に連絡を取り協力関係を取り付けた。
その上で、
「浅井としても、事態収拾に協力する用意がある」旨を、使者たて蒲生に送り伝えた。
俺の強力な軍事力の後ろ盾と、蒲生の必死の交渉で家臣団の暴発を押さえた。
(六角家と浅井家では、浅井家が大幅に勢力が劣る。が、六角家内部に浅井家が入り込めれば、政党の原理が働き進藤、蒲生を抑えて浅井が最大派閥となる。所詮六角配下の諸家と、うちでは『規模』が違う。)
その上で、進藤家と被害者の後藤家を味方につければ、こちらのペースだ。
蒲生は長子相続を盾に、義治の復権を主張した。
「言いたくはありませんが、私を嵌めようとした時を含めて短い期間で2回目です。」
まずは軽く爆弾発言!する俺。
「左様!」
「蒲生殿が、保証していただけるのですか?」
「ですから、式目を纏めてそれで……」
頑なに式目にこだわる『蒲生くん』
「何を悠長な!」
「「そうじゃそうじゃ」」
「くっ、しかしだな……」
「とりあえずは、承禎様を観音寺城にお戻しいたしましょう。それからのことは承禎さまの元で皆さんで評定にかけていただければ構いません。私としては決議に従うまでです」
そうして、仲介が実り、六角承禎・義定父子は、ようやく観音寺城に戻ることができた。
評定が行われたが。
後藤氏を始め、多くの家臣団の意見ということで、義治は観音寺にて謹慎を続けさせた。
「さすがは浅井賢政殿だ」
多くの家臣が、皆の意見をとりまとめ穏便に対処した俺を支持した。
自らの主張を強引に押し通したりしなかったことが、高く評価されたようだ。
義治の弟の義定に、六角の家督を継がす方向で話がまとまった。
(江戸時代ならばともかく、馬鹿な当主に付いていく奴はいないのだよ蒲生君。)
蒲生定秀が強硬に『近江式目』を主張していた。
近江式目は、大名領主の権力を制限する方向で国人領主有利に取り纏められる算段だ。
蒲生は、六角家のみならず俺の権利も制限する腹づもりらしかったので、俺がつぶした。
でも諦めきれない蒲生君は『六角(義治)式目』として、後日華麗に制定した。
コイツは官僚だ。
― 六角氏式目は、戦国時代の分国法の一つである。 ―
南近江の六角家で制定された。
別名、義治(バカ殿対策)式目ともいう。全69条。
制定は、永禄8年(1565年)
この制定の背景には、永禄6年に起こった『観音寺騒動』がある。
権力拡大を目指していた六角氏が、逆に権威を失墜させてしまったことに端を発する。
六角氏の権威が弱まる中で、蒲生定秀ら国人衆が式目を大急ぎで起草し纏め上げた。
それを六角承禎・義定父子が式目を承認する形で成立した。
これは、承禎・義定と20名を越す有力家臣との間で、式目の遵守を誓う起請文を相互に取り交わす形式を取っている。
他の分国法と異なり、大名の権力を大幅に制限すると云う、通常ありえないものとなっている。
これは、南近江における国人層の厄介さを如実に示している。
また、69か条からなる内容は、だらだらと民事規定が中心である。
原則としては、慣習法を尊重している、要は手抜きである。
大名権力を規制する一方で、国人領主の利権を擁護している。
要するに、『 国人の国人による国人の為の、六角(を押さえ込む)式目 』なのである。
慌てて作った為に国人衆(蒲生)の本音がダダ漏れである。
(歴史で習った時、他国の分国法とは、毛色がまるで違い悩んだものだ。)
― 最近、六角家が緩んできている。 ―
俺が考察するに、
六角義治の馬鹿のせいもあるが、度重なる戦の戦費が六角を苦しめている。
三好と違い所領が、ほとんど増えていない。
2万の軍を恒常的に派兵していては、そりゃ財政が持たないだろう?俺は儲かるが。
忍者を格安で使いつぶす六角のやり方は、そろそろ破綻しそうだ。
なぜなら、かなりの忍者の家が、俺にすり寄ってきている。
交渉して分家を家ごと、御家人として召し抱えていく方針だ。
水原氏、望月氏、美濃部氏、和田氏、山口氏、がその対象だ。
伊賀の百地にも声を掛けてある。
浅井家も、これでようやく本格的に忍者を使える。
諜報活動のみならず有効に活用しよう。
手詰まりだった優秀な人材の発掘を行うことにする。
そして、12月
お市の方、出産。
三男『清州丸』が誕生した。
いや、めでたい。
― 補足 ―
あくまで、
暴発を押さえ、とりあえず皆を取り纏め、承禎を呼び戻したただけですので、
国人衆が、六角の支配に戻るかどうかは、話がまた別になります。
騒ぎに乗じて、勢力を伸ばすような短絡的行動は敢えてしません。
世の中、信用と実績が大切です。
それは、戦国でも同じでしょう。
命がけな分、信義は大切です。
式目の条数が違うのは。
『但し、浅井を除く!』と云う条文とかを入れたせいです。




