『小谷の寧日』
本編に戻ります。
1562年~です。
浅井家にとっては、1562年は比較的穏やかに過ごせた。
織田家より、『市姫』をもらい受け、新婚生活はとても新鮮で楽しかった。
まあ、色々あったとだけ言っておこう。
内政も先年よりおこなっている政策を推し進めているところである。
秋には、直経夫妻に息子が生まれたのも、目出度い仕儀である。
『経吉』という名前だそうだ。
なんか微妙な名前だな?
六角義治は、斎藤家との和睦の際、以前伊勢貞良(足利義輝の近臣)の仲介があった、義龍の娘を娶った。
まあ、浅井が停戦合意したのだから、問題は無いのだが、不自然ではある。
斎藤家としては、織田家の『市姫輿入れ』に対抗した処置だと考えられる。
六角承禎様は、いったん破談にしたハズのこの婚姻について、まったく承知しておられなかった。
戦争で忙しかったとは言え、困りますね。
馬鹿息子の無思慮な行為に、大いに嘆いたそうだ。
俺としても義治の代になったら、かなり苦労しそうだ。
伊勢貞良の迷惑な置き土産だな。
四郎にも、困ったものだ。
このままでは、いずれ美濃へすら進出が出来なくなる時が来そうだ。
今のうちに、六角家家臣とのつながりを強化しておこう。
観音寺城に赴き、頻繁に茶会を開いた。
とくに湖東方面には、気を配った。
荒神山砦と肥田城が、拠点として俺の役に立った。
一度不和になりかけた将軍家と六角家との仲立ちもおこなったし、外交的には成功だろうな。
収穫も順調だった。
三河の一揆が相当激しいので、いずれ米が値上がりしそうだ、米の備蓄を気をつけよう。
もちろん町造りも順調だ。
永禄6年(1563年)(18歳)
1月に和泉では、根来衆と三好軍が激突したらしい。
戦いは長期化の様相を呈し、最終的には10月に康長との間で和談が成立した模様。
信長も相変わらず頑張っている。
今は、東美濃への進入を試みている。
新加納の戦いでは、斎藤義龍と戦い敗れている。
意外と義龍は強い、史実ならそろそろ死んでいるはずだが、まだ生きている。
美濃も、防衛の為に家臣が一体となってまとまり信長を撃退しているようだ。
半兵衛が采配を振るい活躍するので、余計に厄介である。
7月、織田信長は小牧山に築城を開始した。
どうやら本腰を入れて美濃を攻略するようだ。
経済基盤の弱い東側ねらいのようだ。
尾張の兵は弱いが、まともにやり合うと継戦能力の違いでスゴク疲弊する。
ここがぼうやの強みだ。
信長としても三河が一揆で混乱している内に、何とかしたいのだろう。
焦りが見受けられる。
またもや敦賀の朝倉景晃が若狭の粟屋勝久攻めに出陣したとの事だ。
観戦武官として、磯野勝昌(勝太郎)を送る。
補給の手伝いをさせるつもりだ。
浅井家は内政を中心に力を注いでいる。
井ノ口の商人が戦災を避ける為、あれ以降も結構小谷城下に流れてきている。
度重なる信長の来襲に完全に見限ったものも多い。
目加田、伊勢、根来や堺、京、津島からも店が進出してきている。
俺の予定を越える程、急速に商人町が形成されていく。
穴太衆を呼んで要所要所石垣を組まさせた。
見栄えにも気にして白壁・黒壁を取り入れている。
― 7月吉日 ―
新町もある程度形になってきた。
名前を「長浜の町」と命名した。(本来の俺の名を取りいれた。)
まあ由来は適当に誤魔化した。
新町の誕生という名目で
町と城下を結ぶ大道で武者行列や馬比べ、仮装行列をさせ新しい町の完成を祝った。
振る舞い酒もふるまった。
噂を聞きつけ、さらに人が押し寄せる。
これはちょうど良い機会とばかりに、下の弟の元服も行った。
『浅井 政之』と名乗らせる。
政元と、ともに俺を支えて欲しいと思う。
烏帽子親は俺。
公園を設置し、屋根組だけの露天見世物小屋を作った。
そこで能を奉納したり、能を判りやすくした歌舞伎を催すことにした。
俺がアレンジした乙女歌舞伎は大成功だった。
見世物としても成功したし、豪華な衣装や新作の浜縮緬を宣伝出来る。
ファッションショーと、衣装の即売みたいな感じで人気上々だ。
町民が自由に参加して踊れるスペースも設けた。
安全な町なので、娘の『那月』と息子『夜叉法師』の可愛い晴れ姿のお披露目もありなのだ。
親ばかと笑うがイイ。
治安維持の為、少し離れた場所に花街、遊郭の区画を設定しておいた。
花街がお手頃に遊べる場で、遊郭が格式をつけて金持ち商人がお大尽遊び出来る場にした。
家臣の屋敷地も新たに割り当てているので、これから順次建設させることとする。
お祝いにかこつけて下向してきた公家達や女房、豪商と呼ばれる商人に、お茶をおいしく味わっていただこうとお茶会を開いた。
当主となった後、雲雀山の屋敷は、俺のプライベートな奥座敷として、かなり拡張しているのである。
戦国大名家としての浅井家の公務は、小谷の城館で国人達、家老・重臣を交えて評定をおこなっている。
軍議や、公式行事は、もちろん小谷城だ。
浅井家としての政務と賢政の日常の生活は、雲雀山の屋敷でとっている。
俺の趣味で小谷城にも西麓に庭園を作成して、片隅に渋い茶室を作ってある。
借景で湖畔を眺める茶室が好評だ。
湖面に浮かぶ竹生島がいい感じで、船がゆったりと動くのがさらに良いとのことだ。
書院や客殿にも、接待用に大きめの茶室を作っている。
お茶菓子も、砂糖菓子、羊羹、ういろう、きんつばを職人に指示して作らせている。
城下町、長浜の町の見栄えが良いので、俺の茶器がさらによく見えるようだ。
まあ、お茶菓子のおかげでお茶がさらにおいしく感じられるらしく、菓子、菓子皿までもが、高評価を受けた。
おかげで一般用の茶器類までもが、それなりの高額で取引される。
俺としてはTPOに合わせて客を招待したのだが、向こうが勝手に自分を格付けする。
格を上げようとしてか、茶器を譲って欲しいと低姿勢の者まで出る始末だ。
(茶器を買った人にしか招かないとっておきの場所もあるしね、気持ちはわかる。)
噂が噂を呼んで、自称茶人・文化人が来る。
小谷城の北西すぐにある岡山にも、回遊式庭園を持つ客殿を新たに建てることにした。
迎賓館のつもりだ。
本来は、お市さまが来た時に住居として使おうかと、一応下準備はしていたのだが……。
(予定では、輿入れはまだ当分先だったので、只今建設中だ。)
旅館のノウハウも盛り込んで来客に快適に過ごしていただけるようにしたい。
いわゆるおもてなし空間だ。
がんばって露天風呂も作った、さすがに温泉を掘るには至っていない。
竈で焼いた石を湯に入れて温度調節する豪快な仕様が人気だから、それを採用する。
こうして、小谷城下.長浜の町が形成されていった。
そんな多少まったりした空気の中、騒ぎが起こった。
― 捕捉説明 ―
賢政が居る関係上、将軍家を巻き込む戦闘はあまり起こっていません。
もちろん、六角や三好等の争いはありますが、平気で『荷止めする』ある意味馬鹿を、怖れています。
皆が、経済の中心地に領地を持つ大名・国人衆なので、ある意味DQNな賢政は腫れ物扱いです。
商圏のキモを握るというのは、効果的ですね。
皆が、『敬して(都から)遠ざける』のが吉と思って居るみたいです。
もちろん賢政も馬鹿ではないですし、実際には『京への荷止め』など到底実行不可能です。
が、そこは賢政のハッタリとパフォーマンスです。
無意味なことはしておりません。
賢政は、気前よく利益供与をしていますので、そこが皆のジレンマです。
将軍.義輝公が気に入るはずです。
本編です。
『お市』『伊吹』のお話しは、またいずれします。




