オレンジ色のキス
最上段に手を伸ばす。届かない。爪先立ちで伸ばした指の先に、少し荒れた指が触れた。思わず引っ込めた右手で、すこしずれた眼鏡を直す。
「…ありがとう…」
一瞬包まれた匂いと、目当ての本に添えられた手だけで彼とわかる。すぐ後ろに体温を感じて、耳が熱い。
振り返る事はできず、書棚の最上段を見つめた。骨ばった長い指は、書棚の本に触れたまま動かない。
「…いて…」
書棚と彼との隙間は思ったより広くて、彼の声は遠い。
「こっち、向いて」
もう一度聞こえた、いつもと違う低めの声に戸惑いながら振り返る。
棚に手を伸ばしたままうつむき加減でこちらを見つめる彼の表情は、肩の向こうから射し込む夕暮れのオレンジの光で影になり、よく見えない。
伺うように見上げると、彼は少し目を細めた。
何を考えているのか知りたくて、その瞳を見つめる。それは、こちらも見つめられていることになるのに。
ふっと息をついて、すぐに表情を戻した彼の顔がゆっくり近づいてきた。
反射的に同じ距離を保とうと後退りを試みたけれど、少しも下がれないまま書棚に背中がついた。
視線を逸らすことも叶わず、見つめたまま距離が縮まる。彼の瞳が一瞬揺れた。
逃げ場を探して、やっと逸らした目の前、最後のシールドに彼の指が触れて思わず目を閉じる。
眼鏡を外されても目を開けることは出来ず、さらに強く瞑る。熱くなった頬に彼の温度が近づいた気がした。
一瞬、触れた。
唇に、軽く、彼のそれが。
その一瞬で身体中の熱が、そこに向かってゆく。熱を奪われた指先がどんどん冷えて痛い。
すぐにもう一度、今度はさっきよりも少しだけ長く触れて離れる。
冷たくなった指先が、温もりを探る。目を閉じたまま、恐る恐る伸ばした手が、彼のシャツに触れた。
押し退けるはずの指は、そのまま甘受してしまう。彼の左手が頬から髪を掠めて耳朶に触れた。僅かに震えた唇にもう一度、彼の唇が重なる。
想いがみんな彼に伝わってしまう気がした。
遠くに他人の気配がして、唇が離れた。名残惜しそうに少し遅れて、指先も離れる。
無意識に彼のシャツを掴んでいた両腕の上に、本の重みを感じて慌てて目を開けた。本を落とす訳にはいかない。
シャツを離して本を持ち直すと、顔を上げた。オレンジ色の光に一瞬目が眩む。
ぼんやりした視界で、彼の表情はわからない。眼鏡をかけられて目が合うと、思わず視線を落とした。
彼のシャツのシワが見えて動揺する。私が掴んでいた跡。
紅潮した顔を本で隠そうとした時、彼が歩き出した。離れていく事に少し不安を感じる自分に驚いた。胸が苦しくなる。
床に置いてあった上着を拾うと、何度か叩いて片方の肩に掛けた彼が、書棚の角を曲がる瞬間、こちらを見て笑った。満足げに。
「な、何してくれてるの…」
彼の姿が見えなくなったとたんに力が抜けて座りこんだ。本で顔を隠して、右手で唇に触れる。
まだ仄かに熱い唇に目眩を覚えて顔をあげる。窓から入る光が色を変えていない事に驚いた。ほんの数分の出来事だったんだ。
触れられた耳が熱い。感覚は無いはずの髪まで熱い。唇から彼に伝わった熱。
空の色が変わり始める。オレンジ色の上に被さった群青色を眺めながら、もう一度、右手で唇に触れた。
fin




