第九章 弟
紬の相手が弟・尚人だと知った晴人。
怒りと嫌悪、そして揺らぐ自分自身の感情に飲み込まれていく。
尚人を呼び出したのは、その日の夜だった。
駅前の安い居酒屋。
個室に入るなり、僕は前置きなしに聞いた。
「紬と関係を持ったのか」
尚人は、最初、何を言われたのかわからない顔をした。
それから、ああ、という微妙な間があった。
その一瞬で、僕はすべてを悟った。
「…兄貴、なんで」
「本当なんだな」
尚人は視線を逸らした。
「一回だけだよ」
その言葉で、僕の中の何かがきれた。
気づけば、尚人の頬を殴っていた。
椅子が倒れ、グラスが落ちて割れる。店員が駆け寄ろうとしたが、外で待っていてくれと怒鳴って追い返した。
「一回だけ?」
僕は胸ぐらを掴んだ。
「相手が何歳かわかってたのか」
「わかってたよ」
「じゃあ、どういう神経で——」
尚人は口の端を切り、血を拭った。
「向こうも嫌がってなかった」
その一言が、さらに火をつけた。
二発目を振り上げたところで、尚人が腕を掴んだ。
「兄貴だって、あの家に入り込んでただろ!」
「は?」
「兄貴が本気なのはわかってた。でもさ、俺からしたら、あの子も普通に俺に懐いてただけだよ。何が悪いんだよ」
僕は一瞬、耳を疑った。
「何が悪い?」
「だって、紬も大人っぽいし、別に無理やりじゃ——」
三発目は、自分でも驚くほど重かった。
尚人が床に倒れ込む。
その顔を見下ろしながら、僕は自分が弟を殺す想像を、はじめてした。
「二度と紬に近づくな」
尚人は怯えと怒りの混ざった顔で僕を見上げた。
「何だよ、急に正義の味方面すんなよ。兄貴だって、あの家族にハマってるだけだろ」
その言葉は、妙に刺さった。
家へ戻る道すがら、何度も反芻した。
僕は、本当に誰のために怒っているのか。
紬のためか。
知佳のためか。
それとも、自分の描いていた未来が壊されたことへの怒りなのか。
答えは出なかった。
部屋へ戻ると、リビングの明かりはついていた。
知佳はソファに座ったまま、テーブルの一点を見つめていた。
「話した」
「……どうでしたか」
「認めた」
知佳は目を閉じた。
その顔から、最後の希望みたいなものが消えていくのがわかった。
「紬は?」
「寝てる… ふりしてるかも」
「話せる?」
「今日は無理かも」
その夜、僕は帰らなかった。
知佳が一人でこの夜を越えられるとは思えなかったからだ。
深夜、リビングのソファで横になっていると、廊下を歩く小さな足音がした。
紬だった。
「…起きてますか」
小さな声だった。
「起きてるよ」
紬は立ったまま、僕を見た。
泣いたあとの顔で、それでもちゃんと背筋を伸ばしていた。
「晴人さん、ごめんなさい」
「紬が謝ることじゃない」
「でも、私……」
言葉が続かない。
僕は起き上がって、ソファに座り直した。
「ここ座る?」
紬は少し迷ってから、端に腰を下ろした。
「怖かったです」
「うん」
「ママに知られるのが、一番怖かった」
「……」
「嫌われると思った」
僕は首を振った。
「知佳は嫌わない」
「でも、壊れると思った」
その言葉に、胸が詰まった。
紬はまだ、自分のことより母親のことを考えていた。
「どうして尚人なんだ」
聞くべきか迷った。
でも、聞かなければならないと思った。
紬は少しの間、黙っていた。
「……最初、晴人さんの弟だって知らなかったんです」
僕は何も言わなかった。
「駅前で何回か会って、話して……ママの彼氏のお兄さんって聞いた時には、もう、ちょっと仲良くなってて」
「それで?」
「優しかったんです」
その“優しい”が、どれだけ空虚なものか、今ならわかる。
けれどその時の紬には、そう見えたのだろう。
「私、ずっと父親ってよくわからなくて。でも、晴人さんとママを見てると、こういう人がお父さんになるのかなって思ってて」
紬は、泣きそうな目で笑おうとした。
「だからたぶん、勘違いしたんです。似てるわけないのに」
僕は、何も返せなかった。
「ごめんなさい」
紬はもう一度言った。
「ママにも、晴人さんにも」
その夜の紬の顔を、僕は長く忘れられなかった。




