表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/11

第九章 弟

紬の相手が弟・尚人だと知った晴人。

怒りと嫌悪、そして揺らぐ自分自身の感情に飲み込まれていく。

尚人を呼び出したのは、その日の夜だった。


駅前の安い居酒屋。

個室に入るなり、僕は前置きなしに聞いた。


「紬と関係を持ったのか」


尚人は、最初、何を言われたのかわからない顔をした。

それから、ああ、という微妙な間があった。


その一瞬で、僕はすべてを悟った。


「…兄貴、なんで」


「本当なんだな」


尚人は視線を逸らした。


「一回だけだよ」


その言葉で、僕の中の何かがきれた。


気づけば、尚人の頬を殴っていた。

椅子が倒れ、グラスが落ちて割れる。店員が駆け寄ろうとしたが、外で待っていてくれと怒鳴って追い返した。


「一回だけ?」


僕は胸ぐらを掴んだ。


「相手が何歳かわかってたのか」


「わかってたよ」


「じゃあ、どういう神経で——」


尚人は口の端を切り、血を拭った。


「向こうも嫌がってなかった」


その一言が、さらに火をつけた。


二発目を振り上げたところで、尚人が腕を掴んだ。


「兄貴だって、あの家に入り込んでただろ!」


「は?」


「兄貴が本気なのはわかってた。でもさ、俺からしたら、あの子も普通に俺に懐いてただけだよ。何が悪いんだよ」


僕は一瞬、耳を疑った。


「何が悪い?」


「だって、紬も大人っぽいし、別に無理やりじゃ——」


三発目は、自分でも驚くほど重かった。

尚人が床に倒れ込む。

その顔を見下ろしながら、僕は自分が弟を殺す想像を、はじめてした。


「二度と紬に近づくな」


尚人は怯えと怒りの混ざった顔で僕を見上げた。


「何だよ、急に正義の味方面すんなよ。兄貴だって、あの家族にハマってるだけだろ」


その言葉は、妙に刺さった。


家へ戻る道すがら、何度も反芻した。

僕は、本当に誰のために怒っているのか。

紬のためか。

知佳のためか。

それとも、自分の描いていた未来が壊されたことへの怒りなのか。


答えは出なかった。


部屋へ戻ると、リビングの明かりはついていた。

知佳はソファに座ったまま、テーブルの一点を見つめていた。


「話した」


「……どうでしたか」


「認めた」


知佳は目を閉じた。

その顔から、最後の希望みたいなものが消えていくのがわかった。


「紬は?」


「寝てる… ふりしてるかも」


「話せる?」


「今日は無理かも」


その夜、僕は帰らなかった。

知佳が一人でこの夜を越えられるとは思えなかったからだ。


深夜、リビングのソファで横になっていると、廊下を歩く小さな足音がした。

紬だった。


「…起きてますか」


小さな声だった。


「起きてるよ」


紬は立ったまま、僕を見た。

泣いたあとの顔で、それでもちゃんと背筋を伸ばしていた。


「晴人さん、ごめんなさい」


「紬が謝ることじゃない」


「でも、私……」


言葉が続かない。

僕は起き上がって、ソファに座り直した。


「ここ座る?」


紬は少し迷ってから、端に腰を下ろした。


「怖かったです」


「うん」


「ママに知られるのが、一番怖かった」


「……」


「嫌われると思った」


僕は首を振った。


「知佳は嫌わない」


「でも、壊れると思った」


その言葉に、胸が詰まった。

紬はまだ、自分のことより母親のことを考えていた。


「どうして尚人なんだ」


聞くべきか迷った。

でも、聞かなければならないと思った。


紬は少しの間、黙っていた。


「……最初、晴人さんの弟だって知らなかったんです」


僕は何も言わなかった。


「駅前で何回か会って、話して……ママの彼氏のお兄さんって聞いた時には、もう、ちょっと仲良くなってて」


「それで?」


「優しかったんです」


その“優しい”が、どれだけ空虚なものか、今ならわかる。

けれどその時の紬には、そう見えたのだろう。


「私、ずっと父親ってよくわからなくて。でも、晴人さんとママを見てると、こういう人がお父さんになるのかなって思ってて」


紬は、泣きそうな目で笑おうとした。


「だからたぶん、勘違いしたんです。似てるわけないのに」


僕は、何も返せなかった。


「ごめんなさい」


紬はもう一度言った。


「ママにも、晴人さんにも」


その夜の紬の顔を、僕は長く忘れられなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ