第八章 ほころび
紬の異変、知佳の動揺。
やがて明かされた事実が、三人の穏やかな日々を音もなく壊していく。
春が近づく頃、紬の様子が少し変わった。
最初は本当に些細なことだった。
夕飯を前ほど食べなくなった。
食後に急に席を立つことが増えた。
前ならすぐ返ってくるメッセージが、最近は少し遅い。
「受験のこととか、学校のこととか、いろいろある年頃だから」
知佳はそう言っていた。
実際、そういうものかもしれないと僕も思った。
でもある日、夕食の最中に紬が急に青ざめて、口元を押さえた。
「ごめん、ちょっと…」
慌てて洗面所へ駆け込む背中を、知佳と僕は黙って見送った。
「大丈夫かな」
「最近ちょっと体調悪そうなんです」
「病院行った?」
「行こうって言っても平気って言うから…」
その夜、紬は「本当に大丈夫」と言い張った。
顔色は悪いのに、笑ってごまかす。知佳が心配しても、「たぶん胃腸炎みたいなやつ」と軽く流した。
けれど翌週、知佳から昼間に電話があった。
仕事中だと知っていて電話してくることは、ほとんどない。
「晴人さん」
声が、震えていた。
「どうした」
「ごめん、今、話せますか」
「うん。何があった」
数秒、沈黙があった。
向こう側で、知佳が呼吸を整えているのがわかる。
「……紬が、妊娠してました」
その瞬間、世界の音が遠のいた。
オフィスのキーボードの音も、電話の保留音も、全部どこかへ引いていった。
僕は会議室へ逃げ込むように入り、ドアを閉めた。
「病院で、言われたの?」
「うん」
「紬は?」
「今、家。泣いてます」
知佳の言葉の端に、ひどく硬いものが混じっていた。
怒りとも絶望ともつかない、壊れたガラスみたいな感情だった。
「行くよ。すぐ行く」
「…お願い」
仕事のことなんて頭になかった。
上司に適当な理由を告げて会社を出て、駅まで走った。
電車の中で何度も考えた。
相手は誰だ。
同級生か。
年上か。
無理やりではないのか。
でも考えるほど、嫌な想像しか出てこなかった。
知佳の部屋に着くと、リビングの空気は止まっていた。
カーテンは閉まっていて、昼間なのに薄暗い。
テーブルの上には病院の封筒と診察券。
知佳はソファに座ったまま、両手をきつく握っていた。
奥の部屋から、押し殺した泣き声がかすかに聞こえる。
「知佳」
僕が呼ぶと、彼女はゆっくり顔を上げた。
その顔を見て、言葉を失った。
泣きはらした顔ではない。
泣きたいのに泣けない人の顔だった。
「……ごめんなさい」
「なんで知佳が謝るんだ」
「わからない。もう、何が何だか…」
僕は彼女の前にしゃがみ込んだ。
「相手は?」
知佳は、すぐには答えなかった。
「紬は、まだ言わない」
「聞いたのか」
「聞いた。でも、最初は黙ってた。怖くて聞けなかった。でも聞かなきゃって思って… そしたら」
そこで、知佳の喉が詰まった。
「誰」
知佳は、僕を見た。
目の奥が、凍っていた。
「尚人くん」
僕は、何も理解できなかった。
「……え?」
「紬が言ったの。尚人くんだって」
理解するまでに時間がかかった。
いや、理解したくなかったのかもしれない。
「嘘だろ」
「私もそう思いたかった」
「何で……どうやって?」
知佳は首を振った。
「わからない。全部、わからない」
奥の部屋から、紬の嗚咽が聞こえた。
それが、現実だと突きつけてきた。
僕は立ち上がった。
このままじゃ部屋の中の空気ごと壊してしまいそうだった。
「尚人に会う」
「晴人さん」
「会って話聞く」
「お願い、今は……」
「今しかないだろ」
知佳は何か言いかけて、結局黙った。
その沈黙の中には、僕を止めたい気持ちと、止められない気持ちが混ざっていた。
僕はそのまま部屋を出た。




