第七章 家族の形
知佳と紬との時間の中で、晴人は未来を思い描き始める。
だがその裏で、弟・尚人の存在が不穏に影を落としていく。
知佳が過去を話した夜から、僕は彼女を前よりもっと大切に扱うようになった。
大切に、という言葉が正しいのかはわからない。
壊れ物を扱うみたいに慎重になった、と言った方が近いかもしれない。
でも知佳は、そんな僕に気づくと時々笑った。
「そんなに気を遣わなくていいのに」
「遣ってるつもりないよ」
「あります。お皿持つ時みたいな顔してます」
「どんな顔だよ」
「割れないようにって顔」
僕は苦笑したが、図星だった。
ただ、それを嫌がるだけではなく、知佳は少し嬉しそうでもあった。
誰かが自分の傷を知って、それでもなお隣にいることに、戸惑いながらも、救われているみたいだった。
紬もまた、以前より僕に懐くようになった。
きっかけは本当に些細なことだ。
数学の問題がわからないと言うから、食後に一緒に解いた。
「晴人さん、教えるのうまいですね」と言われて、「営業だから」と答えたら、「関係あります?」と笑われた。
それから、学校の提出物の志望理由書を見てほしいとか、修学旅行のお土産は何がいいかとか、そんなことまで話すようになった。
ある日、紬がリビングでノートを広げながら言った。
「晴人さんって、将来子ども好きそう」
「なんだそれ」
「なんか、ちゃんと向き合ってくれそう」
「それ、褒めてる?」
「めちゃくちゃ褒めてます」
ソファに座っていた知佳が、ふっと笑った。
「紬はね、小さい頃から大人を見る目だけはあるの」
「だけってなに」
「他は?」
「片付けが苦手」
「ママにだけは言われたくない」
「私は仕事でちゃんとしてるからいいの」
「家でもしてください」
そんな会話をしている時、僕は何度も思っていた。
この時間が続けばいいと。
年が明けたら、ちゃんと知佳に話そう。
結婚を前提に付き合ってほしいと、改めて伝えよう。
紬にも、時間をかけて、少しずつ家族の形を作っていけたらいい。
早すぎる気もしていた。
でも不思議と、焦りではなかった。
知佳といると、未来の輪郭が自然に見えた。
その頃から、弟の尚人が妙に僕のことを探るようになった。
「兄貴、最近ほんと機嫌いいよな」
正月に実家へ顔を出した時、尚人は缶ビールを片手に笑った。
「そうか?」
「わかりやすいって。女でしょ」
「まあ、そうだけど」
「どんな人?」
「普通の人だよ」
「普通の人に兄貴がそこまでハマる?」
その言い方に少しだけ引っかかったが、僕は適当に流した。
「お前には関係ないだろ」
「冷たいなあ。弟なのに」
尚人は昔からそうだった。
軽くて、人懐っこくて、どこにでも入っていける。
悪気なく人の距離を詰めるタイプだ。
子どもの頃から、親戚にも近所の人にもかわいがられた。
要領がよく、怒られても本気ではへこたれない。
僕とは真逆だった。
だからこそ、僕はどこかで、弟を「深く考えない奴」として扱っていた。
それがどれだけ危ういことか、その時はまだわかっていなかった。
二月の終わり頃、一度だけ、尚人が突然僕の会社の近くまで来たことがあった。
「たまたま通ったから飯でもどうかと思って」
そう言っていたが、あまりに偶然すぎた。
居酒屋に入り、他愛もない話をしている最中、尚人が急に言った。
「その人、子どもいるんだっけ」
僕は箸を止めた。
「なんで知ってる」
「前に言ってたじゃん。気のせい?」
たしかに、一度だけ「娘さんもいる」くらいの話はしたかもしれない。
でも、尚人は妙に興味を示した。
「何歳?」
「高校生」
「へえ」
「何」
「いや。兄貴、ほんとに人生ごと引き受けるタイプなんだなって思って」
その言い方が少し気に障った。
「引き受けるとか、そういう話じゃない」
「じゃあ何」
「好きな人に大事なものがあったら、それごと大事にするだけだろ」
尚人は少し笑って、グラスを回した。
「兄貴って、やっぱ重いよな」
冗談のつもりだったんだろう。
でも、その夜の僕は珍しく気分が悪くなった。
帰り道、寒い風の中で、自分でも説明しづらい不安を感じた。
理由のない勘のようなものだった。




