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第六章 傷の形

知佳が語る、封じ込められていた壮絶な過去。

その傷の深さを知った晴人は、彼女を守りたいと強く願う。

秋が深まるにつれて、知佳は時々、黙る時間が長くなった。


紬がいる前では変わらない。

ちゃんと笑うし、食事も作るし、学校の話も聞く。僕が持っていった差し入れに「また甘やかして」と困ったように笑うこともある。


でも、ふとした瞬間に、表情が空白になることがあった。


たとえば、駅前で小さな男の子が母親に抱きついて泣いているのを見た時。

あるいは、テレビで芸能人の結婚報道が流れた時。

もっと些細なことで言えば、スーパーのベビー用品売り場の前を通った時ですら、知佳は時々、目を逸らした。


それに気づいても、僕はすぐには触れなかった。

触れたら壊れるガラスみたいなものが、彼女の中にある気がしていたからだ。


その夜、紬は学校行事で遅くなると言っていた。

知佳の部屋には僕と彼女の二人きりだった。


夕飯を食べ終えて、シンクに皿を運ぶ知佳の背中を見ていた時、僕は何となく思った。

今なら、聞けるかもしれない。


「知佳」


「ん?」


「前に言ってたよね。普通って何かわからなくなる付き合い方があるって」


知佳の手が止まった。

蛇口の水だけが流れ、白い皿の表面を震わせる。


「…覚えてたんですね」


「忘れないよ」


知佳はしばらく黙っていた。

逃げるように洗い物を続けることもできたはずなのに、その日はそうしなかった。


蛇口を閉め、手を拭いて、ゆっくりこちらを向く。

目は、少しだけ濡れて見えた。


「晴人さん、私のこと、どこまで知ってますか」


「どこまで、って?」


「紬がいることは知ってる。私が一人で育ててきたことも知ってる。でも、どうして私が十代で子どもを産んだかは、知らない」


僕は何も言わずに、ソファの隣を空けた。

知佳はそこに座ったけれど、少し距離を置いたままだった。


「両親が離婚したのは、小学四年生の時です」


知佳の声は、ひどく静かだった。

感情をなくした人の声ではなく、感情が多すぎて、かえって平らになってしまった声だった。


「母に引き取られました。父のことは、子どもの頃からあまり好きじゃなかった。怒鳴るし、怖かったし、家にいる時は空気が張り詰めてた。でも離婚してから、母も少しずつ変わっていったんです」


「変わった?」


「宗教です」


その二文字を、知佳はあまりにも淡々と言った。


「最初は心の支えみたいなものだったんだと思います。離婚して、お金もなくて、頼る人も少なくて。そういう人って、すがれるものを見つけると、そこに全部預けたくなるんでしょうね」


僕は黙って聞いた。


「母はだんだん、神様とか、試練とか、そういう言葉ばっかり言うようになった。辛いことがあっても、それは意味があるって。苦しいのは与えられた試練だから、耐えなさいって」


知佳は膝の上で手を組み直した。


「中学生の頃、しばらく母の弟の家に世話になることがあったんです。母が集まりだの、泊まり込みだので家を空けることが増えて。その叔父は、最初は普通でした。優しい人のふりをしてた。お菓子を買ってくれたり、送り迎えしてくれたり…」


そこで初めて、知佳の声が少しだけ掠れた。


「十四の時、最初に触られました」


僕の呼吸が止まったみたいに感じた。


知佳は遠くを見ていた。

僕じゃなく、今じゃなく、昔の薄暗い天井を見ているみたいだった。


「最初は、事故みたいに感じました。勘違いかもしれないって思った。でも違った。次の日も、その次の日もあった。やめてって言えなかったんです。言ったら、自分が悪いことをしてるみたいに思えて」


「知佳…」


「母には言えなかった。だって、あの頃の母はもう、何かが壊れてたから。もし言っても、『あなたが誘惑したんじゃないの』って言われる気がしてた。あるいは、『これも意味があること』って」


僕は自分の手のひらに爪が食い込むのを感じた。

怒りなのか、無力感なのか、自分でもわからなかった。


「十六歳で妊娠しました」


知佳は、そこで初めて僕を見た。

その目は、泣いていないのに、泣き終わった後みたいな目だった。


「終わったと思いました。学校も、人生も、自分も、全部」


「…」


「でも母は、産みなさいって言った。神様が与えた命なんだからって。父親が誰なのかも聞かないまま」


「聞かなかったのか」


「聞こうともしませんでした。聞けば現実になるから」


知佳は小さく笑った。

笑うところじゃないのに、笑うしかない時の顔だった。


「紬が生まれた時、私、初めて本気で生きようと思ったんです。あの子を抱いた瞬間だけは、世界が怖くなかった。この子だけは守るって、はっきり思った」


「うん」


「でもね、守るって、思うだけじゃだめなんですよね」


その言葉が、妙に胸に残った。


知佳は続けた。


「実の父が、ある時急に連絡してきたんです。私はもう会いたくなかった。でも、紬が少し大きくなって…顔立ちが叔父に似てるって、父が気づいた」


僕は目を閉じた。

想像したくないのに、浮かんでしまう。


「父は怒りました。怒るというか、狂ったみたいになった。叔父を殺すって言って、実際に探し回ったらしいです。でも、その前に叔父が自殺した」


「……」


「結局、誰も罰を受けた感じがしなかった。叔父は自分で終わらせて逃げて、父も父で勝手に怒って勝手に消えて、母は信仰に逃げたまま。残ったのは私と紬だけでした」


知佳はそこで、やっと少し肩の力を抜いた。

ずっと背中に石を背負っていた人が、それを一瞬だけ地面に置いたみたいに。


「私の人生、ずっとそうなんです。誰かが壊して、誰かが逃げて、そのあとを私が片付ける。片付けきれなくても、生きるしかない」


僕は何か言いたかった。

「大丈夫」でも「もう一人じゃない」でもなく、もっと彼女の奥に届く言葉を。


でも出てきたのは、あまりに無力な一言だった。


「知佳… よく、ここまで生きてきたね」


知佳は一瞬きょとんとして、それから、ふっと泣きそうに笑った。


「変なこと言いますね」


「変かな」


「もっと、かわいそうって言われると思ってました」


「そう見てないから」


彼女の唇が震えた。


「晴人さんって、時々ずるいです」


「なんで」


「そういうこと言われると、信じたくなっちゃう」


「信じてよ」


「…怖いです」


「うん」


「普通の幸せが欲しくなる」


僕は、知佳の手を握った。


「欲しがっていい」


「なくなったら?」


「なくさないようにする」


知佳はしばらく黙ったあと、涙をこぼした。

声は立てない。

ただ、指の隙間を濡らすように静かに泣いた。


その時の僕は、本気でそう思っていた。

彼女となら、失われたものの続きを作れるんじゃないかと。

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