第五章 小さな幸福
三人で囲む食卓、笑い合う夜。
ありふれた日常の中に、かけがえのない幸せが芽吹いていく。
それから、僕は知佳の部屋を訪れることが増えた。
毎週必ずというわけじゃない。知佳も僕も仕事があったし、紬にも学校がある。けれど予定が合う夜には、僕は駅前でケーキを買って寄ったり、近くのスーパーで材料を買って一緒に食事を作ったりした。
その時間が、僕には驚くほど心地よかった。
たとえば、金曜の夜。
僕が少し遅れて部屋へ着くと、キッチンから味噌汁の匂いがして、リビングではテレビの音が小さく流れている。
「ただいま、って言いそうになるな」
玄関でそう言うと、奥から紬の声が飛んでくる。
「言っていいですよ」
「人ん家だぞ」
「ほぼ家族みたいなものでしょ」
「紬」
知佳がすぐにたしなめる。
でもその声は、どこか嬉しそうでもある。
ある日、僕が駅前で人気のチーズケーキを買っていったことがあった。
箱を見た瞬間、紬は目を見開いた。
「え、これ、ずっと食べたかったやつです」
「そんなに有名なの?」
「ママと前通った時に、いつか食べたいねって言ってたんです」
「そうなの?」
僕が知佳を見ると、彼女は少し困ったように笑った。
「高くて、その日はやめたんです」
「じゃあちょうどよかった」
「ちょうどよすぎます」
紬は本気で嬉しそうに笑ったあと、急に目を潤ませた。
「泣くほど?」
「嬉しいんです、こういうの」
「ほんとによく泣くな」
「ママに似たんです」
その一言に、知佳が一瞬だけ静かになる。
でも紬は気づかずに、箱を丁寧に開けていた。
食卓についた三人の時間は、ごく普通だった。
それがどれだけ得がたいことか、当時の僕はまだ知らなかった。
「晴人さん、卵焼き甘い派ですか、しょっぱい派ですか」
「どっちも好きだけど、どっちかっていうとしょっぱい」
「私もです」
「知佳は?」
「甘いです」
「よかった、二対一」
「何がよかったの」
「少数派ってことです」
「なんでそこで得意げなの」
紬が笑い、僕もつられて笑う。
知佳は呆れたような顔をしながら、でもどこか満ち足りた目をしていた。
その目が好きだった。
外で会う時の知佳は、大人だった。
気配りができて、綺麗で、ちゃんとしている。
でもこの家の中では、少し違う。
ふとした瞬間に年相応より幼く見えたり、紬に対してだけ妙に不器用だったりする。
「ママ、この書類出した?」
「…まだ」
「もう。明日まででしょ」
「わかってる」
「絶対忘れてたでしょ」
「忘れてない」
「声が忘れてる時の声」
「何それ」
そんなやり取りを見ていると、知佳にもちゃんと“母じゃない顔”があることがわかった。
それが僕には嬉しかった。
彼女がただ傷を抱えた女でも、母親として必死に生きる人でもなく、一人の女性としてそこにいることが。
ある夜、紬が先に風呂へ入っている間、知佳が洗い物をしながらぽつりと言った。
「晴人さんがいると、家が静かすぎなくていいです」
「静かなの苦手だって言ってたね」
「うん」
「昔から?」
知佳はスポンジを止めた。
「…たぶん、そうです」
「紬が生まれてからは、平気になったんじゃないの」
「平気になったっていうより、紬がいたから考えずに済んでたのかも」
僕はその横顔を見ていた。
知佳は、幸せに見える夜ほど、時々ひどく遠くなることがあった。
手が届きそうで届かない場所へ、急に心だけ離れてしまうみたいに。
「知佳」
「ん?」
「俺、たぶん本気で考えてるよ」
「何を?」
「この先のこと」
知佳の手が止まった。
シンクの水だけが流れ続ける。
「…それ、ずるいです」
「何が」
「そんなふうに言われたら、期待しちゃう」
「していいよ」
知佳はゆっくり蛇口を閉めた。
そして、振り向かないまま小さく言った。
「私、普通の幸せってよくわからないんです」
「俺だって、そんな立派なもんわかってないよ」
「でも晴人さんは、ちゃんと知ってそう」
「知らない。でも、一緒に作ることはできると思う」
その時、知佳は振り向いた。
泣いてはいなかった。
でも、あの少しだけ濡れて見える目が、いつもより深く光っていた。
「…そういうこと、簡単に言わないでください」
「簡単じゃない」
しばらく沈黙があった。
風呂場から、紬の鼻歌がかすかに聞こえてくる。
その日常の音が、妙に胸にしみた。
「私は、欲しくなっちゃうんです」
知佳が言った。
「こういうの」
「うん」
「なくなった時、耐えられなくなるのに」
僕は彼女のそばへ行って、濡れた手をそっと取った。
「なくさないようにするよ」
その言葉を口にした自分を、今でも思い出す。
何もわかっていなかった。
人は、守りたいと思ったものを、守れるとは限らないのに。




