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第四章 知佳の部屋

知佳の家を訪れた晴人は、娘・紬の存在を知る。

そこで初めて、“恋”が“家族”の予感へと変わり始める。

知佳の家は、駅から少し離れた住宅街の中にあった。


新しくも古くもない、よくあるマンションの三階。外階段の踊り場には小さな自転車が一台置かれていて、隣の部屋のドアノブには子どもの傘がぶら下がっていた。そういう生活の匂いのする場所だった。


インターホンを押すと、少しして知佳が出てきた。


部屋着ではなく、やわらかい色のニットにロングスカート。家の中なのに、ちゃんとしている。けれどどこか、外で会う時よりも表情が柔らかかった。


「いらっしゃい」


「お邪魔します」


玄関には小さなスニーカーが一足あった。

僕はその時、はっきり気づいた。


ああ、そういうことか。


リビングは整っていた。白いカーテン、丸いローテーブル、ソファは少しくたびれているけれど清潔で、キッチンには生活のあとがある。観葉植物が一鉢、テレビ台の横に置かれていた。壁に貼られた手書きのメモに、買い物リストらしき文字が見えた。


「ごめんなさい、ちゃんと言うタイミングがなくて」


知佳はエプロンを整えながら、僕を見た。


「うん」


「怒ってます?」


「まだ何も聞いてない」


その時だった。

奥の部屋のドアが少し開いて、制服姿の少女が顔を出した。


「あ…おかえり、ママ」


そして僕に気づいて、目を丸くする。


知佳は一瞬だけ困った顔をしたあと、小さく息を吐いた。


「紹介するね。娘の紬」


少女は姿勢を正して、ぺこりと頭を下げた。


「はじめまして。紬です」


「はじめまして。五十嵐です」


「晴人さん、でいいですよ」


知佳が横から言うと、紬は少し笑った。


「じゃあ、晴人さん」


その呼び方は、妙にしっくりきた。


紬は、知佳によく似ていた。

顔立ちが似ているというより、笑いそうで泣きそうな目元が似ていた。けれど雰囲気はもっと明るい。制服の着こなしもきちんとしていて、髪も整っている。育ちのよさというより、自分をちゃんと保っている子の雰囲気があった。


「コーヒー飲みますか?」


紬が訊いた。


「え、いいの?」


「私、淹れるの得意なんです。ママより上手」


「紬」


「ほんとだもん」


知佳が困ったように眉をひそめると、紬はいたずらっぽく笑った。


そのやり取りを見ているだけで、この家に流れている空気が少しわかった。

知佳は紬を守ってきたんだろう。

紬もそれをわかっていて、だからこそ無理に甘えず、でもちゃんと母親を好きでいる。


紬がキッチンでコーヒーを淹れている間、知佳は僕の隣に座って、小さな声で言った。


「言えなくてごめんなさい」


「なんで隠してたの」


「嫌われるのが怖かったから」


「それだけ?」


「…重いって思われるのが、嫌で」


僕は少し黙った。


驚いていないと言えば嘘になる。でも、不思議と引く気持ちはなかった。むしろ、彼女の時々見せる疲れた目や、家に一人でいたくないという言葉の意味が、やっと地面に足をつけた感じがした。


「怒ってないよ」


知佳は、ほんの少しだけ目を潤ませた。


「本当に?」


「うん。びっくりはしたけど」


「そっか…」


その時、紬が三つのマグカップを載せたお盆を持ってきた。


「はい。砂糖いりますか?」


「ありがとう。すごいね」


「ドリップだけは得意なんです」


「だけ、って」


「他は普通です。でも成績はいいです」


「自分で言うな」


知佳が呆れたように言うと、紬は笑いながら肩をすくめた。


「だってほんとだもん」


それから三人で、なんでもない話をした。


学校のこと。

最近ハマっているお菓子。

文化祭の準備。

青山のバーはどんなお客さんが来るのか。

僕の会社は本当にそんなに忙しいのか。


紬は人見知りをしない子だった。けれど馴れ馴れしさはない。ちゃんと相手との距離を見ながら、でも臆せずに話す。誰かに媚びることも、変に構えることもない。


「晴人さんって、見た目より話しやすいですね」


「見た目、どんな感じだと思ってたの」


「もっと、仕事しかしてなさそうな人」


「してるよ、ほぼ仕事しか」


「やっぱり」


「でも、意外とちゃんと笑う人なんだなって思いました」


「紬、それ失礼」


「褒めてるんだけど」


そんな調子で、夜は過ぎていった。


帰り際、玄関で靴を履いていると、紬が言った。


「晴人さん」


「ん?」


「ママ、ほんとはすごく不器用なんです」


「紬」


「でも、優しいです。たぶん私より、晴人さんの前の方が緊張してると思います」


知佳が「やめて」と小さく言う。

僕は思わず笑った。


「覚えておく」


「お願いします」


その後ろで、知佳が恥ずかしそうに視線を逸らした。

その表情が、ひどく愛しかった。


マンションを出て夜道を歩きながら、僕は生まれて初めて、はっきりと“家族”というものを想像していた。


知佳と。

紬と。

三人で暮らす未来。


まだ早いとわかっていた。

わかっていたけれど、その未来は不思議なくらい自然に見えた。

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