第三章 毎日という魔法
何気ないやり取りが日常になり、距離はゆっくりと縮まっていく。恋は静かに、けれど確かに深まっていった。
知佳とは、その日を境に毎日連絡を取るようになった。
最初は、礼儀みたいなものだったと思う。
今日はありがとう。
こちらこそ。
また近いうちに。
おやすみなさい。
そのはずが、二日目には昼休みにメッセージが来て、三日目には朝に「起きてます?」と送られてきた。僕はそのやり取りを面倒だと思わなかった。むしろ、待つようになっていた。
朝七時十二分。
「晴人さん、起きました?」
七時十五分。
「起きてるよ」
七時十六分。
「嘘ですね」
七時十六分。
「なんでわかるの」
七時十七分。
「返信が遅いからです。まだ布団の中でしょう」
七時十八分。
「するどい」
七時十九分。
「遅刻しないでくださいね」
七時十九分。
「知佳さん、厳しいな」
七時二十秒。
「好きな人にはちゃんとしててほしいんです」
そのメッセージを見た時、僕はスマホを持ったまま少し固まった。
好きな人。
たぶん、軽い意味で使ったんだろう。好感を持っている相手、くらいの。
それでも、言葉の持つ体温は確かにあった。
「嬉しいこと言うね」
そう返すと、しばらく既読がつかなかった。
十分後、ようやく返ってきたのは短い一言だった。
「ほんとです」
そのたった五文字で、一日中機嫌がよかった。
我ながら単純だと思う。
二回目のデートは映画だった。
ベタだな、と自分でも思ったけれど、知佳はすごく嬉しそうにしていた。映画館の前でポップコーンのサイズを真剣に迷って、「でも私、絶対食べきれないんですよね」と言うから、「じゃあ俺が食べる」と返すと、「それ、ほぼ最初から一緒に食べる前提じゃないですか」と笑った。
映画の内容は、恋愛映画だったのかヒューマンドラマだったのか、正直そこまで覚えていない。
覚えているのは、エンドロールの途中で知佳が鼻をすする音がしたことと、館内が明るくなった時、彼女の目が少し赤くなっていたことだ。
「泣いた?」
外へ出てから聞くと、知佳は少し恥ずかしそうに笑った。
「泣いてないです」
「嘘。目、赤い」
「…ちょっとだけ」
「悲しかった?」
知佳は首を振った。
「嬉しかったんです」
「嬉しくて泣くの?」
「変ですか?」
「珍しいね」
知佳は、歩きながら自分の前髪を少しいじった。
「私、悲しい時も泣きますけど、嬉しい時とか、あったかい気持ちになった時の方が涙出ちゃうんです。なんか、いっぱいになっちゃって」
「いいことじゃない」
「そうですか?」
「うん。ちゃんと感じてるってことだろ」
知佳は、立ち止まって僕を見た。
「晴人さんって、そういう言い方するんですね」
「どういう言い方」
「…優しい」
そんなふうに言われる資格が、自分にあるとは思っていなかった。
ただその時は、そう見えていたんだろう。
映画のあとに入ったカフェで、知佳は自分の好きなものをぽつぽつ話した。
雨の日の匂い。
コンビニの白いカフェラテ。
誰もいない朝の電車。
古い喫茶店。
金木犀の香り。
野球中継がついている居酒屋のざわざわした空気。
「なんか、おじさんみたいだね」
「よく言われます。でも、落ち着くんです」
「青山のバーで働いてる人の趣味じゃないな」
「バーにいるからこそ、普通のものが好きなのかも」
知佳はそう言って笑った。
僕は、自分でも驚くくらい自然に、彼女の話をもっと聞いていたくなっていた。
三回目のデートでは、夜道で初めて手をつないだ。
駅から少し離れた川沿いの遊歩道で、酔っていたわけでもないのに、何となく指先が触れた。どちらからだったのかは、今でははっきりしない。ただ、知佳の手は少し冷たくて、細かった。
「冷えてるね」
「緊張してるからかも」
「まだ?」
「まだ、です」
「意外」
「晴人さんは?」
「してるよ」
「嘘」
「なんで」
「余裕そうだから」
「余裕に見せるのは得意なんだよ」
そう言うと、知佳は声を立てずに笑った。
その夜、別れ際に彼女が言った。
「次は、おうちでご飯でも作ろうかって思ったんですけど」
僕は一瞬、意味を考えた。
家に来ていい、ということだ。
「ほんとに?」
「はい。ただ…ちょっと、その」
「ん?」
「びっくりしないでほしいことがあるんです」
その時の僕は、それが何を意味しているのか、まだ知らなかった。




