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第二章 最初の食事

恵比寿の小さなイタリアンで出会った紺野知佳。

その瞳に宿る、わずかな翳りが晴人の心を捉える。

知佳と初めて会ったのは、八月の終わりだった。


湿気を含んだ夜で、駅前は仕事帰りの人間と、待ち合わせの恋人たちと、酔っ払いかけたサラリーマンで満ちていた。恵比寿はそういう街だ。綺麗に見せようとしているくせに、人の欲や見栄がうっすら滲んでいて、少しだけ疲れている。


待ち合わせたのは、駅から五分ほど歩いた場所にある小さなイタリアンだった。

木の看板、低い照明、気取りすぎないワインリスト。

初対面の相手と会うにはちょうどいい。張り切りすぎず、雑でもない。そういう店を選ぶのは得意だった。


その頃の僕は、何に対しても大きく外さない人生を送っていた。


有名私立大学を卒業して、二度転職して、今は大手企業で営業企画を担当していた。結果も出していたし、人間関係も悪くなかった。周りからは順調そうに見えていただろうし、実際、順調だったと思う。


恋愛もそれなりにしてきた。


学生の頃は見栄みたいな恋をした。社会人になってからは、お互い忙しいことを言い訳にして、深く踏み込まない付き合いもした。好きになったつもりで、結局は自分が傷つかない距離を選んでいたこともあったと思う。


だから、その日の僕は、人生を変えるような相手に会うつもりなんてなかった。

楽しく食事ができればいい。

感じがよければ二回目もあるかもしれない。

正直、その程度だった。


予約時間を八分過ぎた頃、店の扉が開いた。


「お待たせしてしまって、すみません!」


僕は顔を上げた。


遅刻を責めるつもりでいたわけじゃない。でも、初対面の遅刻にはその人の癖が出る。そう思っていた。だから一瞬、内心で小さく眉をひそめた。


──遅いな。


ただ、その感情は彼女を見た瞬間にほどけた。


細身の黒いワンピース。露出は少ないのに、妙に目を引く。肩までの髪は軽く巻かれていて、落ち着いたメイクのせいか、写真で見るよりずっと大人っぽかった。そして何より、目が綺麗だった。くっきりしているわけでもないのに、視線が自然とそこへ行く。涙袋がはっきりしているからか、もともと少し潤んで見える目だった。


「ああ、全然。僕も今来たとこ」


そう言うと、彼女は少し安心したように笑った。


「ありがとうございます。電車が遅れて…って言い訳したいところなんですけど、普通に準備が遅れました」


「正直だね」


「嘘つくの苦手なんです」


その一言で、少しだけ空気が和らいだ。


席に着いて、改めて彼女は頭を下げた。


「はじめまして。紺野知佳です」


「はじめまして。五十嵐晴人。かしこまるの苦手だから、晴人でいいよ」


「じゃあ……晴人さん」


「さん付けなんだ」


「いきなり呼び捨ては、ちょっと緊張します」


「まあ、そっか」


彼女はメニューに目を落としながらも、時々ちらっと僕の反応を見ていた。警戒しているというより、相手に合わせようとしているような目だった。


「お酒は?」


「好きです。強くはないけど」


「嫌いなものは」


「ないです。たぶん」


「たぶん?」


「昔から、出されたものは食べなさいって言われて育ったので」


「厳しい家だった?」


その問いに、知佳は一瞬だけ表情を止めた。

本当に、一瞬だけだ。

でも、営業をしていると、人の顔色の微妙な揺れに敏感になる。僕はその小さな停止を見逃さなかった。


「…そうですね。ちょっとだけ」


彼女はすぐに笑って、グラスの水を口にした。


僕はそれ以上聞かなかった。


料理を頼み、ワインを一杯ずつ注文した。

話題は仕事、休日、好きな食べ物、子どもの頃の夢。意外なほど普通だった。もっとよそゆきの会話になるかと思っていたが、知佳は話を盛らなかった。自分をよく見せようともしない。


「昼は不動産会社で事務をしてるんです」


「へえ。じゃあ忙しい?」


「月末はちょっと。でも、残業がめちゃくちゃ多いってほどでもないです」


「夜はバーなんだっけ」


「はい。青山のバーで、週に何回か」


「働き者だね」


「家に一人でいるのが苦手で」


「なんで?」


知佳は首を少し傾げた。


「静かすぎると、いろいろ考えちゃうんです」


その言い方が、妙に印象に残った。


「知佳さんって、絶対モテるでしょ」


料理が運ばれてしばらくしてから、僕は何気なく言った。


知佳は、え、という顔をしたあとで小さく笑った。


「そんなことないです」


「いや、あるよ。少なくとも、アプリにいるの不思議なくらいには」


「出会いがないんです、本当に」


「元彼は?」


彼女はグラスの縁を指先でなぞった。


「いました」


「最近まで?」


「はい」


「長かったの?」


「…二年くらい」


「じゃあ結構ちゃんと付き合ってたんだ」


「たぶん」


「たぶん?」


「普通って何かわからなくなる付き合い方って、あるじゃないですか」


僕は少しだけ笑った。


「重いこと言うね」


知佳は自分でも言いすぎたと思ったのか、困ったように笑い返した。


「ごめんなさい。最初からこんな話」


「いいよ。むしろ面白い」


「面白いんですか」


「うん。ちゃんと話す人なんだなって思う」


彼女は黙って、少しだけ目を細めた。


「前に付き合ってた人、嫉妬深かったんです。怒ると怖くて…でも、私も、見る目なかったので」


「暴力とか?」


一瞬だけ、彼女の指が止まった。

そして、彼女は曖昧に笑った。


「…ちょっとだけ」


その時の僕は、そこでやめておくべきだったのかもしれない。

あるいは、もっと慎重になるべきだったのかもしれない。


でも僕は、その傷に触れたいとは思わなかった。

ただ、守りたいと思ってしまった。


それが、始まりだった。


会計を済ませて、店の外に出る。

夜風はまだぬるかった。


「ごちそうさまでした」


「こっちこそ。楽しかった」


「私もです」


「また会える?」


彼女は迷わなかった。


「会いたいです」


その言い方が真っ直ぐで、少しだけ驚いた。


駅の改札で別れる時、彼女はもう一度頭を下げてから、改札を抜けた。

何歩か進んで、振り返る。

そして、子どもみたいに小さく手を振った。


僕も手を上げる。


その時だった。


人混みの中へ溶けていく彼女の後ろ姿が、妙に寂しそうに見えた。

呼び止めるほどじゃない。

でも、無視できるほど軽くもない。


たぶんその時にはもう、僕は少し、彼女に引っ張られ始めていた。

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