第十章 沈む春
妊娠の事実と向き合えないまま、家族は静かに崩れていく。
そして紬は、誰にも告げず姿を消した。
それからの日々は、ゆっくりと崩れていった。
紬は学校を休みがちになった。
尚人とは連絡を絶ったと言ったが、本当にそうなのかはわからなかった。
知佳は表向き、娘を責めなかった。けれど責めないことが、かえって紬を苦しめているようにも見えた。
家の中には、いつもどこか緊張があった。
テレビがついていても、音は誰の耳にも入っていない。
食卓に三人で座っても、話題は天気かニュースか、どうでもいいことばかり。
それなのに、誰かが少しでも黙り込むと、その沈黙の中に本当に言うべきことが浮かんでくる気がして、みんなが無理に言葉を探した。
ある晩、知佳が小さく言った。
「手術、した方がいいのかな」
紬は箸を止めた。
僕も息を止めた。
「……ママ」
「ごめん。今言うことじゃないね」
知佳は自分で言っておきながら、すぐに取り消すように笑った。
でもその笑顔は痛々しかった。
「私、どうしたらいいかわからない」
知佳は食後、キッチンでそう言った。
「産ませるのが正しいのか、産ませないのが正しいのか…何を選んでも、自分の過去に引っ張られる気がする」
「知佳」
「私は産んだ。産まされたとも言えるけど、結果的に紬は生まれて、私はあの子を愛してる。だから、簡単に産まない方がいいとも言えない。でも、あの子に同じ苦しみを背負わせたいわけでもない」
僕は冷蔵庫にもたれて、何も言えなかった。
「母親なのに、何も決められない」
「一人で決めなくていい」
「でも私の娘です」
その言葉は、あまりにも重かった。
それから数日後、紬がいなくなった。
学校からの連絡で、登校していないことがわかった。
携帯はつながらない。友達も行き先を知らない。
家に帰ると、制服と鞄は置かれたままで、部屋の机の上に封筒があった。
ママへ
その字を見た瞬間、知佳の顔から色が消えた。
「紬……?」
震える指で封を切り、便箋を開く。
僕は隣に立ちながら、目を逸らせなかった。
知佳は冒頭を読んだだけで、膝から崩れ落ちた。
僕は慌てて便箋を拾い、続きを読んだ。
――――――――
ママへ
ごめんなさい。先に謝ります。
私、ママに知られてから、ずっと考えていました。
どうしてこうなっちゃったんだろうって。
でも、たぶん、誰か一人だけが悪いんじゃないんだと思います。
ママ、ひとりで生きてきたんだね。
辛かったよね。苦しかったよね。
私、今まで何も知らなくてごめんね。
本当は、もっと早く気づいてあげたかった。
私、ママの娘でよかったです。
本当にそう思っています。
ママが一生懸命育ててくれたこと、ちゃんとわかってる。
晴人さんといる時のママ、すごく幸せそうだったよ。
お父さんになるかもしれない人が晴人さんならいいなって、少し思っていました。
でも、私がいたら、ママはまた苦しくなる気がする。
ごめんなさい。
もし来世があるなら、またママのもとに生まれたいです。
今度は、ママの大好きな人との子供として。
紬
――――――――
手紙を読み終えた時、僕は文字がよく見えなくなっていた。
涙なのか、ただ焦っていたのか、わからなかった。
「警察」
僕は言った。
「すぐ行こう」
知佳は泣きながら、でも妙に落ち着いた声で頷いた。
「うん…… うん」
その日から、一週間が消えたみたいに過ぎた。
警察に失踪届を出し、紬の友人や教師にも話を聞いた。
SNSの履歴、検索履歴、通話履歴。
知佳と僕は、見つかる可能性のある場所を手分けして歩いた。
帰ってきたら、責めない。
怒らない。
何があっても抱きしめる。
知佳は何度もそう言った。
そのたびに僕も「うん」と言った。
でも心の奥では、もっと遅く気づけばよかったのか、もっと早く止めればよかったのか、その両方を何度も行き来していた。
八日目の朝だった。
知佳の携帯が鳴った。
その音で、なぜか僕はわかった。
何かが終わったのだと。
知佳は無言で電話に出た。
頷き、時々「はい」とだけ答える。
そして電話を切ったあと、僕の方を見た。
目は泣いていなかった。
泣くことすら忘れたみたいな顔だった。
「見つかったって」
「ほんとに」
一瞬だけ、希望が胸を刺した。
次の言葉で、その希望は壊れた。
「…………遺体で」




