第五話 祈りは、消えない蒼を抱いて
永遠に続くと思われた蒼きインクとの対話。
だがその終わりは、あまりにも静かに、そして残酷に訪れた。
ある夜、俺がいつものようにノートを開き、今日あった他愛のない出来事を書き込んだ時だ。
浮かび上がってきた文字は今までにないほど細く、震えていた。
『……律。ごめん、ちょっと……眠い、みたいだ』
心臓が氷を飲み込んだように冷たくなる。
インクは紙の繊維に染み込むのを拒むように掠れ、あいつの声が遠ざかっていくのが文字を通じて伝わってきた。
「おい、爽……?冗談はやめろ。しっかり書けよ!お前まさか逃げんのか?!俺をこんな風にしておいて、今さら逃げられると思ってんのか!」
俺は必死にペンを走らせる。だが俺が書く黒いインクは紙の上で虚しく踊り、あいつの青はどんどん透明へと近づいていく。
『……泣かないでよ律。僕は消えるわけじゃない。きっと君の中に、溶けていくだけだから。ほら、言ったでしょ?君の一部にって』
「ふざけんな!お前の言葉がなきゃ俺は……!」
『律。僕の文字が消えても、君の心臓の音を僕の代わりに鳴らして。……生きてよ、律。僕を君の中で生かし続けて』
ふわりと背後からあいつの残り香がした。石鹸のような、雨上がりのような──、あの清潔な匂いが。実体のない腕が、俺の首筋を優しく包み込んだような錯覚がして、青いインクがノートを滑る。
『──愛してるよ。世界で一番ひねくれてて、かっこいい僕の律』
最後の一行。
その文字が描き切られた瞬間、青いインクは嘘のように消え去った。
残されたのは俺が書き殴った無様な黒い跡と、再び静寂を取り戻した真っ白な余白だけだった。
「爽……っ、爽!!」
俺は白紙のノートを抱きしめ、子供のように声を上げて泣いた。
あいつは最期まで、自分の望む通りに俺を導いていった。
泣かないでと言いながら、泣かずにはいられない呪いを俺の中に刻んで消えたんだ。
★★★
あれから、数年が経った。
俺は社会人になった。
毎朝ネクタイを締め、満員電車に揺られ、他人に冷徹な男と評価されながらも、淡々と業務をこなしている。
同僚から飲み会に誘われれば、適当な理由をつけて断る。俺の時間はもう誰にも渡さないと決めているからだ。付き合いが悪く、冷たい態度な俺の壊れてしまった本心は、きっと誰にも理解されないだろう。
帰宅し、静まり返ったリビングで俺は鍵をかけた引き出しから「あのノート」を取り出した。
あの日以来、ノートには一滴のインクも浮かび上がることはなかった。
それでも俺は、毎日このノートを開く。
あいつが遺してくれたこのノートを、俺は慈しんで、依存していたから。
「……なあ、爽。今日は雨だぞ。お前が俺を捕まえた日と同じ、酷い雨だ」
独り言。傍から見れば、狂気の沙汰だろう。ノートを開いて、ブツブツと話しかけているのだから。
だが気にしない。俺はあの日から、壊れてしまったのだから。
他人には理解できないような……、これが俺たちの愛の完成形だった。
――そんな、ある夜のことだ。
仕事の重圧に押し潰されそうになり、ノートを開いたまま机で眠り込んでしまった時。頬を撫でるような、冷たくてけれど懐かしい感触に目を覚ました。
「……あ?」
月明かりが、ノートを青白く照らしている。
寝惚けているのかと思った。
けれど視界を擦っても、その文字は消えなかった。
数年ぶりに白紙の上に一点、じわりと青いインクが灯っていた。
『──律、お疲れ様。よく頑張りました!』
たった一行。たったひと言だ。
あの日よりもずっと穏やかで、透き通った青い文字。
それは、あいつが俺を見届けて、一度だけ贈ってくれた奇跡だった。
「……っ、……ああ」
俺の声が震える。
あいつは、ずっと俺の中にいたのだ。文字にならなくても、声にならなくても……、俺が呼吸するたびに爽もそこで息をしていた。
涙がこぼれ、その青い文字の上に落ちた。
インクは滲まず、まるであいつの温もりがそこにあるかのように、俺の涙を優しく受け止めている。
「……お前は一生、俺だけのものだ」
俺は初めて、憑き物が落ちたような顔で笑った。
ノートの文字は、夜明けとともに再び消えていくのだろう。けれど、もう怖くはなかった。
俺の体温がある限り、俺の鼓動が続く限り……凪海爽は、久遠律という名の器の中で永遠に微笑み続けるのだから。
俺は静かにノートを閉じ、あいつの残り香が漂う闇の中で安らかな眠りについた。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
呪いのような愛が、いつしか彼を支える救いとなった結末を温かく見守っていただけたなら幸いです。
また別の物語でお会い出来ることを楽しみにしています。




