第三話 滲む嫉妬、インクは熱を帯びた猛毒へ
ノートを通じた対話が始まって数週間。
最初の頃、爽が綴る言葉はどこまでも優しかった。
『律、ちゃんと食べてる?』
『あんまり自分を責めないで』
そんな誰にでも向けられるような、薄っぺらで綺麗な爽の言葉。
俺はその優しさに救われながらも、心のどこかで苛立ちを募らせていた。俺が欲しいのは、そんな聖人君子の慰めじゃない。俺を狂わせたあの雨の日の、剥き出しの爽だ。
だがその境界線はある夜、音を立てて崩れ去った。
大学のサークル仲間から、無理やり飲み会に誘われた日のことだ。断りきれずに数時間席を置き、泥酔して帰宅した俺が、いつものようにノートを開いて『ただいま』と書き込んだ。
……いつもならすぐに返ってくるはずの優しい労いが、その夜はなかなか現れなかった。
五分、十分。沈黙が続く。
部屋の時計が刻む秒針の音だけが、やけに大きく耳に障る。
(……おい、爽?寝てんのか?)
焦れてペンを動かそうとした瞬間、紙面をなぞるインクの動きがこれまでになく荒々しくノートの上を走った。
『──遅かったね。誰といたの?』
心臓がドクリと跳ねた。これまでの丁寧な筆致とは違う、どこか余裕のない尖った文字。
『律がいない間、僕ずっと暗闇の中で君を待ってたんだよ。君は外で、僕以外の誰かと笑ってたんだ。……楽しかった?』
「……っ」
喉の奥が引き攣る。掠れた筆跡から、見えない爽の冷え切った視線が突き刺さるような錯覚に陥った。
アルコールで回っていた脳が、一気に冷めていく。
(……こいつ、化けの皮が剥がれてやがる)
俺は恐怖よりも、得体の知れない昂揚感で指先を震わせた。慌てて『ただの付き合いだ、お前以外と笑ってなんかねぇよ』と書き殴る。するとインクはさらに深く、紙を抉るような筆圧で言葉を連ねた。
『……嘘つき。律の体、お酒と知らない誰かのタバコの匂いがするよ?』
ノートの紙面から不気味なほどの熱気が立ち上ってくるようだった。
爽の青い文字がまるで意思を持つ生き物のように蠢き、俺の手首を縛り上げている感覚。
(そんなことまで分かるのかよ!)
あまりの事に驚いていると、青い文字はどんどんと俺への言葉を綴り続ける。
『今すぐ僕のことだけ考えて。僕が死んだのは律のせいなんだから、律の時間は、一秒だって僕以外のものに使わせない。……いいよね?』
青い文字がどんどん濃くなっていく。それはもはや神秘的な蒼ではなく、すべてを侵食し、逃がさないための猛毒の色だった。
優しい幼馴染の仮面を脱ぎ捨てた、醜悪で、美しく、傲慢な凪海爽の本音。
それは紛れもなく、俺を一生縛り付けるために用意された、致死量の愛だった。
「……当たり前だろ。俺がお前以外のことを考えるわけねぇだろ……!」
俺はその変質した文字を縋るように指でなぞった。
指先が、あいつの嫉妬に触れて焼けるように熱い。
恐ろしいはずなのに、心の底ではこの異常な独占欲を待っていたのだ。あいつが俺を地獄に道連れにしようとしている事実に、狂おしいほどの安堵を覚えている自分に気づく。
爽はノートの中で、以前のような綺麗な文字を綴ることをやめた。
『律、僕のところに来たい?』
『ねえ、僕を愛してるって書いてよ。このページがいっぱいになるまで、百回書いて。そうすれば、今の嘘を許してあげる』
命令、嫉妬。そして甘い誘惑。
ノートを埋め尽くす蒼き滴は、次第に濃く、深く、俺の精神を蝕んでいく。
暗闇の中、俺は狂ったようにペンを走らせる。
『愛してる』
『愛してる』
『愛してる』
一文字書くたびに、爽のインクが俺の言葉を飲み込み、より深く、より青く輝きを増していく。
(……ああ、爽。お前がいなきゃ、俺はもう息の仕方も思い出せねぇよ)
インクの香りが、部屋を支配する。
それはかつて感じていた清潔な石鹸の匂いではなく、どこか金属的な血の匂いに似た熱を持っていた。
最後までお付き合いいただきありがとうございます。
「百回書いて」という爽の狂気。死してなお律を支配し、塗り潰そうとする執着は、恐怖であると同時に究極の愛でもあると思います。
次回、物語は核心へ進みます。
爽が遺した「最悪で最高の計画」が明らかになります。
続きが気になる方は、ぜひお待ち頂けると幸いです!




