第二話 記憶に沈む、青い刻印
ノートを介した、死者との対話。
それは、この世の道理を外れた狂気のはずなのに、俺の心はあの日以来かつてないほどに高揚していた。
深夜、自室のデスク。
スタンドライトの心許ない明かりの下で、俺はペンを握る。かつてはあいつの母親から真っ白だったと言われたその紙面には、今や俺の殴り書きと、あいつの端正な青い文字が、地層のように重なり始めていた。
『爽、お前、その……あっち側は、暗いのか?』
俺が問いを記すと、一拍置いて紙の繊維が内側から染まるように青い文字が浮かぶ。
『暗くはないよ。ただ、何も触れない。律の声も、ここでは文字になって降ってくるんだ。不思議だよね、雪みたいで綺麗だよ』
雪みたいに綺麗だ、なんて。死んで幽霊になってもなお、あいつの言葉選びはどこまでも幻想的で、俺を苛つかせるほどに爽のままだった。
凪海爽という男は、どこに行っても眩しいくらいに完璧ないい人側の人間だった。
大学のキャンパスでも、あいつがそこに座っているだけで周囲の空気が少しだけ清涼感を帯びる。友人たちは口を揃えて『爽は本当に素直で良い奴だよな』と言い、女子学生たちはその笑顔に当てられたように頬を染めていた。
だが、俺だけは知っている。
誰にでも優しいということは、誰のことも特別には見ていないということだ。……俺を除いては。
あの日、俺だけが見た裏側を思い出す。
午後七時を過ぎた大学の人影のまばらな講義室には、窓を叩く重苦しい雨音が満ちていた。
他の連中はとっくに帰宅し、静まり返った廊下に、時折雨漏りの音が響く。
「……律、まだ帰らないの?」
いつものように涼しげな顔で現れた爽に、俺はさっさと取り巻きと帰れ……と毒を吐いた。
あいつは少しだけ困ったように眉を下げたが、帰ろうとはしなかった。それどころか、俺の前の席に反対向きに跨り、背もたれに顎を乗せて、じっと俺を見つめてきた。
「……僕さ、たまに疲れるんだよね。みんなが思ってる『凪海爽』でい続けるの」
あまりに温度のない声。
そこにあったのは、周囲が賞賛する王子の顔ではなかった。
糸が切れた人形のように生気を失い、底の知れない孤独を湛えた瞳。
「期待に応えて笑って……。そうしてないと、自分がどこにいるか分からなくなる。空っぽになっちゃいそうで、怖いんだ」
俺は動揺した。だが同時に、暗い歓喜が鎌首をもたげた。
こいつは、俺にだけこの仮面の下を見せている。
この虚無を共有しているのは、世界で俺一人だけなのだ。
「でも、律の前では、ちゃんと僕でいられるんだ。律だけだよ。僕の本当の汚いところも、弱いところも、全部見せていいのは。君だけが、僕を僕にしてくれる」
あいつの氷のように冷たい手が、机の上で俺の指先に触れた。
雨の冷気のせいか、あいつの体温がもともと低いのか。触れたところから、静かな熱が伝わってくるような錯覚を覚える。
「……律だけが、僕を僕にしてくれる」
その言葉を聞いた瞬間、俺の独占欲は完成した。
あいつが俺を必要としている。俺という、ひねくれててどうしようもない存在が、この完璧な友人の唯一の酸素になっているのだ。
「……勝手にしろよ。お前が俺の前でだけ化けの皮を剥ぐってんなら、俺がその中身を全部、一生閉じ込めておいてやる」
俺がそう吐き捨てると、爽は今度こそ、作られた笑顔ではない、子供のような顔で笑った。
「うん。……約束だよ、律」
あいつは素直な美人なんかじゃない。
あの日、あいつは自ら俺の鎖に首を通したんだ。
そして同時に、俺の首にも、自分という名の消えない鎖をかけた。
(……死んでまで、お前はその約束を守り続けてやがるんだな)
俺はノートの余白を指でなぞった。
青いインクは、触れても指にはつかない。だがそこに確かにいる、という確信が、俺の壊れかけた精神を辛うじて繋ぎ止めていた。
『お前、もし俺がこのノートを捨てたらどうするんだ?』
意地悪な問いを書いてみる。返信はすぐには来なかった。
数分後、今までで一番ゆっくりとした筆致で、文字が刻まれる。
『捨ててもいいよ。でも、律。君の記憶の中に、僕のインクを全部ぶちまけておいたからさ。これは洗っても、一生落ちないよ。』
その言葉に心臓が跳ねた。
ノートがなくても、お前は俺を逃さないと言っているのだ。
その傲慢な愛が、今の俺にはどんな救いよりも甘美だった。
第2話をお読みいただき、ありがとうございます。
二人だけで共有した孤独。
「律だけが、僕を僕にしてくれる」という爽の言葉は、今や律を繋ぎ止める鎖となりました。
死してなお深まる共依存の形、楽しんでいただけているでしょうか?
次回、穏やかだったノートの文字が、「嫉妬」という名の猛毒に染まり始めます。
死者の独占欲に、律はどう抗うのか?
続きもぜひ、ご覧ください。
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