不治の病
カーミルは見知らぬ街で橋の上からどこまでも広がる海を眺めていた。この海は果てしなく向かうの大陸とつながっている。それだけではない。あの世ともつながっているのだ。ここで飛び込めば果てしない闇の中に自らを閉じ込めることができる。
カーミルは決心がつきかねていた。それでも彼はこれ以上生きる意味などないとも思っていた。覗き込めば、自らを歓迎するように海が手を広げて待ってくれているような気がした。この先には、こんな世界よりよっぽど優しくて美しい世界が待っているに違いない。
「あんた一体何を考えているんだい?」
話しかけてきたのは一人の老人であった。きっとカーミルのただならぬ表情を見て何かを察知したのであろう。
「僕にはもう生きていく理由がないんです。このまま苦しく生き続けるよりも、ここで人生を終えた方が楽に決まっている」
「穏やかじゃないことを言うんだな。一体何があったんだ?話してみなさい」
この老人は終始落ち着いていてにこやかである。
「僕は恋人にふられて就職の試験にも落ち続けているんです。周りの人間にも馬鹿にされています。才能も魅力もない僕が、これからどうやってこの世界でやっていけばいいんですか?」
「なんだ、そんなことか。お前のような若者がその程度のことで生きるのを諦めるのか?」
「あなたに何が分かるんです?」
「いや分かった。ならば止めはしない。ただ1つ頼みがあるんだ。私の知り合いでな、自分の子どもが不治の病にかかってしまった女性がいるんだ。その子どもを助けてほしい」
「不治の病なら治りはしないでしょう。僕に何をしろっているんです?」
「あの山が見えるか?」
老人が指さした先には絶壁に鋭い岩肌が露出している山がそびえていた。
「あの山の頂上にその病気を治せる医者が住んでいる。その子を連れてあの山を登ってほしいんだ」
「あんな険しい山をですか?それなら医者をこちらまで呼び寄せたらいいでしょう?どうしてこちらから行かないといけないんです?」
「その医者はそこから離れることはないし、誰も連絡がとれんのだ。だから昔から命の危ない病気にかかった者はあの山を登る。しかし多くの者はそこで死を遂げる」
「どういうことです?あの山はそんなに危険なんですか?」
「ああ死の山と呼ばれている。だが行かなくても死ぬのならと一か八かで皆登ろうとするんだ」
カーミルの顔は青ざめてきた。それを見て老人は、
「なんだ?死のうと思っていたのではないのか?ならばちょうどいい頼みだと思ったんだがな。やはり死は怖いか」
とからかうように言った。
「そんなんじゃありません。いいですよ。僕がその子どもを連れて山に登りましょう」
「分かった。ではその親子のもとへ行こう」
その親子のもとへは、そこから歩いて5分ほどで着いた。母親は50歳くらいで体があまり強くないらしい。父親はすでに亡くなっており、1人で息子を育てている。
「本当に息子をあの山の上まで連れて行ってくれるんですか?」
「かまいませんよ。しかし助からない可能性だってある。覚悟はしておいてください」
「ありがとうございます。できることなら私がこの子をおぶってでも連れて行ってあげたいんですが、なにせこの弱い体ではそれも叶わないんです。息子のためならこの命がなくなってもかまいませんが、しかし山へとともに向かえば私だけではなく息子の命も危うい。かといってこのまま何もしなくても息子は死んでしまう。あなたが現れて本当によかった」
そう言うとその母親は泣き始めた。
それはカーミルにとって悪い気はしなかった。自分は死ぬ前に人に1つ親切をして死ぬことになる。もちろん山で子どももろとも死んでしまえば元も子もないのだが、それでも人を助けようとして死ぬという名誉ある死を遂げることができる。
その子どもは名をガジュといった。まだ5歳になったばかりである。翌日になってカーミルはその子を連れて山へと向かった。
死の山における最大の危険は滑落である。登山者を拒むような絶壁がそびえ立ち、まるでこの世のものではないような暗澹たる風景が続く。
まと平坦な道にも危険は潜む。地元でヒテメと呼ばれている身長2メートルを超える生き物が、この山には多く生息している。彼らは人間を見つけたら襲いかかる。
そんな危険を乗り越えて頂上にたどり着けば、その医者は住んでいるのだという。カーミルはガジュを背負いながら、途中険しい道をなんとか落ちずに歩き、小屋を見つけたから今日はそこに泊まることにした。
ガジュの顔を見ると顔が赤く、呼吸が乱れている。手を当てるとひどい熱である。
「おい大丈夫か?しっかりしろ」
「僕の病気のせいだよ。こんないつもと違う環境にいたんじゃ僕のような体は無事ではいられないんだ」
「分かった。急いで頂上に行って医者に会おう」
「無駄だよ。僕だって本当は分かっているんだ」
「分かっているとは何がだ?」
「僕はもうどうせ助からないんだよ。死ぬのが運命なんだ。こんなのただの悪あがきだよ」
「馬鹿なことを言うんじゃない。俺が絶対に助けてやる。お前がそんな気持ちでいてどうするんだ?」
「ねえ生きるって楽しいの?お兄さんは死のうと思っていたんでしょ?それでどうせ死ぬならってことでここへ来たんでしょ?それなら僕を助けることに何の意味があるっていうの?」
「たしかに俺は人生に絶望した。だがお前のようなガキに分かるもんか。お前のようなやつはまだ生きるべきだ。まだ何にも知らないじゃないか。この世界の理不尽だって、人間の醜さだってまだ知らないんだ。そんなやつが人生を諦めるんじゃない」
「でもお兄さんは諦めたんでしょ?それなのにそんなことが言えるの?というかお兄さんはさ、世界とか人間とかについて全部知ったってこと?そのうえで生きるってろくでもないことだと思ったの?」
カーミルはガジュの質問攻めにうんざりしてきた。子どもとは無神経に何でも聞いてくる。
とはいえ彼の質問にはかなり核心を突かれた気がした。たしかに人生を諦めた自分に生きろなどと言う権利はない。それに自分はこの世界や人間について全てを知っているのだろうか。ガジュに対して自分が指摘したのと同じように、自分だってまだ何も分かっていないのではないか、そう言われるとぐうの音も出なかった。
「とにかく今日は眠れ。明日早くには出発しないといけないからな」
カーミルがそう言うとガジュはすぐに眠りについた。
その寝顔を見ながら、カーミルは考えを巡らせた。自分は今生きるか死ぬかの瀬戸際にいると思ってどちらを取るべきか悩んでいたが、今目の前にいるこの子どもはそれを自分で選ぶこともできずに死という結果を与えられるかもしれないのだ。本当に生きるか死ぬかという状況はこういうことをいうのかもしれないし、今の自分が死のうとすることは見当違いなのかもしれない。生きたいのにそれが叶えられない人間だってこの世の中にはいるのだから。
翌日になってガジュの熱は少し下がっていた。とはいっても油断はならない。一刻も早く医者のもとへ連れて行くべきである。
そんな中で木々の茂る道を歩いていると、気付くとヒテメの大群に囲まれていた。彼らは全員で2人のことを見ている。
「もうだめだよ。おしまいだ。助かりっこない」
ガジュが泣きながら言うと、カーミルは
「簡単に諦めるんじゃない。何か手はあるはずだ」
と言ってとにかくガジュを落ち着かせようとした。
カーミルはポケットからライターを取り出した。ヒテメは火に弱い。彼はそこら辺にあった草に火をつけてそれを手に持ち、振り回しながらヒテメたちを威嚇した。
ヒテメたちが怯えている一瞬をついてカーミルは全力のダッシュでその場から逃走した。しばらくしてから後ろを振り返ってみたらヒテメは追いかけてきていないようである。
もう少しで山頂というところまで来た。2人はほとんど直角に近い崖道を登っている。ここさえ登りきれば医者に会うことができる。
その時だった。足をかけていた岩が崩れて崩落し、2人は足が宙づりの状態になった。手は岩を掴んでいるが、足の支えがない状態では落ちるのは時間の問題である。
「もうだめだ。助からないよ」
背中に捕まっているガジュがそう言うと、
「またお前は泣き言を言う。簡単に諦めるんじゃない」
とカーミルは叱りつけた。
「もういいじゃないか。僕たちここまでなんだよ。最初から死にたいと思っていたくせに、なんでそこまで生きることにこだわるんだよ」
「どうしてだろうな。自分でも不思議だ。だが死にそうな目に合えば合うほど生きたいって思いが湧き出てくるんだ。こうなったら意地でも生き抜いてやる。だからお前も諦めるな。絶対に俺にしがみついておけよ」
カーミルはなんとか別の岩場に足を引っかけた。そして恐る恐る少し上のところに手をかけて安定していることを確認すると足を動かして次の足場を見つけた。なんとか滑落を免れたのである。
山頂に着くと、大きな家があった。ここにその医者は住んでいるに違いない。
中に入ると2人は奥まで通された。出てきたのは老人の男であった。
「私に何か用かな?」
「この子どもが不治の病にかかったのです。助けてあげてください」
2人は深々と頭を下げた。
「たしかに私はその病気を治すことができる。しかし医者の仕事はもうしとらんのでね」
「お願いします。お金はいくらでも用意します」
カーミルは必死に食い下がった。当然である。ここで断られたのではこれまでの全てが無駄になる。
「そういう問題ではないのだ。私は無意味な仕事をしたくないのだよ」
「無意味とはなんです?人間の命がかかっているんですよ」
「人間死ぬ時は死ぬ。その宿命には逆らえぬ。そこまでして人間は生きるべきか。どう思う?」
「私もこの山を登りながら何度も命を諦めかけました。しかし死にそうになった時こそ、生きなければならないということに気付かされたのです。人は上手くいかなければ死んだ方がましだとか生まれてこなければよかったなどと思うことがあります。私もそう思っていた1人でした。しかしそれは違いました。生きているという事実だけで奇跡なのです。その事実に胸を張るだけでよかったのです。外をご覧ください。この山に連なる山々が遥か先まで広がり、その麓には人々の住む街がある。この景色でさえ奇跡です。当たり前のものではない」
「なるほどな。おいそこの小僧はどうだ?生きたいと思うか?」
ガジュはしばらく黙ってから口を開いた。
「生きたいです。僕も人生を諦めていたしこの山でも命を落としかけました。でもここにたどり着いた。僕は幸せ者です。僕を生かすために大きな力が働いてくれたとさえ思っています。」
「よかろう。生きたい意思のない人間なら助けるつもりもなかったが、そこまで言うなら助けてやる」
その日の夜に手術が行われて、3日間の療養の後に2人はその老人の医者が所有するヘリコプターを借りて麓まで降りた。
ガジュの母親は泣きながら彼を抱きしめた。
「よかった。本当によかった。もうどうしようもないと思っていたから。カーミルさん、あなたにはなんとお礼したらよいのか分かりません」
「かまいません。僕もその子に命を助けてもらったんです」
「どういう意味です?」
「何でもありません。気にしないでください。それではこれで」
カーミルは立ち去った。
カーミルはこの街を去る前に橋の上で出会った老人のもとへ挨拶に行った。
「どうだ?これからはちゃんと生きていくつもりになったか?」
「ええ、私が間違えていました。これからは前を向いて生きていきます」
「そうか。何はともあれよかったわ。じゃあな若いの、また気が向いたらこの街に来るとよい」
「ありがとうございます。ぜひ来させて頂きます」
老人は帰っていった。カーミルは足元の小さな石ころを近くにあった池に向かって投げつけた。ぽちゃんという音とともに石ころは沈み、水面には同心円状に綺麗な波が出来上がった。波はどこまでも広がりながら静かに消えていった。




