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亡霊

作者: 歯磨き子
掲載日:2025/12/07

 桜が満開であった。今日は花見に来ていた。人々は薄桃色に染まった花弁の原にレジャーシートを敷き、座り込んで酒を交わし食事に興じていた。僕は混雑の中に入っても圧迫感で花見も叶わないと見えて、どこか人の少ない場所を探して往生していた。往来を進んだ先に漸く座れそうな場所を見つけたのだが、やはりそこは中央にある一等大きい桜の樹から随分と離れてしまっていた。これじゃあ今年の花見は微妙だなあと思いながら持ち込んだ酒を一口飲んだ。僕は花見をするつもりであったが、つい桜の樹から同心円状に拡がる人々を見渡していた。左を見ると恋仲と見える男女がいた。手を重ね合わせて仲睦まじく話をしていた。右を見ると夫婦と子が二人見えた。父は子二人と抱き上げて楽しそうに遊んでやって、母は穏やかに微笑みながら見守っていた。僕は特に何かを思いつくこともなくただ黄昏ていた。だから僕の傍にいつの間にやら一人、女がいたことに気が付かなかった。彼女は「ああ、綺麗。満開ですね」と上機嫌に話しかけてきた。花見の日であるので他人が話しかけてくることもあるだろう、とある意味での固定観念によって目の前で起きている事の割に僕の脳味噌が回転をやめることはなかった。「確かに綺麗だ。もう少し近くで見たかったんだがね」

「早朝から来ていれば見られたんではないですか」

「耳の痛い事を言わないでくれ」女は失笑していた。彼女の声からは鼻の詰まっていることを感じてどうやら花粉症を持つことを察した。冬でもないのに鼻と頬に血の色がよく乗った、紅い顔をしていた。手元には酒でもない麦茶を持っていることからも、どこか初々しさを感じられずにはいられなくて、僕はなんだか微笑ましくなった。彼女は僕がさっきまでに見ていた例のカップルを指差して言った。「あのカップル......あとどれくらい続くと思いますか。私はあと三か月だと思います」

「いきなり何を言い出すんだ」

「ああ、あとはあの家族。あの様子では、大きい子の方が難病を患いそうですね。あと数年と持たないんじゃないですか」

「なんだってそう不吉なことを花見中に......」彼女は僕の反応が不思議でたまらないという顔であった。──突如として凍り付いた空気を打ち砕いたのは凍り付かせた張本人の方であった。「なぜ質問に答えないんですか」

「陰口日和でもないだろう。こんな日は」

「あなたは日和など気にしない質だと思っていたのですがね」彼女は目の前で露骨な溜息を吐いた。内心でこの女は少し倫理の道から外れていることを理解した。僕はとにかく彼女とこれ以上は話し続けたくなかったので、酒を急いで飲んだ後適当な急用を作って逃げることにしたのだった。通ってきた往来をまた公園の入り口まで戻る間、僕は彼女に抱いた第一印象とその後の印象との乖離を思い、初々しいという感想は僕の中でまるで遠い過去のように感じられた。


 あの女に遭遇してからというもの、僕は暫くの間あの公園へ立ち寄ることを控えていた。しかし今年の桜は近年でも最高だ、という噂を小耳に挟んだので僕は久しぶりにあの公園へ花見をすることに決めた。5年前の反省を生かすため僕は事前に酒を一缶コンビニで買っておいて、明日の早朝から酒を持っていくことにした。

花見当日、僕はやると決めたことはとことんやる性分であるので極端に早い時間に起床した。日が出る直前の時間帯というものは世界が絶妙な藍色に包まれてかつ人もいない。まるで現世とは違う世界に来てしまったような錯覚を起こして、普段から厭世主義を持つ僕はありもしないはずの開放感を感じて堪らなかった。真剣にこの時間帯での散歩を日々の習慣に取り入れようかと考えに耽っているうちにかの公園は見えていた。流石に花見日和とはいえこの時間に人がいることはなかった。僕は堂々と大きな桜の樹の前に座り込んで酒を一口飲んだ。────しばらくして人が集まってきた頃には丁度僕の酒は底を尽きていた。時間にも余裕があったので僕は最寄りのコンビニでもう一缶酒を買ってきた。せっかく稀代の桜景色を特等席で見られるのだ。多少は長い時間を楽しまなければ。酔うというよりは嗜むように酒を飲む僕は過度に良い気分を味わわないが、この時ばかりはいい気分であった。しかしながら視界に入ったものが僕をハッとさせた。あの家族だった。三人家族になっていた。「どうです? 言った通りでしょう」囁く声が僕の耳を掠めた。声の主には心当たりがあった。思い出すのは5年前のことであったがあまりにも容易に記憶は蘇ったのだった。後ろにいたのは5年前の嫌な女だった。「まあ、難病で死ぬという予想は外してしまったのですがね。精進が要りますね。因みに、実際の死因は轢死だそうですよ。あと、それと5年前のあのカップルは......」

「待った......何故、君が......?」

「ずっと探していたのですよ。毎年花見の季節になったらここに来て、もう一度あなたに会いたいと思いながら」

彼女は依然として一方的に話を続ける性格のようだ。僕はそれよりも彼女に狙われていたことに、理由が分からないことも含めて恐怖を覚え鳥肌が立っていた。何より不気味であったのは件の家族やカップルについて事情をよく知っていたことであった。──「妖です、あやかし......」質問の回答はいたって簡潔であったが、しかし僕が納得できるわけもなかった。「冗談を言っているつもりか」

「いいえ」

「であるならば何だ、そんな非現実的なことがあるというのか」

「......もし確かめたいなら、ここに来てください。私は待っていますからね」彼女は僕に一枚、妙に古びた封筒を渡した。今日はそれで家に帰った。


 一応、貰った封筒を開けてみたのだが、中に入っていたのは地図であった。この地図は丁度我が家の辺りが記されているものの、所々に間違った情報が書き込まれている。しかし僕からしてみればこれは単なる質の悪い地図には見えなかった。その疑問が確信に変わったのは公園近く、僕が酒を買ったコンビニであった。この地図に記されたコンビニは過去の名前であって、今では件のコンビニは大手の企業に吸収されてしまったので同じコンビニでも名前が変わっているはずだった。僕はこれが過去の地図であることに気が付いた。僕はあの女が態々これを渡した意図が知りたくなったので、地図に記された印に明日向かうことにしたのだった。


 僕は護身用のスタンガンなどは持っていないので警戒はしつつも仕方なく手ぶらで印の場所へ向かうことになった。往来を進み、曲がり、印へと近づいていくほど周囲の一帯が暗くなっていた。それは太陽が沈む夜の暗さとはまた違って、真っ黒な靄が僕を取り囲んで視界を妨害されているようだった。歩くごとにその黒い靄は僕の視界を覆い隠していく。そんな黒に立ち向かうような気持ちで一歩一歩踏みしめて歩を進めていた。視界がいよいよ完全に覆われようとした時、ようやく僕は辿り着いたのである。目の前にいたのは鬼火に囲まれる、青白い女であった。形相は変われどしかしあの女だと確信することができた。「何の真似なんだ」

「真似じゃないです。私こそが本当の亡霊ですからね。だから妖も本当なのです。鬼火を見た時点でおおよそ察することは出来たのではないでしょうか。地図が古いのは申し訳ないです。私はあれしか知らないので」

「......君の目的が分からない」

「ああ、もしや覚えていないのですか? それも当然かもしれませんね......私の名を思い出せるわけがありませんものね......」そう言って彼女は確かに笑った。嫌な笑みだった。凶兆が触角に触れたのは僕の間違いではなかった。目の前が真っ暗になった。


 時間軸の分からない場所で僕はぼんやりとある子供を眺めていた。僕の身体は言うことを聞かなかった。子供は鼻と耳を紅くしながら涙の粒を頬に這わせていた。幽体離脱をしたように僕は僕の肉体を非常に客観的に見ていた。僕の肉体は子供を包丁で殺した。喉笛を掻っ切った。刺さった部分から滲み出てくる血の色と、刃を横へ動かすだけ皮膚が引っ張られつつも耐え切れず裂けてしまう様子が鮮明に映った。凡そ15、6歳の少女はあっけなく息を引き取った。そんな夢を見た。僕は桜の花弁の一枚となった。

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