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透視の構文――言葉で肉体を彫る

作者: 若葉茂

 日曜の昼下がり、バベルの図書館は静謐に満ち、書架の間を淡い陽光が揺れていた。本田はその奥で、伝説の絶版本に出会う。タイトルは『自己改造の試み――硬質な文体をダイヤモンドの刃に磨く』。


「本だ!」

 一声が震撼と谺した。叱責でないことは確かである。脳裏に閃光が走り、目を回したのかもしれないし、棚の角に頭をぶつけたのかもしれない。


 翌日、教室に響く先生の声は静かだが、どこか含みを帯びていた。

「本田くんは本日お休みです。バベルの図書館で“本だ!”事故を起こし、入院しています。本に記載された“読脱”という一語に、脳が揺さぶられる体験をしたそうです」


 生徒が眉をひそめた。


「その“読脱”とは何ですか?」


「自我が剥がれる体験や脱皮のような知覚変容というニュアンスで、引く辞書ではなく、読む辞書にしかない言葉です」


「“読脱”が本当に脳を揺らすんですか?」


「深海の波に呑み込まれるような衝撃を覚えたと彼は言っています」


 教室には微かなざわめきが広がる。誰かが冗談めかして呟いた。


「ダイヤモンドは砕けない。ジョルノが読脱してきましたね」


 先生はジョジョに微笑み、こう言った。


「まさにその通りです。硬質な文体からダイヤモンドへの昇華は、荒木飛呂彦氏がシーレの構図を取り込み、独自の世界を築くのに似ています。模倣は創造の母なのです」


 みおはそっと手を挙げた。


「先人の語法や構図を自分の血肉に変えてこそ、真の独創が生まれますね」


 その言葉の余韻がゆっくりと広がった。絶版中の一冊が生み出した小さな衝撃は、人々の文体と想像力を改造し、新たな創造の種を蒔いたのだった。



 真夜中のアトリエに残されたのは、一振りの筆と、一雫の月光の欠片だけだった。漆黒に染められた軸の中に、蜘蛛の巣に宿った露が乾いたまま封じ込められている──それがエゴン・シーレの新たな絵筆である。筆先に触れた瞬間、不純な欲望はろ過された真水となり、透明な官能だけが極薄の線となって浮かび上がる。


 筆を揺らすたび、キャンバスには骨の輪郭と肌の薄膜が同時に刻まれていく。淡い肌色のグレーズが何層にも重なり、そこにひそむ感情がまるで呼吸する水滴のように震える。気配すら透けるようにクリアな筆跡は、見る者の視線を吸い込み、身体と魂の境界線をぼやかしていく。


 影の守護者がひそひそとささやく。

「どこまで透かすのか?」

 シーレは唇を引き結び、筆先で肉体の秘密をひとつ、またひとつ蘇らせる。透明な層の向こう側に潜む情熱は、まるで氷の結晶が放つ冷たい熱のように、観る者の内部で静かに燃え上がる。


 夜が明け、初春の空気がアトリエに流れ込むころ、キャンバスは宙に浮かぶガラス片のように煌めいていた。透き通る官能は現実の汚濁をすべて濾過し、ただ純粋な「欲望の光」だけを結晶化している。


 君の瞳は身に透る

 君の瞳は骨にも透る

 君、君、君

 君の瞳は・・・


 シーレは軽く筆を置き、微笑んだ。

「透明こそが、いちばん深い誘惑だよ」


 そこにはもう筆ではなく、肉体の内側を映し出す「透視の眼差し」が宿っていた。



 先生はみおの瞳を見据え、小さく微笑んだ。


「みおさん、エゴン・シーレの構図を借りるなら、まず対象を大胆に歪め、輪郭線を震わせてみてください。形を正確に捉えるより、内面の激情を線に刻むこと。強い色彩対比を用い、余白を恐れず活かす。そうすれば、シーレの叫びを宿しつつ、みおさんだけの世界が浮かび上がるでしょう」 


 みおは頷き、静かにその言葉を胸に刻んだ。図書館の棚に眠る言葉と、画布に踊る線が、今ここにいつか重なる日を夢見ながら。

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