#8 君の身体が覚えてる
「殿下?」
いつもわたくしだけを見つめてくださるサフィール殿下の視線が、不意に遠くへと逸れてしまって。
思わず、焦って、その袖をそっと掴んでしまった。
「なに?」
軽く眉をひそめて、殿下は再びわたくしに視線を戻す。
「あの……わたくし、頑張って……ちゃんと思い出しますわ。」
そう申し上げると、サフィール殿下はふうっと小さく息を吐いて、微笑みを浮かべる。
「ああ……俺はただ、君と一緒に、もう一度リュミエールを華やかにしたいんだ。」
そのお声は穏やかでありながら、確かな意思を感じさせるもので。
「リュミエール王国を、再び輝かせないとね。
王子や王女もたくさん必要だし、次の世代の貴族たちに『王家と縁を結びたい』と思わせるようにしないと。」
「王子や……王女……?」
その言葉の意味を胸の奥で反芻し、わたくしの頬はじんわりと熱を帯びてゆく。
か、飾らず申し上げれば、それはつまり……「子をたくさんもうけましょう」と……?
その瞬間、ふと、五年前の「結婚」という言葉が脳裏をよぎる。
あの時、たしか……わたくしは十四歳で、サフィール殿下は十六、もしくは十七歳くらいだったかしら。
この国では、早くに婚約や結婚をする方も少なくないとはいえ、けれど……。
ちらり、と横目で殿下のご様子を伺う。
その……結婚、というのは。
つまり、どういう……?
……気になります。
やはり、きちんとお尋ねすべきかもしれません。
「あの……殿下?」
「サフィ、だよ。」
「サ……サフィ?」
「うん、なに? エルシィ。」
ぱっと瞳を輝かせて、嬉しそうにわたくしの手を取る殿下。
その温かなぬくもりに、指先がぴくりと震える。
……恥ずかしい。
けれど、やはり聞かなくては……。
「あの……わたくしたち……その………い、一緒に……眠ったのでしょうか?」
次第に声が小さくなっていき、恥ずかしさに耐えきれず、視線を落として頬を隠す。
そんなわたくしを見て、サフィール殿下は……
「ああ、もちろん。」
にやり、と愉快そうに微笑まれた。
「…………っ!」
「だって、あの宿屋にはベッドがひとつしかなかったからね。」
……ひとつしか。
ひとつ……っ!
胸がどきりと脈打ち、わたくしは思わず後ずさってしまう。
「つ、つまり……ただ眠っただけではなく……?」
「うん、まあ……そういう意味かな? 君が寝かせてくれなかったけどね。」
「っ……!!?」
「まさか……これまで『覚えていない』なんてこと……ないよね?」
「えっ?」
いえ、まったく覚えておりませんけれど……!?
お言葉通りならば、わたくしと殿下は、その……そのような関係に……!?
わたくし、すでに……乙女ではないのですか……!?
「君が不安そうに泣くから、俺、あんなに優しくしたのに……。」
「っっっ!!!」
「でも……大丈夫。きっと、君の身体が覚えてるはずだよ?」
「…………あ、あの……っ、たぶん、殿下は……その……」
「うん。」
視線を泳がせながら、なんとか言葉を絞り出す。
「……優しかった、のでしょうね。」
「そうだよ。」
サフィール殿下は、どこか満足そうに微笑まれた。
もう、だめです。
これ以上考えたら、わたくしの品位が……崩れてしまいそう。
もう考えるのはやめましょう。
でも、いずれわたくしたちは正式に結ばれるのですから。
その時が来れば、きっと……すべて自然と、分かることですわ。
そう心に言い聞かせた、その時……。
空の彼方から、優雅な羽ばたきが聞こえてきた。
深い紫色の羽を持つ一羽の雷鳥が、しずしずと舞い降りる。
その足には、細い紐で手紙が結ばれていた。
紫雷鳥。
確かこれは、宰相ルシウス・シャルトリューズ公爵の使い鳥だったはず。
けれど……
「いや……シャルトリューズ公爵は代替わりして、今は……。」
サフィール殿下が手を伸ばし、紫雷鳥の足から手紙を器用に解いてゆく。
鳥は彼の肩にとまり、嬉しそうに小さな鳴き声を奏でた。
片手で手紙を広げて、中の文面を目で追った殿下が、ぽつりと呟く。
「……そろそろ、リュミエールに帰らないと。さすがに国がまずい。」
「え……?」
わたくしが驚く間もなく、殿下はさらりと告げられた。
「エルシィ、明日出発だよ。」
「……はい、殿下。」
王家の命令には、逆らえない。
それが、どれほど急なことであろうとも。
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