#4 名前を呼ぶってそういう意味ですか?
目を覚ました場所は、母の祖国・ルナリア王国にある別邸 だった。
柔らかな陽光が、レースのカーテン越しにベッドを照らす。
窓の外には、穏やかに広がる緑の丘陵地帯。
春の風が、遠くのラベンダー畑をそっと揺らしていた。
リュミエールの王宮とは違う、のどかで、温かな空気。
亡命していたフェルモント侯爵家は、このルナリアで穏やかに暮らしていたらしい。
そして、わたくしは——驚くほど急速に回復した。
目覚めた日の朝こそ、少しふらついたものの、
昼には自力で食事をとれるようになり、
翌日には部屋の中を歩き回れるほどに回復。
医師からも「奇跡の回復力ですね」と目を丸くされるほどだった。
家族の消息も、目覚めてしばらくして聞かされた。
フェルモント侯爵家は、ルナリアに亡命したまま、リュミエールには戻っていない。
父であるフェルモント侯爵は、今や手広く商売をしているらしく、母をどこにでも連れ歩き、世界中を旅しているという。
兄はルナリアで伯爵位を賜り、小さな領地を与えられていた。
絹の生産で有名なその地で、家族を持ち、幸せに暮らしているという。
家族は、それぞれ新しい人生を歩んでいた。
エルセリアが目覚めたときには、みんな一度、慌てて戻ってきたものの——
「サフィール殿下がいらっしゃるのなら……。」
などと言い残し、それぞれにまた帰って行ってしまった。
――えっ、王太子殿下がいらっしゃるのなら、むしろ留まるべきでは……?
と不安になったが、どうやらサフィール殿下本人の希望だったらしい。
「目覚めて最初に私の名前を呼んだのだ。エルセリア嬢が私を求めている証拠だ。」
王太子殿下は、そう言って、ルナリアの邸に堂々と居座った。
「彼女はこのまま、私の妃になるのだからな。」
「…………は?」
ちょっと待ってください。
サフィール殿下の妃は、まだいらっしゃらないのですか?
それで……王太子妃候補としてのわたくしが、繰り上がってサフィール王子の妃になるということなのでしょうか。
いろいろと理解が追い付かない。
……ディアマン殿下は……もう、この世にはいらっしゃらないのかしら。
彼のことを思うと、少し胸が痛んだ。
彼はいつも穏やかで、優しくて——。
どこまでも、王族として理想的な方だった。
「……お前が今、誰を考えているのか、聞いてもいいか?」
不意に落ちた低い声に、思考が途切れる。
ゆっくりと顔を上げると、サフィール王子がこちらを見つめていた。
その青い瞳には、どこか探るような色が混じっている。
えっ、なにこの尋問じみた空気……!
別に、ディアマン殿下のことを考えるくらい、自由ではなくて?
……なんだか、考えごとをすることさえ、許してもらえなさそうです。
*******
サフィール王子は、エルセリアが体力を取り戻すまでルナリアに滞在すると宣言した。
そして——彼は信じられないほど、エルセリアを甘やかした。
朝起きると、部屋に来て、ベッドの上で朝食を食べさせてくれる。
終わると午前の散歩で、必ずエスコート。
昼食では、肉を切り分け、パンにバターまで塗ってくれる。
午後は、本を読んでくれたり、お茶を淹れてくれたり…!
これは、どう考えても過保護すぎる。
最初は「王太子殿下直々に御手を煩わせるなど、畏れ多いことでございます」といちいち恐縮していたのに、時間がたつにつれてこちらもだんだんと慣れてきてしまう。
サフィール王子自身も、自分で世話を焼くのが好きなのか、
夕食のとき、気を利かせた料理人が、食事をあらかじめ小さく切り分けて出したところ——
「余計なことをするな。」
と、しばらく機嫌を悪くしてしまった。
とにかく、朝から晩までぴったり傍にくっついている。
まるで、ほんの少しでも目を離せば、わたくしがまたどこかへ消えてしまうとでもいうように。
……いやいや、そんなわけないでしょう?
「エルシィ、今日の体調は?」
「問題ありませんわ。」
「そうか。」
ですから少し離れてくれても……。
しかし、サフィール王子は離れない。
当然のように椅子を引き、当然のように隣に座り、当然のように紅茶を注ぐ。
さりげなく距離を取っても、そのぶんだけ彼が詰めてくるのは、何かの魔法なのでしょうか……?
時折、じっと切なげな眼差しで見つめてくる。
そして、ふっとため息をつきながら、わたくしの指にはめたままのサファイアの指輪を、くるくると撫でる。
……何か、言いたげな雰囲気がするのですけれど?
「そろそろお返ししたほうがよろしいのでは?」
と申し出ても——
「まだ体力が完全に戻っていないから。」
と、それを外させようとしない。
「けれど、もうほとんど回復しましたわ。」
「だが、まだ 『完全』ではないな。」
完全、の基準が厳しすぎる気がするのですけれど?
本当に、もう、あまり関係ないような気がするのですが……?
なぜ、こんなに彼がわたくしに構うのか、理解できませんわ。
……それとも、私が気づいていないだけで、この指輪には何か他に意味があるのでしょうか?
だけど——
指輪を撫でる彼の指は、いつも、ほんの少しだけ震えていた。
ありがとうございます☆