#3 亡命中の侯爵令嬢が目覚めました
ペガサスの馬車の中で、サフィール王子は無言だった。
窓の外を流れる夜の景色と、馬車の揺れだけが、静かに時間を刻む。
エルセリアは、ただ黙って彼の姿を観察する。
かつての面影を残しながらも、彼はすっかり大人の男性になっていた。
高くなった鼻梁、鋭くなった顎のライン、纏う空気までもが、以前の彼とはまるで違う。
——五年。
それだけの時間が流れたのだ。
いや、リュミエールでも同じだけの時間が過ぎていたのだろうか。
それさえも分からない。
けれど、サフィール殿下が王太子になったということは——
ディアマン王子は……?
いえ、それだけじゃない。
第二王子、第三王子の方々も……?
思わず問いかけそうになる。
けれど、その言葉を口にするのは、あまりに不敬だとわかっていた。
では、サフィール王子がわたくしを迎えに来た理由は?
王太子になった以上、新たな妃候補が選ばれているはず。
わたくしはもう、ただの亡命貴族の娘に過ぎない。
なのに、なぜ……?
その時、指先に触れた冷たい金属に、はっとした。
サファイアの指輪。
それはサフィール王子が生まれた時に作られた、王位継承権の証。
彼が王位を継ぐためには、絶対に必要なもの。
——ああ、そういうことね。
わたくしが持っていたから、取り返しに来たのね。
だったら、もうわたくしは用済みということかしら。
その瞬間。
サフィール王子の視線が、ふいにこちらに向いた。
「エルシィ。」
低く、透き通るような声だった。
「今は、あまり思考で力を使うな。
元の身体に戻ったら、すべて説明してやる。」
そう言うと、彼はすぐに視線を逸らした。
――力を使うな、って……。
そんなの、無理に決まっているじゃない。
彼の言葉に反発するように、思考が加速する。
そのとき、気づいてしまった。
サフィール王子の目の下に、深いクマが刻まれていることに。
まるで、長い間、眠れていないような。
あるいは、戦い続けているような……。
まだ王位継承争いは続いているのだろうか。
それとも、彼自身が命を狙われているのだろうか。
「……サフィール殿下?」
不安が胸を締めつけ、思わずその名を呼ぶ。
わたくしの言葉は、鈴の音のように、静かに馬車の中に散る。
サフィール王子の肩が、わずかに揺れる。
「……サフィ、と……呼んでいた。」
彼がぽつりと呟く。
「覚えてない……だろうな。」
ほんの一瞬だけ、睫毛が伏せられる。
寂しげな、その横顔。
「サフィ……?」
思わず口にしたその愛称。
王族を、そんなふうに呼ぶなんて……。
わたくし……そんなことを……?
考えれば考えるほど、思考がぼんやりとしていく。
身体が、徐々に、霧のように溶けていく——。
「やめろ!! 考えるな!!」
突然、サフィール王子が苛立ったように声を荒げた。
次の瞬間——彼がわたくしを、強く抱きしめた。
「頼むから……エルシィ……あと少し……そのままでいて……。」
その声は、ひどく切実で、どこか、怯えているような声音だった。
——こんなふうに、彼がわたくしを抱きしめるなんて。
サフィール王子の腕が、わずかに震えている。
形のないわたくしを、それでも、必死に抱きしめようとしている。
「……サフィール殿下……?」
そっと息を呑む。
胸の奥が、ざわりと震えた。
わたくしは、少し迷って……それから、こくりと頷いた。
サフィール王子の腕の力が、少しだけ緩む。
「……いい子だ。」
彼の唇が、わたくしの髪に触れた……気がした。
「扉を超えた。
これから先は、少し眠るといい。
そして、目が覚めたら……必ず、最初に……一番最初に、俺の名前を呼んで。いい?」
「……はい……サフィール殿下……。」
そう呟いた瞬間——視界が、真っ白に染まる。
エルセリアの意識は、深く、静かに、落ちていった。
*******
目覚めた瞬間、微かに揺れるカーテンが視界に入った。
ふわりと舞う白い布越しに、やわらかな陽光が差し込んでいる。
それは見慣れた絵梨の部屋の空気ではなかった。
——ここは……?
ぼんやりと瞬きをする。
瞼が重い。身体も、思うように動かない。
ふと、耳元で息を呑むような小さな音がした。
「エルセリア様……目覚められました……!」
震えるような声だった。
焦点の定まらない視界の向こう、ベッドの周りに立つ人々の姿が、ゆっくりと形を結んでいく。
華やかな刺繍を施した服、うやうやしく揃えられた手。
肌に触れるのは、艶やかなシルクのシーツ。
香り立つような異国の気配——いや、懐かしい感覚。
この空気を、わたくしは知っている。
けれど、どこか遠い。
まるで、長い夢の中にいたような……。
――ここは……どこ……?
そう尋ねようとして……言葉が、喉の奥で詰まった。
――目が覚めたら……必ず、最初に……一番最初に……。
記憶の断片が、掴めそうで掴めないまま、靄のように脳裏を漂う。
扉の向こう、光に溶ける意識、そして……あの声。
思い出さなくては。
わたくしに言い聞かせるように、彼が囁いた言葉を。
ああ、そうだ……たしか名前を……。
唇が、わずかに震えた。
かすれた声が、静かな部屋に落ちる。
「……サフィール……殿下……。」
その瞬間、部屋の空気が張り詰めた。
誰かが、すっと歩み出る。
次の瞬間、わたくしの手が、両手でそっと包み込まれた。
少し冷たい指先が、わずかに震えている。
それが誰のものなのかを考えるよりも早く——
手の甲に、ぽつりと、小さな雫が落ちた。
雫は、ひどく熱かった。
「……エルシィ……。」
かすれた、震える声が聞こえた。
誰かが息を呑み、誰かが手を胸に当てる。
視線が交錯し、沈黙が満ちる。
けれど、わたくしの意識は、ただ目の前の温もりに引き寄せられていた。
包まれた手の内側で、サファイアの指輪が、じわりと熱を帯びるように、静かに光を放つ。
ゆっくりと広がる柔らかな光が、瞼の裏を照らす。
指輪の温もりが、脈を伝い、心へと満ちていく。
それは、サフィール殿下の、王位継承権の証。
そして——今のわたくしを、ここに繋ぎとめるもの。
光の波が、ゆるやかに意識の奥へと流れ込む。
遠くにあった記憶が、指輪の輝きとともに、ゆっくりと……重なった。
読みに来て下さってありがとうございます。
ここまでしんみりしてますが……次回より、ラブコメモードに入ります!