#2 青いサファイアの指輪
サフィール王子の手が、絵梨の腕をぐっと掴む。
「あっ……あの………?」
サフィール殿下が……わたくしを迎えに?
驚きに息を呑み、顔を上げた。
その瞬間、真剣な青の瞳が、まっすぐにわたくしを捉えた。
「時間がない。すぐに扉が閉じる。
エルセリア、この身体ごと連れて行くのか?」
「え……っ?」
振り返ると、翔真が呆然と立ち尽くしていた。
彼には見えていないはず。
……けれど、何かが起きていると感じている。
「いえ……。」
「それなら、鍵をこちらへ。」
「鍵……?」
頭の中が混乱する。
(絵梨、鍵って何? 何か知ってる?)
(あ、エルセリア、最初にあなたが来た時に持っていた、あれじゃない?)
絵梨は、無意識に首元へ手を伸ばした。
サファイアがはめ込まれた指輪が、金の鎖に通されている。
「こ……これ……でしょうか、殿下……?」
エルセリアと絵梨の声が、響き合うように重なる。
「ああ、それだ。それだけ持ってこい。」
震える指先が、鎖を外そうとする。
……だが、外れない。
次の瞬間――サフィールは短く息を吐き、
「……チッ。」
迷いなく、腰の剣を抜いた。
――ギャッ!!
喉の奥で悲鳴が固まる。
この異世界で、剣を向けられることなど、久しくなかった。油断していた。
しかし、サフィールの動きは、寸分の迷いもなかった。
剣先が、一閃。
シャリンッ!
金の鎖が切れ、指輪が宙に舞う。
それを、彼は軽やかに片手で受け止めた。
何事もなかったかのように、剣を鞘へ収め、絵梨の……わたくしの前に戻る。
優雅で、冷静で――圧倒的に、王族だった。
「エルセリア……行くぞ。」
……どうやって……?
そう思った瞬間、サフィールの手が、わたくしの頬を包んだ。
そして――唇が、重なる。
「っ……!!?」
ぐっと抱き寄せられ、深く、深く、奪うように。
サフィールの熱が、直接、身体の奥に流れ込んでくる。
――このキスを、わたくしは知っている。
胸が苦しくなるほどに、懐かしい。
なぜ……?
なぜ、こんなにも懐かしいの……?
けれど、思い出せない。
視界が滲み、世界が溶けるように、意識がほどけていく――。
そして……唇が離れた。
「では、馬車へどうぞ。侯爵令嬢。」
サフィールに手を取られ、わたくしはペガサスの馬車へと歩き出す。
その瞬間、違和感が走った。
指先が――白い。
絵梨の指よりも、さらに白く、細く、透けるように見える。
……これは……?
驚いて振り返ると――そこに、絵梨がいた。
まるで魂が抜け落ちたように、呆然と立ち尽くしている。
――ああ、わたくしは、もうそこにはいないのね。
さよならを言う時間もなかったわね。
馬車に乗り込んだとき、絵梨が大きく手を振るのが見えた。
「エルセリア! ありがとう!」
彼女の瞳には、涙が滲んでいた。
けれど、その顔は――笑っていた。
翔真が、絵梨の背後から抱きしめる。
まるで、彼女が別の世界に行ってしまわないように、引き留めるかのように。
ふたりの姿が、遠ざかっていく。
……絵梨、ありがとう。
エルセリアは、ふたりと過ごした五年間を、記憶の中にそっと抱きしめた――。