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#12 お帰りなさい王太子妃様! そして金庫は空っぽです

「部屋にいなかったから、心配したぞ。」


 朝の光が差し込む中庭に、サフィール殿下の声が静かに響く。

 その声に振り向いた瞬間、彼はすっと歩み寄り、長身をかがめて、額をそっとわたくしの額に重ねる。


「……熱はないみたいだな。」


 その距離は、あまりにも近くて。

 空の色をした瞳が、わたくしの瞳をまっすぐに覗き込む。


「エルセリア。王室会議に同席してくれ。」


 穏やかな声に込められたのは、命令ではなく、信頼。

 けれど、あまりにも近すぎて、心臓が跳ねる。


 ち、近いですわ……! 殿下っ!


 こくん、と小さく頷くと、殿下は名残惜しげに。離れながらさらりとわたくしの頬を指先でなぞり……そのまま、わたくしの指先を掬い取られた。


 ふぅっ……。


 ルナリアで過ごした日々が、わたくしと殿下の距離感を、少しばかりおかしくしてしまったようですわ。


「エルセリア、行こう。」


 朝陽に透ける金の髪が、風に揺れてきらめく。

 その景色に、ふいに、ずきん――と胸が軋んだ。


 この景色……いつか、どこかで。


 ――『大丈夫。俺が守るから』


 記憶の奥底で、誰かの声が微かに響いた気がした。

 空の色の眼差しに導かれるように、わたくしはもう一度、こくんと頷く。


 きゅっと握られた片手に引かれて、わたくしは歩き出した。


*****


 王室会議の間へ。


 重厚な扉が静かに開かれると、そこにはすでに数名の大臣たちが揃っていた。

 彼らは一斉に立ち上がり、深々と礼を取る。


「留守の間、ご苦労であった。……また新たな兄弟など現れたりはしなかったか?」


 冗談とも本気ともつかない言葉を口にしながら、サフィール殿下は薄く笑う。

 その笑みは、先ほどまでの柔らかな雰囲気とはまるで違っていた。

 空気が一瞬で引き締まる。


 そして、さらりと告げられる。


「紹介しよう。

 こちらは……皆も存じているだろうが……エルセリア・ドゥ・フェルモント侯爵令嬢。

 だが、実は、既にリュミエールの名を冠している。」


 一瞬の沈黙が、会議の間を支配した。

 リュミエールの名を冠する――つまり、わたくしが王家に嫁いでいるという意味ですわ。


 事前に知らされていたはずなのに、やはり殿下ご自身の宣言は重みが違うのでしょう。

 やがて、ぱらぱらと拍手が起こり、それは次第に大きな波となって広がっていった。


 その中で一番大きな拍手をしていたのが、財務大臣のパルドゥアン公爵だった。

 満面の笑みを浮かべ、声高におっしゃる。


「それは……それは素晴らしい!

 ご結婚、まことにおめでとうございます!」


 それに追随するように、他の貴族たちも一斉に祝いの言葉を述べる。

 祝辞の声が重なり合い、会議の間は一瞬だけ祝宴のような華やかさに包まれた。


 ……ええと。あまりにもあっさりと、殿下の妃として受け入れられてしまいましたわ。

 かえって戸惑うわたくしを、殿下が見て、ほんの少しだけ優しく微笑まれる。


 そして、再び閣僚たちに向き直る。


「あ~つまり、そういうことだ。

 今後は、彼女を王太子妃として接するように。

 では……今日の議題に入ってくれ。」


 殿下の隣に用意された席に腰を下ろし、わたくしは審議をぼんやりと眺めていく。


 王位不在、ディアマン殿下もいらっしゃらない。

 懐かしい顔ぶれもあれば、代替わりした新しい顔もある。

 シャルトリューズ公爵はご逝去され宰相も不在、公爵位は御子息が継ぎ……

 財務大臣もアブサント公爵からパルドゥアン公爵へと変わっていた。


 軍務担当が国境の不安を語り、内政担当が民の不満を報告し、そして財務大臣が――


「予算が、ありません。」


 はっとして顔を上げる。


 殿下の手元に渡された書類をちらりとのぞき込む。

 そこには、謎の支出、謎の赤字、そして謎の経費がずらりと並んでいた。


「……この魔法植物管理費とは?」

「庭がうるさくて眠れないという近衛騎士の苦情がありまして……」

「それについては……」


 副騎士団長のシャルトリューズ公爵が、真顔で発言する。


「眠れないという騎士は、魔獣討伐隊に配置換えを。

 魔獣の咆哮の中でも眠れるように鍛えてみせましょう」

「いや……そのまえに逃げ出すだろうがな……」


 会議の場に、乾いた笑いがひとつ。

 そしてまた人材が不足する、という悪循環ですわね。


「……ところで、ご結婚に関連する式典なのですが……」


 少し言いにくそうに、財務大臣パルドゥアン公爵が進言する。


「予算が……少々厳しい状況でして……」


 サフィール殿下が、わずかに眉を曇らせる。


「ああ、わかっている」

「いかがいたしましょうか」

「概算は出せるか?」

「そうですね。数日中には。

 いずれにせよ……大神殿での挙式、貴族向けの晩餐会、国民に知らしめるパレード……それから宮殿の改装費などで……。」


 さらさらとペンを走らせながら、淡々と列挙される支出項目。


「こちらはあくまで『低く見積もった額』でございます。」


 ちらりと覗き見た瞬間、わたくしは思わず息を呑む。

 ……とても、この謎の赤字だらけの国庫からは出せそうにありませんわ。


「せめて挙式だけでも先に行いたいのだが…」


 殿下の声音には、どこか切実な響きがあった。

 その横顔を見つめながら、わたくしは思わず唇を噛み――そして、控えめに声を上げた。


「あの……殿下? 結婚式は行わなくてもよろしいのでは?」

「え……?」


 殿下の青い瞳が、驚きにわずかに見開かれる。

 その視線を受け止めながら、わたくしは胸の奥で小さく息を整えた。


「わたくしたち……ふたりきりの結婚式を、挙げましたでしょう?」


 ほんとうは、覚えてはいないのですけれど。

 それでも、そう言葉にした瞬間、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。


 殿下はしばし黙し、わたくしを見つめる。

 その瞳に浮かぶのは、安堵でも寂しさでもなく――まるで、彼だけが知る遠い記憶を胸の奥から呼び起こされたかのような色。

 わたくしの言葉が、彼の中にだけ残るその景色を揺り動かしたのかもしれない。


 やがて、彼は小さく吐息をこぼし、視線を逸らした。


「君がそれでよければ……いいだろう。」


 その声音には、わずかな名残惜しさが滲んでいた。

 けれどすぐに表情を引き締め、閣僚たちへと向き直る。


「ではそれ以外の舞踏会・晩餐会・パレードは後にして、とりあえず王太子夫妻の居室を準備してくれ」


 すると、侍従長が言いにくそうに発言する。


「しかし、あのお部屋は、現在とても使える状況ではございません。

 まずは……壁を塗り替えないと」

「塗り替えればいい」

「しかし予算が……」


 壁……?


 財務大臣が再び口を開く。


「ご存じの通り、王宮の維持費も、ぎりぎりでございます。

 先日など、厨房の塩が底をつきかけまして」


「え……塩!?」


 驚きのあまり、思わず声が漏れる。

 会議の場に、妙な沈黙と乾いた笑いが同時に広がった。

 しかし、王宮で塩が足りないなんて……もはや末期では?


 サフィール殿下が、わたくしの方を見て、少しだけ困ったように微笑まれる。 


「………そういうことだ、エルセリア。」


 ――温かな祝辞の余韻も束の間。

 王宮の現実は、塩にすら困るほどの『空っぽの金庫』。


 けれど、殿下が、あきらめたように低く告げられた。


「言葉だけでは実感が湧かないだろう。……実際に見てみるか」


「えっ、どこを……?」


「決まっている。宝物庫だ」

  


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