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#10 これこそ永遠に消してほしい記憶ですわ!

 

 殿下の両腕に抱き上げられたまま、王宮の奥へと運ばれていく。

 白亜の回廊を抜け、重厚な扉が開かれ、そのさらに奥の客室へ。

 けれど、今はそこがどこであるかなんて、考える余裕はまったくなく――。


 ――なぜなら。


 部屋に入った瞬間、張りつめていた糸がぷつりと切れてしまったのです。

 それまで必死に堪えていたものが、胸の奥からせり上がり……。


「う……っ!」


 わたくしは、サフィール殿下の麗しき白の御衣裳の上に――盛大に。


 ……はい、やらかしました。


 真っ青になる侍従たち。

 絶句する侍女たち。

 羞恥と恐怖のあまり、縮こまって固まるわたくし。


「………!」


 ああ、ここから永遠に消えてしまいたい!

 再び空の彼方に、扉の向こうの国に飛び去ってしまいたい!


 謝罪の言葉を紡ごうとした瞬間、殿下は視線でそれを制し、わたくしを寝椅子にそっと下ろしてくださいました。


 そして眉一つ動かさず、小さく呪文を唱える。

 御衣裳に広がった惨状が、光の粒子となって瞬く間に消え去りました。


 そのうえで、周りに聞こえるように低く一言。


「忘れろ。」


 その声があまりにも冷たくて、部屋の温度が一瞬で五度は下がった気がしました。

 侍従たちは同意の印にこくこくとうなずいています。

 殿下の御配慮に、胸がぎゅうっと締めつけられます。


 ――ああ本当に。どうか殿下の忘却の魔法で、この瞬間だけを永遠に消し去っていただきたい。


「宮廷医師を呼べ!」


 殿下の声に、侍従が慌てて答えます。


「……殿下、医師のブルーム卿は休暇中でございます。」

「そうか。では神官を。」

「ご存じのとおり、神官長は現在空席でして。次席神官は……その……謹慎中でございます。」

「謹慎? 何をした。」

「平民の娘を身籠らせたとのことで……。」


 途端に殿下がぎりっと奥歯を噛み締め、氷のように冷たい声を放たれました。


「馬鹿者! そんな話を俺の妃に聞かせるな!」


 ……はい、今度は部屋の温度がさらに三度下がりました。

  わたくし、もう毛布が欲しいです。


 侍従たちは一斉に縮み上がります。

 ……でも、殿下。わたくしなら、大丈夫ですわ。

 むしろこの状況、笑うしかありませんもの。

 リュミエールの王宮に、人材が不足していることがよくわかりましたわ。


「では魔術師団長を――」


 そのとき、一人の騎士が、おそるおそるといった風情で歩み出ました。


「おそれながら……妃殿下におかれましては、乗り物に酔われたのだと拝察致します。」


 そう言いながら、騎士は数本の細長い葉を差し出しました。


「乗り物酔いに効くとされる『スタビレム草』でございます。」


 殿下がそれを受け取り、目を細めて確認なさいます。


「確かにスタビレム草だ。どこにあった?」

「中庭に繁茂しておりまして、妃殿下の御様子を拝察し、すぐに採取してまいりました。」

「いい判断だ。」


 ……ちょっとお待ちくださいませ。

 スタビレム草が、中庭に?

 観賞用の薔薇やルミエラの花ならともかく、よりによって酔い止め草が繁茂しているなんて……。

 さきほどちらりと中庭がずいぶんと茂っていたように見えたのは気のせいではなかったのですね。

 リュミエール王宮の園芸事情、どうなっているのですの?


 侍女が盆を捧げて歩み出ます。


「では、煎じてお茶に致しましょう。」


 スタビレム草は、乗り物酔いの時には濃く煎じてお茶にすると効く薬草。

 けれど殿下はそれを制し、わたくしの目の前に差し出しました。


「口を開けろ。」

「……は?」


 この草を、そのまま食べろと?

 わたくし、一応レディですのよ?

 生の薬草をむしゃむしゃなど、あまりにも……!

 それに、少し横になれば回復するのでは……?


 でもそのとき、殿下の瞳に宿る光を見てしまったのです。

 それは、ただの命令ではなく――心配でたまらない、という切実な想い。


 逆らえるはずがございません。

 観念して、その細長い草の葉を口に含みました。


 もぐもぐ……もぐもぐ……。


 ……青臭い!

 喉にちくちくと葉の破片が引っかかります。


 タイミングよく差し出されたグラスの水で、ごくごくと流し込みました。


「あら……?」


 思わず小さく声が漏れます。

 水と合わさると、不思議と爽やかな香りが鼻に抜けていくようです。

 少しずつ、胸のむかつきがすっと和らいでいき……。


 ふぅ……。

 ようやく、一息。


 顔を上げれば、殿下の背後にずらりと並ぶ騎士や侍女たち。

 ……みっともない姿を、あまりにも多くの人に見られてしまいましたわ。


「下がれ。」


 殿下の一声で、空気がぴしりと張り詰める。

 侍女ふたりだけを残して、他は蜘蛛の子を散らすように退室していきました。


 殿下はわたくしをベッドにそっと移し、毛布を掛けてくださいます。


「しばらく養生してくれ。あとでまた来る。」


 低く、けれど優しい声。

 その言葉を残して、殿下は静かに部屋を後にされました。


 胸の奥に、じんわりと温かさが広がっていきます。

 恥ずかしさも、情けなさも、すべて包み込むように。


 ――その温もりを抱いたまま、わたくしは静かにまぶたを閉じました。


 

久しぶりに更新しました。

読んで下さっている方、ありがとうございます☆

作品タイトルを少し変更しました。

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