#9 リュミエールへ! ペガサスの翼は揺れて揺れて……
やっぱり空の旅は速い。
リュミエール王国を目指して飛び立ったペガサスの馬車は、ふわりふわりと風に舞い上がり、まるで雲の一部になったかのように軽やかだった。
淡い陽光が室内に差し込み、背中にはふかふかのクッション。まどろむような浮遊感に包まれ、自然と目を細めてしまう。
「エルシィ、こっちを見て。」
呼びかけに振り向くと、サフィール殿下が色とりどりのお菓子を詰めた籠を差し出していた。
目を奪われたのは、小さなマカロンたち。
桃色、檸檬色、淡い空色……咲きかけの花の蕾のように、とても愛らしい。
「あら、マカロン!」
ときめきに指先が伸びた、まさにその瞬間。
がたん、と馬車が大きく揺れた。
「……っ!!!」
驚きに口を開けたまま衝撃を受け、思いきり舌先を噛んでしまう。
手のひらの中でマカロンが無惨に潰れ、繊細な粉がドレスの上に舞った。
すぐさま殿下は籠を脇に置き、わたくしの唇を覗き込みながら、冷たい指先をそっと口元へ……。
「うぐっ……! な、何をなさるのですかっ!」
「舌を噛んだようだったから、大丈夫かと……。」
「大丈夫ではございません。……痛いですわ。」
「うん、そうみたいだな。」
困ったような笑みがすっと近づく。
えっ、まさかキス!?
なぜ今!?
と、動揺したその刹那、馬車が再び跳ねて、今度は額同士がごつんとぶつかった。
「いった〜い!」
「……痛いな。」
「も、もうっ! 急に何をなさるのですかっ!」
「舌に傷があるなら、舐めて癒してあげようかと思って。」
「わたくしは猫ではありません!
それに、今そんなことをされたら、殿下の舌まで噛み切ってしまいます!」
ぺたん、とクッションに沈みながら、空を舞う馬車の揺れに身を委ねる。
ペガサスの翼が羽ばたくたび、ふわふわと上下に跳ねる浮遊感……。
まるで自分の身体が空に浮かんでしまいそうで、思わず空中で手を彷徨わせた。
殿下がそっとその手を握ろうとしたけれど、咄嗟に避けて、手すりをぎゅっと握る。
これ以上、殿下につかまってはいけないと、本能が告げたのだ。
「……少し、客車を改善した方がよろしいかもしれませんわ。」
雲ひとつない、透きとおるような青空。
けれどその美しさを見つめていられないほど、胸の奥がむかむかと騒ぎ始める。
ペガサスは非常に賢く、目的地までは自律飛行で進む。
つまり、御者は必要ない。
だから……この揺れを、誰も止めることができない。
「翼が羽ばたくたびに、客車が揺れている気がいたしますわ。」
「そのようだな。速さばかりを評価していたが……これは盲点だった。」
どうやらサフィール殿下は、乗り物酔いなど無縁の体質らしい。
「すぐに改善させよう。
魔術師団を呼んで、気流を吸収して揺れを軽減する方法を考えさせるよ。
……これからは、君の心地よさも、大事にしたいから。」
「……お願いします、心から。」
ゆらりと身体を預けるように、小さく吐息をこぼす。
薄く目を開けて窓の外を見やると、遥か下に小さく農民たちの姿が見えた。
畑仕事の手を止め、空の馬車に向かって手を振っている。
「リュミエール……」
胸の奥に、ほうっと灯がともるようだった。
見知らぬ庶民が、王家の乗り物に向かって笑顔で手を振ってくれる。
それは、この国が王家を信頼しているということ。
かつて当たり前に思っていたそんな光景が、今はとても温かく胸に染みた。
「帰ってきたのね。」
「ああ。君の国だ。」
「……はい、殿下。」
馬車がぐんと高度を下げ、王都の輪郭がくっきりと現れてくる。
淡い緑色の瓦屋根、優美な装飾が施された街灯、街路樹の陰を歩く人々。
中央には広々とした池のある公園。
その奥の丘の上には、白亜の王宮がまばゆい色硝子を輝かせていた。
「リュミエールの王宮……懐かしゅうございますわ。」
胸に手を添え、そっと呟く。
ああ……ようやく戻ってきた、この国に。
そして……早く、地面に降り立ちたい。
中庭では、整列した近衛騎士たちが馬車の到着を待っていた。
ペガサスたちは誇らしげに羽をたたみ、ついに馬車はふわりと緑の庭に着地する。
「お帰りなさいませ、殿下!」
先頭の騎士団長が、胸に手を当てて深々と頭を下げた。
その凛とした声に、少しだけ意識が戻る。
サフィール殿下が馬車を降り、騎士たちに答える。
「留守を任せてすまなかった。変わりはないか?」
「はい、殿下。王都は平穏でございます。」
わたくしに手を差し伸べる殿下。
けれど、もう空は飛んでいないはずなのに、身体がまだふわふわと揺れているような気がする。
あ………だめ、限界……。
でも、久しぶりの王宮で、こんな情けない姿を見せるなんて……。
唇を噛んで堪えていたそのとき、ふわりと身体が浮いた。
涙ぐんだわたくしを、殿下がひょいと抱き上げていたのだった。
「エルシィ。あと少しだけ、我慢して。」
耳元で、そっと囁かれる。
こくんと頷いて、その胸に身をゆだねた。
殿下の腕にいるというのに、ぐらぐらと揺れる感覚は収まらない。
ぼんやりと見下ろした庭には、背の高い、青々とした植物が繁茂していた。
まるで中庭が、密林のように変貌してしまったかのようだった。
その葉の形は、初めて見るような……どこかで見たことがあるような……。
けれど、それよりも……
……気持ち、悪い……。
「そちらの方は……もしかして…?」
騎士の問いを遮るように、サフィール殿下が静かに答える。
「俺の妃だ。空の旅に少々酔ったようでね。急ぎ休ませたい。」
殿下に抱えられて運ばれながら、わたくしはそっと目を閉じた。
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