第十六話 侯爵領の混乱
ディーザ侯爵領に住まう人々、ある者は驚きのあまり我を失い、ある者は恐慌状態に陥り、またある者は神に祈った。
希少な金属ハルミヤ鋼を産出するディーザ侯爵領。
そこに棲むドラゴンを見たことがある人間は少ない。
ディーザ侯爵家とハルミヤ鋼の採掘に関わる者たちだけだ。
御伽話でしか知らない存在。
それが今まさに大地を踏みしめ、木を薙ぎ倒しながら歩みを進めている。
全長はおよそ三十メートル。ドラゴンの中では大きな体躯。
頭部の立て髪からのぞく赤い角だけでも五メートルはあろうか。
その角が白く光り高熱を発していて、そのせいで周囲の景色が陽炎のように揺らめている。
晴天であったが徐々に灰色の雲が発生し、やがてそれは雷雲へと変わりつつある。
ドラゴンの進路上にある家屋は全て圧壊し、それを妨げるものはいない。
報せを受けてディーザ侯爵領軍が出動したものの、ドラゴンの角が発する高温に近寄ることすらできない。
矢を射かけても白く長い体毛に阻まれ効果なし。
兵士たちは住民の避難誘導に終始追われて、ドラゴンどころではなくなった。
「あれは人の手では止められん」
「領民の避難を急がせましょう」
青褪めた顔のディーザ侯爵と顔色が優れない妻。
王都に要請した騎士団派遣要請にしても、それはドラゴン鎮圧ではなく住民の避難のためのものである。
「王家所有の大型ゴーレムかルスタフ公爵家のレイテア嬢が完成させたというゴーレムでも無い限り……。しかしゴーレムの足でこの地に届くのは少なく見積もっても一週間はかかる」
遠い昔、この地に存在したディザ帝国。
その遺跡は王国内に点在していて、発掘された石碑や遺物ーーそれらは製造法や使用法すら不明なものも多いーーからも進んだ文明の痕跡が窺える。
強大で広大な領土を誇り、繁栄を極めた帝国の背後にはドラゴンの存在があったと伝えられ、その末裔にあたるディーザ侯爵家には代々伝わるドラゴンの書が秘匿されているのだ。
書にはドラゴンに関する様々な事柄が記されている。不老で永き時を生きる、遥か遠くを見通す、一瞬で遠く離れた地へ移動する、人の心を読み取るなど。
ディザ帝国の皇族にはドラゴンの能力がひとつ与えられていたとの記録もある。
にわかには信じられないが、大陸の半分を支配し高度な文面を築いていた理由として、ドラゴンの加護があったとすれば納得性が高くなろうというものだ。
ディーザ侯爵の執務室へ兵士が駆け込んできた。
「報告します! ドラゴン、あと二刻(二時間)ほどでここ領都へ到達する見込みです!」
「避難の進捗は?」
「はっ! 領軍並びに騎士団の先導により、進路上に当たる地域はほぼ完了。領都住民は全て郊外の丘へ避難中です」
「ルスタフ領にも早馬を出しているな?」
「はっ! 支援要請を出しております」
「ご苦労。引き続き任務に励んでくれ」
「はっ!」
ディーザ侯爵領の中心地、領都からは避難する住民が長蛇の列をなしていた。幸いパニックは起きていない。
「空を見ろ」
「雷が近づいてくる……」
「ドラゴンか」
「人を食べるって聞いたが」
「俺は空を飛ぶと聞いたぞ」
「そんな」
「領軍は全く歯が立たなかったらしい」
「勇猛を誇るディーザ侯爵軍が?」
「だから俺たちは避難してるじゃないか」
一人の男が遠くを指さす。
「あっ、あれがドラゴンじゃないか!?」
遥か遠くの山裾に光る白いモノ。
「思ったよりゆっくりだな」
「ああ」
「兵士の誘導に落ち着いて従ってくれ!」
「兵隊さん、わしらは大丈夫なのかい」
「大丈夫だ! ディーザ侯爵軍が諸君らを守るから!」
数秒後。
避難していた人々、そして侯爵軍の兵士たちは目を見張る。
ドラゴンが空へと舞い上がり、雷を纏いながらこちらに来るのが見えたから。