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帝都の復讐姫は作家先生に殺されたい 浅草十三怪談  作者: 遊森謡子
第一幕 浅草十二階下の迷い人
3/19

(2)復讐の理由

 月日は流れ、河原では涼しい秋の風がススキを揺らすようになった。


 その日、悧月は新しい本を手に、十二階下にやってきた。夕暮れ時になって空は曇り、どんよりとしていたが、あちこちに灯りが点って私娼窟は目覚め始めている。

 憑捜がいないのを確認してから、彼は花墨の家の引き戸をからりと開けた。

「花墨ちゃん、失礼するよ」

 奥の衝立の陰から、花墨が顔を出した。

「お兄さん」

「新しい本を持ってきたよ。あれ、子どもらは?」

「今はちょうどみんな、それぞれねえさんたちのところに行ってる。そろそろねえさんたちが連れてくると思うけど」

「そうか。ん、新聞を読んでいたの?」

 草履を脱いで上がった悧月は、ちゃぶ台の上に広げられた新聞に目を留めた。

「そう。ねえさんのお客さんが持ってきたやつをもらったの。……憑き病でまた人死にが出たんだね」

 花墨の視線の先には、死亡記事が載っている。

「ああ……実はこれ、僕の知ってる人の家で起きた事件なんだ」

「え、そうなの?」

「高等学校の級友の家でね」

 彼は顔をしかめる。

「家族に憑き病患者が出て、発症して。彼も巻き込まれて亡くなった。それほど親しかったわけではないけど、あまりに残念だ」

「……」

「実はこの本も彼に貸していて、ご遺族が返してくれたんだけど……」

 迷いつつも、悧月は鞄から本を取り出してみせる。

「君が読みたがっていた本だったから持ってきたけど、もし嫌じゃなかったら」

「うん、ありがとう。読むわ」

 花墨が受け取ろうとした、その時。


『さわっては、いかんぞよ』


 突然、あどけない子どもの声がした。

「? 花墨ちゃん、何か言っ……」

 顔を上げた悧月は、ぞくりとした。


 花墨の肩口から、ぬ、と白い顔の上半分が覗いている。

 三、四歳くらいの、幼い女の子だ。その目は黒々としていて白目がほとんどなく、そして髪は真っ白だった。


 悧月が口をパクパクさせながら指さすと、花墨はハッと振り向く。

「あっ……ちょ、『星見』、出てきちゃだめ」

 女の子は犬歯の目立つ口をもう一度開いた。

『そのごほんは、あぶない』

「き、君は……?」

 悧月が聞こうとした時だった。


 本が、びりり、と震えた。

 そして、ゆらりと浮き上がったのだ。


 一回り大きくなったように見えるその本は、上下に、まるで野犬の顎のように荒々しく開いた。ぐわっ、と牙が生えて花墨に襲いかかる。

「危ない!」

 悧月はとっさに花墨を引っ張り、胸に抱き込みながら転がった。本はちゃぶ台に突っ込む。バキバキッ、と音がして、ちゃぶ台は真っ二つにへし折れた。

 本はすぐにまた浮いて、二人の方へ向き直る。

『ちよみひめさまに もらったちからだ われはつよい われはつよい!』

 ひび割れた笑い声が、げらげらと響いた。

「ほ、本の物の怪!?」

 悧月は声を上げる。


『星見』と呼ばれた女の子は、すっ、と花墨の横にやってきた。そして。

 突然、輪郭がぼやけて青い人魂になったかと思うと、花墨の胸のあたりに吸い込まれた。

 ふらり、と花墨が立ち上がる。

 その姿がどういうわけか、先ほどとは少し変わっていた。肩下までの髪はまっすぐに切り揃えられ、古風な白い着物を身にまとっている。白髪なのを除けば、まるで日本人形のようだ。


(何だ……? まるで、星見という子が花墨ちゃんの身体を借りたかのような……)

 本が、花墨を見た、ように感じた。

 不意にびくりと跳ね、ほんの少し下がる。

『お……おお……まさかおまえは』

『ははうえさまのちからで、かすみをいじめる子には、おしおきじゃ』

 花墨の口から、舌ったらずな幼い声が響いた。


 彼女の身体が一瞬、青く光ったかと思うと、右手がビキビキと音を立てて大きくなった。血管が浮かび上がり、爪が鋭く伸びる。

 ブン、とその手が一閃されると、本は弾き飛ばされて家の戸に激突した。さらにもう一度、手が横薙ぎに振られ、戸は本もろとも外向きに吹っ飛ぶ。道にちょうど人がいたのか、うわあっ、と誰かが叫ぶ声が聞こえた。


 恐る恐る、悧月が立ち上がって見ると、ゆっくりと花墨は草履をはき、本を追って戸口から出て行く。

 倒れた戸の上で、半ば引き裂かれた本がブルブルと震えていた。

『そこなもののけ。ははうえさまのちからは、おぬしにはすぎたちからじゃ。ほしみに返してもらうぞよ』

 鬼のようになった右手を、花墨は本の上にバンと叩きつけた。

 ぎゃあああ、という断末魔の叫び声とともに、鬼の手の下で本が跳ね、青く光る。

 やがて、ふっ、と本は動かなくなった。


 しん、と家は静かになる。いつの間にか降り始めた雨が、パタパタと音を立てるのが聞こえた。

 急に、花墨はパッと立ち上がるとあどけない笑みを浮かべ、その場でくるりと回転した。白い着物の袖が翻る。

『かすみ。ほしみは、わるい子におしおきをしたぞ。えらいか?』

 すると、不意にその表情から幼さが消えた。『花墨の』表情に戻る。

 彼女は小さくため息をついてから、花墨の声で言った。

「星見、守ってくれてありがとう。もう大丈夫だから」

 不意に花墨の姿がブレた、と思うと、彼女の身体からじわりとにじみ出るように星見が現れた。彼女は嬉しそうに犬歯を見せて笑い、花墨の身体にまとわりついたかと思うと、スッと消えた。


 いつの間にか、白いおさげ頭に戻った花墨の目が、悧月を捉える。

「お兄さん、大丈夫?」

「! 花墨ちゃん」

 悧月も草履をつっかけて彼女に駆け寄ろうとした時。

 家の前の路地から、重い足音がした。

 足早にやって来たのは、青い制服。短髪に鋭い目、がっしりした身体つきの、若い憑捜局員だ。

「そこの子ども。白い髪のお前だ。ちょっと話を聞きたい、来なさい」

「お兄さん、こっち!」

 花墨はいきなり悧月の手をつかむと、家の裏手に回るように駆けだした。植え込みの間を突っ切って、裏路地に飛び出す。

「あっ、待て! おい、応援頼む! 白い髪の少女だ!」

 憑捜局員が応援を呼ぶ声がしたが、花墨はすぐ向かいの板塀の板を外して飛び込んだ。悧月が続くと、即座に板を元に戻す。きっちりとは戻らなかったが、ただの古びて歪んだ塀には見えるだろう。

 そのままふたりは音を立てないようにして、いくつかの抜け穴を通り抜けていった。


 すっかり暗くなるころ、ようやくあたりは静かになり、しとしとと雨の音だけが聞こえていた。

 とある家の裏庭、軒下に身を潜めていた二人は、顔を見合わせる。

「……ごめん、お兄さん。とっさに連れてきちゃった」

「何を言ってるんだ、君一人で逃げたら追いかけてたよ。手を見せて」

 サッ、とためらいなく、悧月が花墨の右手をとった。

 一瞬、びくり、とした花墨だけれど、すぐに力を抜いて手を預ける。

「元通りの、花墨ちゃんの手だ。よかった。あの本を持ち込んでごめん、僕が悪かった。何かの物の怪だったんだね」

「憑き病の人の家に置いてあった本なんでしょう? 古い本は、長い時の間に何かの妖気を帯びてることがあるんだって。それが、憑き病患者の影響を受けて物の怪になって、暴れたんだと思う」

「ああ……憑き病になった人の周りには怪異が出る、と言うけど、そういうことか。人もモノも、患者の強い妖気を吸って変化してしまうんだな」

「たぶんね」

 話をする間、悧月はずっと、花墨の手を握っている。

(さっきまで、あんな化け物みたいな手だったのに)

 自分を厭わない彼に、花墨が少し嬉しさを感じていると、悧月はためらいがちに尋ねて来る。

「花墨ちゃん、その……さっきの女の子は? 幽霊……?」

「そう。星見っていう名前の、女の子の幽霊。私にとり憑いてるの。嘘をついて、ごめんなさい」

「嘘って……ああ、憑き病にかかってないって言ったこと? それは本当じゃないか、だって憑き病とは違うんだろ?」

「うん。普段は私の中で眠ってるんだけど、私に危険が迫ると目覚めて、私を乗っ取って操ってしまうの。そういえばお兄さん、星見のこと見えてたね。見えない人の方が多いみたいなんだけど」

「見える程度の霊感は、まあ、あるらしい。だから、見たものをネタに怪奇小説を書きたいって思ったわけで」

「だから作家になりたいの? そういうの、『安直』っていうんだっけ」

「手厳しいっ。いやまあ、あとは……作家として新しい名前を自分につけたかった、っていうのもあるけど」

 肩をすくめてから、悧月は続ける。

「にしても、どうして幽霊に憑かれるようなことに?」

 花墨は目を逸らした。

「知らない。わからない」

 悧月は、そんな花墨の様子にもの言いたげだったが、別の質問をした。

「……本が、何だか怯えてたよね。あと、母上さま? とか何とか。あれは何だろう」

「母上さまはよくわからないけど、本が怯えてたのは、星見がすごく強いからだと思う。とり憑いてる私の身体を、変化させてしまうくらいに」

 そしてそっと、悧月の手から自分の手を抜いて、自分の背に隠した。

「最初に憑かれた時は、髪が白くなっただけだった。でも、何度か身体を操られているうちに、さっきみたいに手が変化してきた。いつか、完全に乗っ取られる日が来るかもしれない」

「まずいじゃないか、早く解呪しないと!」

「解呪?」

「お祓いとか、何でもいい。憑捜じゃない人でそういうのができる人がいるはずだ、探すのを手伝うよ」

 悧月は勢い込んだが、花墨は即座に首を横に振った。

「だめ。解呪はしない」

「どうして!?」

 すると、花墨の目に、強い光が宿った。


「復讐したい人がいるから。その時に、星見の力を借りたいの」


「復讐……? どうして? 相手は誰?」

 その質問にも、花墨は答えなかった。ただ目を逸らす。

「怪奇小説のネタには十分じゃない? お兄さん、もう十二階下には来ないで。私が捕まった時、うちにしょっちゅう来てたことがバレたら、お兄さんもまずいことになるかもしれないでしょ」

「そのくらい、どうとでもなる。僕に手伝えることがあれば」

 言い募る悧月を遮ろうとした花墨だったが、思い直して言う。

「じゃあ、一つお願いがあります」

「何でも言って!」

「手ぬぐいか何か、持ってない? 私、頭を隠さないと」

「あっ、本当だ! ごめん、気が利かなくて」

 急いで懐から手ぬぐいを取り出した悧白が、花墨の頭に被せた。整えてはみたものの、髪が多少はみ出してしまう。夜なので、大して目立たないとは思うのだが。

(何だか、ほっとする匂いがする。お兄さんの匂いかな)

 ふと、目元が熱くなった。

 ぐっと堪え、花墨は立ち上がった。悧月を見下ろす。

「ありがとう。私、十二階下をいったん離れるね。憑捜があきらめるまで」

「えっ? どこへ?」

「ちょっと当てがあるんだ」

「本当? 嘘だよね? だめだ、それなら僕のところに」

「何言ってるの? 親戚の家に居候してるくせに」

 ばっさりと花墨は却下し、まるで年上のように彼に言い聞かせた。

「当てがあるのは本当だから、心配しないで。お兄さんは帰って」

「花墨ちゃん……じゃあ」

 悧月は早口で、住所を言った。

「僕はそこに住んでる。何かあったら、必ず頼って」

「わかった。……色々、ありがとう」

 花墨はにっこりと微笑んだ。悧月が初めて見る彼女の笑顔は、暗い中で白い花が咲くような、可憐な笑顔だった。


 彼の横をすり抜けた花墨は、家を回り込んで――

 ――雨と闇に紛れ、あっけなく、姿を消した。


 花墨は、足を止めずに歩いていく。

 雨でぬかるんだ地面から草履が離れるたび、ずちゃ、ずちゃ、と塗れた音がする。

(この音、嫌い。あの日を思い出すから)


 脳裏に、赤い光景がよみがえった。

 ずちゃ、ずちゃ、という濡れた音とともに、心を凍り付かせるような声が聞こえる。

『どこ。あいつはどこ。どこなのぉぉぉ』

 ずちゃ、ずちゃ。

 それは、廊下から畳の部屋へと入る。古めかしいが豪華な袿の裾がずるずると引きずられた後に、真っ赤な血の軌跡が残る。

『……いた』

 にやり、と笑った顔は白く、唇は赤い。

「ひっ」

 部屋の奥に追いつめられているのは、和服に割烹着姿の母だ。真っ青な顔でガタガタと震えている。

 花墨は部屋の対角、女からは死角になるふすまの陰にへたり込み、呆然としていた。

『あいつの匂いがする。お前には、あいつの匂いが染み着いている』

 袿の女は、母に手を伸ばす。

『絶望を味わうがよい』

 すっ、と女の姿が薄くなり、母に重なった。

 すると、母の顔から恐怖が、表情が消えた。

「……かあさ」

 花墨が言いかけた時、廊下から荒い足音がして父が駆け込んできた。父もまた、死角にいる花墨に気づかないまま、母に駆け寄る。

「りえ! 大丈夫か!? 何だ、この気配は……何があった!?」

 母はぼんやりと父を見上げ、そして口を開く。

『おや……お前は私の菊を世話してくれた男だねぇ……』

 父は目を見張った。

「菊……? お前、りえではないな!?」

『そうじゃ。私は千代見』

「千代見……?」

『お前は、この女の夫なのだな』

 母は、にまりと笑った。

『ならば、共に死ね』

 どしゅっ、と分厚いものを貫く音。

 父の背中から、何かとがったものが突き出している。

「……がっ……」

 父の身体が硬直し、やがてがくっと膝をついて、横倒しになった。

 立ち上がった母は、返り血で真っ赤に染まっている。右手が異様に節くれだっていて、刀のように伸びた爪を、父の胸から引き抜いた。

(……かあさまが……とうさまを)

 母が――母に取り憑いた怨霊が、ぎろ、と目を剝いて花墨の方を見る。

『おや……可愛……だね。子ども……好き。でも……』

 頭がガンガンして、耳が用を成さない。聞き取れる言葉は、途切れ途切れだ。

『お前も……だから。一緒に……』

 身体を不自然に左右に揺らし、そばにあった化粧台を倒しながら、母が近づいてくる。両親の血に塗れた爪が、今度は自分に向かって振り上げられたが、花墨は動けない。

 その時、花墨は見た。

 怨霊に取り憑かれた母のそばに、幼い女の子が立っている。肩下までの白い髪、白い着物。身体が半分透けていて、やはり人間ではないようだ。

 そして花墨は、その子に見覚えがあった。

 以前、一緒に遊んだことがある。

「……星見?」

 ぽつりと、口から名前が転がり出た。

 呼んでしまった。

 女の子の黒々とした瞳が、花墨を見る。そして、にま、と笑うと、スッと一瞬で近づいてきた。

 腰のあたりに抱きつかれたような感覚。何かが触れ、花墨の中にとけ込んでいく。頭の中が、じん、と熱くなる。

 口が勝手に動いた。

「ははうえさま このこは、ころさないでおくれ」

 自分の口が発した言葉は、はっきりと自覚できた。

『星見!』

 怨霊が、手を止めた。不意に口調が和らぐ。

『何をしているの……? もどっておいでぇ……』

「だめじゃ だってこのこは」

 勝手に、唇が、弧を描く。

「ほしみのものじゃから」

 花墨の顔は、にっこりと微笑みを形作った。

(いやだ、やめて。笑いたくない。母様、父様……!)

 気が遠くなっていく。

 ふと、母の目から狂気が抜けたような気がした。

『花墨、と申したか。我が娘、そなたに預けるぞ』

 母は、長く伸びた爪を、自分の首に向ける。

 爪が首に突きたつのと同時に、母の身体から女が抜け出し、消えていくのが見えた。


 ようやく意識を取り戻した時、花墨は凄惨に血が飛び散った部屋の中で、呆然と座り込んでいた。ゆっくりと視線を巡らせると、父も母も事切れている。

 すぐそばに、化粧台が横倒しになっていた。何も考えずにそちらを見た花墨は、鏡に映る自分を見て、小さく首を傾げた。

「……これ……私?」

 彼女の髪は、真っ白になっていた。


 それからの花墨の記憶は、夢の中のように曖昧だ。

 ふらふらと外にさまよい出て、親戚の家に転がり込んだらしいが、なぜかしばらくの間、一室に閉じ込められていた。今ならわかるけれど、花墨の髪が白いのを見て親戚は憑き病を疑い、近所に悪評が立つのを恐れたのだ。

 その間に憑捜の捜査が入り、花墨の母が憑き病に侵されて父を殺して自害、娘の花墨は行方不明ということになったらしい。

 それを聞いても、花墨は特に何も思わなかった。あれから涙の一粒も出ない。感情が麻痺してしまったかのように。

 しばらくして、花墨は親戚や使用人たちがひそひそと話すのを聞いた。

『あれ以来、ご近所で幽霊や妖怪が出るって』

『憑き病の患者が呼び寄せる……って噂だよ』

『もしかして、花墨が原因なんじゃ……』

 ある日、親戚の一人が、花墨の髪を黒く染めてくれた。

『白いままじゃ、外にも出られないでしょう』

 と言って。

 しかし直後、彼女は知らない男に引き渡された。人買いに売られたのだ。


(染め方なんてわからなかったから、吉原に行ってすぐに色が落ちて、バレて……そして、十二階下へ。でも、もうここにもいられない)

 花墨は、雨の中を歩いていく。

(怪異が、そして憑捜がいる十二階下なら、何か手がかりがつかめると思っていたのに……あの怨霊、星見の『母上』。いつか必ず、復讐してやる。両親を殺された私が、お前の娘の力を使ってお前を殺す。思い知るがいい!)


 そうして、花墨は姿を消した。

 悧月は私娼たちに彼女の行き先を聞いたが、誰にも何も言わないまま行ったようだ。

「仕方ないよ、あの子も訳ありみたいだったからね。今まであたしらの子の面倒見てくれて十分助かった、こっちは何とかするから花墨も無事でいてほしいね」

 私娼たちも生きていくのに精一杯で、花墨を探す余裕などない。

 一方で、悧月は何ヶ月も花墨を探し回った。戸口の壊れたあの家に泊まり込んで待ってみたこともあるが、彼女は帰ってこない。読み込んだ跡のある教科書だけが、寂しく置き去られている。

 花墨を別の私娼街で見かけたとか、下町で住み込みで働いているらしいとか、噂を聞いては確かめにいった悧月だったが、結局、会えなかった。


◆   ◆   ◆


 翌年、第一次世界大戦が始まった。

 戦争中に悧月は二十歳になり、徴兵されて帝都を離れた。

 そんな中、大正五(1916)年、警視庁は大規模な私娼撲滅運動を行った。特に十二階下は、多すぎる私娼たちの情念が怪異を引き寄せてしまうため、憑捜も協力して大勢の私娼たちを検挙した。

 彼女たちは、運良く他の仕事に就けた者を除いて、再び客を取るために、帝都の他の暗がりへと散っていった。

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