(3)受け継がれたもの、受け継がれなかったもの
夜空は曇り、星も月も見えない。
暗闇の満ちる道を、悧月と柊士郎はタクシーで虎ノ門に向かっていた。
「剣、今のうちにわかったことを聞かせてくれ」
悧月の質問に、柊士郎が口を開く。
「憑捜の権限で、雛菊神社についてあちこち資料を出させて調べた。千代見姫は皇族の血を引く、平安の世の姫君だった」
千代見姫は美しく高貴な姫で、当時の東宮の妃となって寵愛を受け、幸せに暮らしていた。ところが、東宮が呪詛される事件が起こり、犯人は千代見姫だと告発される。
千代見姫は身に覚えがないと訴えたが、『やっていない証拠』など出せようはずもない。姫はすでに身ごもっていたにもかかわらず、怒った東宮の訴えで帝によって武蔵国に配流され、幽閉された。
「その呪詛の犯人が、高鳥家の先祖である陰陽師らしい。有力貴族におもねるために、忖度して勝手に千代見姫に罪を着せたんだ」
姫の幽閉生活は、日々の食べ物にも苦労するような、ひどいものだったらしい。
月満ちて、姫は産気づいた。
当時は出産といえば、経験のある女性が手助けをしたものだ。ましてや高貴な姫なら何人もの女性がそばにつき、僧たちの祈りの中で産んだものだが、幽閉されている姫には下女一人くらいしか頼れる者もいない。
苦しみ抜いた末、姫は女児を産み落とした。しかし、その女児はひと声、ふた声泣いただけで、動かなくなった。
姫は娘の亡骸を抱き、弱った身体で文机まで行くと、遺言を書き残した。
『朝に生まれ、夜も見ずに亡くなった我が子を「星見」と名づける。高鳥の陰陽師、末代まで、夜の眠りに安寧はないと思え』
そして、彼女自身も力尽きたという。
「東宮は早死にし、千代見姫の祟りだと噂された。それで、姫と姫の子を鎮めるために建てられたのが、雛菊神社だ。しかし姫の怒りがすさまじかったのか、結局高鳥家の何人かは変死しているし、神社も何度も火災で焼失しては立て直された」
高鳥家は姫の怨霊を鎮めるため、様々な術を試みたらしい。それでひとまずは、死と不幸の連鎖はおさまった。
「そこへ、改暦か」
悧月がつぶやく。
「雛菊神社の儀式が忘れ去られた一因は、おそらく、ごく少ない人数で儀式を行っていたせいじゃないかと思う。お上にまで影響したかもしれない怨霊を、高鳥家は生み出してしまったんだから、ごく一部の者以外には秘密にするはずだ。改暦の混乱で秘密が受け継がれなかったんだろう」
「なるほどな。……儀式は途切れ、千代見姫は明治の世に目覚めてしまった」
柊士郎は続ける。
「そしてちらほら、憑き病患者が現れ始めた頃……明治の世の半ばに、高鳥秀一の祖父・昌家が変死している。しめ縄を張り巡らし、奇妙な祭具が並んだ部屋で死んでいたらしい」
「結界を張っていたが、姫に突破されて殺された、というところか」
「その直後ぐらいだな。女性が身内を皆殺しにした、最初の事件が起きたのは」
「……?」
悧月は腕組みをしてつぶやく。
「じゃあ、もしかしてその時に……」
「作家先生、そろそろじゃないか」
柊士郎が窓の外に目を向ける。
タクシーは、華族の屋敷街に入っていた。
ぱっ、と悧月は顔を上げる。
「運転手さん、ここで下ろしてください」
はい、と運転手が車を止め、悧月と柊士郎は暗い通りに降り立った。走り去る車の音を背に、高鳥家の近くまで走る。
立派な門構えは、まるでそれだけで一軒の家のようだ。正面まで来ると、悧月はすぐに柊士郎に言った。
「剣、ほら、呼び鈴を鳴らせ。『憑捜ですが大丈夫ですか』って入るんだろう」
「もう!? 様子を窺うとかナシでか!?」
「様子はもう、おかしい」
悧月が門をにらみ、柊士郎もつられて門を見つめた。彼もまた霊感持ちだ。
「……本当だ。この家の中の一か所に、何か異様なものがある」
(いや、それだけじゃない)
悧月の額に、汗がにじむ。
(この家、元々、何かおかしいぞ)
彼は夜空を見上げた。
帝都の空は曇っている。しかし、高鳥家の空を覆っているのは、雲だけではない。
無数の『何か』の気配が、高鳥家を見つめていた。
『昌家……あやつ、よくも、よくも』
座敷牢の中、ぎしっ、と姫の両手を捕えた鎖が鳴る。
千代見姫の恨みが、重さを感じるほど、あたりに充満していた。
きちんとした会話にはならなかったものの、姫の語りを聞いていた花墨はかろうじて理解していた。ずっと前のことだが、高鳥秀一の祖父にあたる『昌家』という人物を、姫は襲ったのだ。恨みを晴らすために。
『あやつの目の前で、あやつの妻に取り憑き、あやつの子を殺してやろうと思うた。我と同じ苦しみを味わわせてやろうと思うたのに』
「罠だった……ということ?」
格子を握りしめながら花墨が尋ねると、姫は聞いているのかいないのか、すすり泣くような声で続ける。
『昌家は、自らを囮にして我をおびき寄せたのだと勝ち誇った。自らの死と引き換えに我を……我を』
(再び、千代見姫を封印して鎮めようとした? それでこの屋敷に雛菊神社を移して霊を慰めようと……ううん、でも姫はこんな状態だわ。敬意をもって鎮めてるとは思えない。抑えつけるために神社を……)
『ふふ……ふふ』
不意に、姫の口から笑い声が漏れる。
『それからは、たくさん殺したぞ。何かに呼ばれ、目が覚めると、高鳥の匂いがする。我はそこへ飛んで行って、高鳥の匂いのするやつと、その身内のものをみんな、殺すのじゃ』
花墨は息を呑んだ。
(高鳥家はその時から、髪を使って姫を支配し始めたんだ! 髪は、死んだ昌家翁のものかも。今の話だと、陰陽師の力を持っていたのは明らかだもの、きっと髪は赤かったはず)
『高鳥の匂いのやつを殺したら、一時は楽になれる。でも、すぐ、ここに引き戻される。気づくとまた高鳥の匂い……ああ……苦しい……』
姫は呻いている。
『星見は……可愛い星見だけは……おお……』
星見が、『ほしみはくるしい。ははうえさまは、もっとくるしい』と言っていたのを思い出す。
「あなたは、星見だけは逃がそうとしたのね?」
花墨は語りかけたが、姫は恨みの中に沈んでいるのか、唸り声を出すばかりだ。
そこへ、足音がした。
「おや、星見の話をしていたんですか」
男の声。
通路の角を曲がって現れたのは、相変わらず紳士的ないでたちをした、髭の男だった。
「高鳥……秀一」
「いらっしゃいませ、お客様。店だけでなく、この家にまでおいでいただけるとは」
花墨と千代見姫の間に立った彼は、百貨店で会った時と同じように、上に立つ者の笑みで座敷牢の中を見下ろした。
「しかも、迷子まで連れ帰って下さいましたか。探していたんですよ」
「な……」
花墨は思わず、目の前の男と、奥にいる千代見姫を見比べた。
千代見姫は、憎むべき陰陽師の子孫が目の前にいるにもかかわらず、半ばうつむいてうわごとのように何かつぶやいている。
(見えてない……?)
再び、高鳥が口を開いた。
「しかしまさか、星見が人間に取り憑いていたとは。髪を確かめた時は驚いたな」
はっ、と花墨は自分の髪に触れる。
(濡れてる)
もう乾きかけていたし、鏡がないので自分では気がつかなかったが、おそらく気絶している間に染料を落とされたのだ。花墨は今、白い髪を高鳥の目の前に晒していた。
「君の中にいるなら、それでいい。憑かれていることをずっと隠すのは大変だったでしょう? ここにもきっと、誰にも言わずに来たのだろうね」
高鳥は、笑みを深くする。
花墨は聞かずにいられなかった。
「あなたが姫に、私の両親を殺させたの? なぜ!?」
「なぜ……そうですね、時庭家はわけがわからなかったでしょうね。少し気の毒でした」
うんうん、と彼はうなずく。
「姫にはたまに恨みを発散してもらわないと、今の高鳥家では抑えきれないんですよ」
「発散……?」
「ええ。いつもなら、高鳥屋の邪魔になる家を襲わせて有効活用しているんですが、幸いあの頃、家業は安泰でしてね。それで、ちょうど我が家の庭を手入れしに来てくださった植木屋さんに、『奥様にどうぞ』とショールをお渡ししたような次第で。仕込める髪にも、術の力にも限りがあるので、こちらも姫に襲わせるのは最小限にしたいところなんですが、仕方ない」
父は、この屋敷を仕事で訪れたことがあったのだ。たまたま訪れただけ、そのために、時庭家は標的になってしまった。
「そんな……そんなことで!」
花墨は叫ぶ。
「抑えきれないのは自分たちのせいでしょう! 千代見姫はあなたの先祖にひどい目に遭わされて、数百年に渡って恨み続けているのに、まだ……!」
「いやいや、せっかく我が家に神社を移したんだから、有効に使わないと『祀り損』でしょう? 私は損するのは嫌いなんです」
「商売やってるうちに、損得でしか物事を考えられなくなったの!?」
「褒め言葉と受け取っておきますよ」
絶望する花墨に、高鳥のゆったりとした声が降ってくる。
「あまり恨まないで下さい、星見が立派な怨霊に育ってしまう。星見まで発散させなくてはならないとなると大変ですからね。さてお客様、どうぞごゆるりとお過ごしください。いや、もう『お客様』ではないか……これからはここで暮らすのだから」
踵を返す彼の背を、花墨は血がにじむほど唇を噛み締め、にらみつける。
(悔しい。恨めしい。でも落ち着かないと、星見が)
星見を利用する一方で、花墨は星見と自分の境遇を重ねている。
ほんの一時しか生きられず、怨霊の母とともに霊になって長い時を過ごしてきた彼女が、高鳥のせいでさらに不幸なことになるのはあまりに可哀想だ、という気持ちが、花墨をかろうじて冷静に保った。
(私の復讐相手は、姫じゃない、高鳥だ。あいつを何とかしなくちゃ。せめて髪の毛だけでも処分できれば……髪の毛?)
立ち去っていく高鳥の髪は、黒い。それにさっき、仕込める髪に限りがあると言った。それは死者の髪しか残っていないからだ。
(高鳥は……赤い髪じゃないんだ。染めてもいない。彼には、陰陽師の力は受け継がれなかった!)
座敷牢には様々な封印が施されているが、その中に新しい呪符などは見当たらない。高鳥の祖父は囮になって死んでいるので、この封印を施したのは高鳥の父だろうか。
(紳士録で見たわ、高鳥の父親もすでに死んでいる。髪に限りがあるっていうのはそういうこと。ここから出られさえすれば、力を持たない高鳥と、刺し違えることくらいはできるはず)
「ああ……しまった」
ふと、高鳥が振り返る。
「失言してしまった。そう、僕は陰陽師の力は持っていないんですよ」
「…………」
「でも父は亡くなる前に、父の力を込めた様々なまじないを遺してくれましてね。僕にも守護のまじないがかかっているので千代見姫からは見えないし、殺そうとしても無駄ですよ」
「くっ……!」
はは、と高鳥が笑った時、別の声が入ってきた。
「ああ、高鳥家の術は弱ってるのか。よかった」
着物の中にスタンドカラーのシャツを着た、長髪の若い男がいる。
作家の鏡宮悧月で、陰陽師の家出身の、薬師寺律基である男だった。
明日、第六幕(4)と終幕を同時投稿します。