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Babbage´s future score~烟る双子~

作者: 葛猫サユ


     1


 その日の私は、燭台の上で揺れる蝋燭の火のような気持ちで、父の秘密の部屋に閉じ籠っていた。

 理由はとても明白で、ダニエラに習慣である礼拝をサボろうと提案したのに、断って行ってしまったせいだ。その時、聞き分けのないダニエラの言い分についカッとなって怒鳴ってしまった自己嫌悪を、この暗い部屋に持ち込んでいたのを覚えている。

 この秘密の部屋を見つけたのは、一ヵ月くらい前だった。まだ九歳の自分には広すぎる屋敷の中を一人で探検していた時に、偶然この部屋を見つけた。なぜ『父の秘密の部屋』と称していたのかというと、ここへは父の書斎から入ることができたこと、この部屋に鎮座されていた解析機関の名前に父の名が彫られていたからだ。

 そこは地下なだけあって窓もなく、部屋の四隅を照らすガス灯の淡い光だけが照らす薄暗い空間だった。解析機関の稼働する歯車の音が獣の威嚇にも聞こえて、最初は怖気づいていたが、目と耳が慣れてくると冒険小説の宝物庫みたいな雰囲気がお気に入りになった。ダニエラにも教えようと思っていたが、大人たちにも言いふらしてしまいそうで、黙っていることにした。

 姉のダニエラは、私とそっくりな顔なのに真面目でおとなしくて、いつも双子の妹である私についてくるような気弱な子だった。しかし大人たちを前にすると堂々と丁寧な物腰で接していて、私と比べて明らかに大人たちからの人気が高い。そんなところが、妙に癪に触ってしまう子だった。


 神様なんていないよ、蒸気文明……カルボウ・ギアができたときに死んじゃったって聞いたもん。それなのにわざわざ町はずれの教会まで歩いて行って、何に祈るの?

 そんなことないよ。いつの時代も人間には神様がいるって、お父様が言ってたよ。それにお父様は人の流れを見るのは世間を知る上でとても大切なことなんだからって、私たちに勉強させてるんだよ。将来、お父様の仕事を手伝うために必要なことなんだよ、エル。

 お父様、お父様って、碌に家へ帰ってこないあいつがそんなにいいの? 私たちはあいつの奴隷じゃないのよ?

 いい悪いじゃないよ。私たちは大人になる前に、いろんなことを知らなきゃいけないんだから。

 何のために?

 何って……。

 どうせお父様のためにでしょ。なによ、うけがいいからっていい子ぶって……もういい! 行きたいなら一人で行って! 私は行かないから!


 礼拝へ行こうとするダニエラとの会話を思い出して、胸が詰まりそうになりながら、私は壁に掛けられているパンチカードのカーテンを観察していた。

 この壁画じみたパンチカードは、最初に秘密の部屋を見つけた時には既にあって、なんとなく父はこれを啓示のようにしているじゃないかと考えていた。機械技術がどんどん発展していて、信仰がどんどん廃れていく中でこんな古臭い考えを持っている父のやることだと思ったが、私が興味を持ったのはパンチカードの配列だった。

 当時の私は、この厚紙に穿たれた穴の配列に規則性を見つけ、それが何らかのメッセージであると気付いた。気になって一ヵ月調べてみると、パンチカードの配列に、未来の日付と何かの出来事があることを知って興奮を隠しきれなかった。

 そう、これは予言書の類だ。なぜパンチカードで出力されているのかはわからないが、それをオカルティズムに傾倒する父が壁に飾っているという事実は信憑性を上げてくれた。その時はこれを信じて飾っている父に対しする軽蔑よりも、好奇心が勝った。

 いったいこの壁画に、どこまで荒唐無稽な陰謀論が描かれているんだろう。

 読み解けたらこれでダニエラを驚かそうと心躍らせながら、私はパンチカードを読み上げた。

 宝箱を暴くような期待で満たされていた私の胸は、それが終わるころには空になっていた。

 バンッ、という大きな振り返ると、扉を開け放った父がそこにいた。仕立ての良いシャツとズボン。眼鏡をかけた瘦せた顔には驚くほど感情がないのに、肩は怒気を纏わせて持ち上がっているのが見て取れた。

 今までにない父の異様な態度に固まっている間、父は詰め寄って私の首に手を掛けた。

 仕事の関係で、滅多に家に帰ってこない父。それでも帰るたびに頭を撫でてくれた、大きく太い指。それが、私の喉元に食い込でいく。息ができなくなり、ヒュ、ヒュ、と空気が漏れる音を鳴らす私を、ギラついた父の瞳が貫いた。

 私は間違っていない、私は間違っていない。

 遠のく意識の中で、懺悔のような呟きがずっと繰り返されていた。


     ◆

 

 D(デスプエス).()V(ヴァーポル)=五十一年 四月七日 ヴァングラトリア首都 レンドロス

 

 夕方のガルドス駅に流れる人込みを見渡しながら、ダニエラ・ディアスは二つのトランクを持ち直して一号車から降り立つ。年相応の小柄な体格の半分近くを占めるトランクの重さに苦戦しながら、アーチ状に弧を描くガラス張りの屋根から差す夕焼けが照らす構内を歩いていると、背中合わせに二列置かれたベンチを見つけ、そこに座る男を睨みつける。

 長身をトレンチコートで覆ったその男は、口の端に煙草をくわえながら、雑誌のクロスワードパズルに注目していた。ダニエラは琥珀を宿した瞳を疎ましげに細めて少しだけ立ち往生するものの、大きく息を吐いた後に彼の後ろの席へとふてぶてしい態度で座る。

 

「レディと会う前に、堂々と煙草をふかしてるなんて、いい度胸ですわね」


 独り言を呟くような所在のない言葉に、男は同様に答えた。


「何がレディだ。社交界入り前のガキのくせしやがって」

「今夜が初デビューなんだし、少しの時間差くらい誤差よ」

「そっちのドレスだって、ジジィに全部任せとけば、こんな面倒掛けずに済んだっていうのに」

「これで高名なフェリペ伯爵のパーティに出るのよ、デザインくらいこっちで決める権利があるわ」


 そう言って、座ったままブラウスの襟とスカートの裾をつまみ皮肉げに頬を吊り上げると、トランクの一つを踵で蹴って男の足元へと寄越す。


【注釈】

 フェリペ・ガルドス伯爵は多くの炭鉱を持ち、鉄道会社を経営するヴァングラトリアの貴族。


「はっ、七年前ぐしゃぐしゃに泣いてやがったチビが言うようになったな」

「ええ、本当にお久しぶり。……あの子は?」

「会いたくないそうだ」


 ダニエラの肩がわずかに跳ねて、つままれたスカートが力なく落ちる。


「アーロン」

「勘違いすんなよ、あいつが言い出したことだ。合わせる顔もないんだと」


 アーロンと呼ばれた男は自身の脇に滑り込込まれたトランクの、隙間に挟まれた便箋を抜き取る。


「また余計な気遣いを」

「気遣い? 罪悪感の間違いだろ? 俺の下で七年働いて、あいつが心の底から笑ったことなんか一回もないぜ」


 一度視線を落とし、すぐに持ち直したダニエラに、アーロンは問う。


「俺にはわかんねぇんだがよ。あの時、お前らには何もかも忘れて逃げるって選択肢もあっただろ。それなのに、お前らはこうして馬鹿やろうとしてるのは、なんでだ?」


 問われたダニエラは顎を引いて思案する。やがて視線を上げて、はっきりと答える。


「『何故逃げないのか』って質問に対して『逃げたくない』っていう答え以外、必要かしら」

「……屁理屈女が」

「少なくとも、あなたがあのおじいさんに協力してるのも、同じ理由でしょ?」


 時間切れとばかりに柱の時計を確認した後、ダニエラは腰を上げて出口に向かう。

 途中でああ、そうだ、と思い出したように振り返る。


「そのパズル」

「あん?」

「一番からD.V、カルボウ・ギア、レンドロス、グルース・デル・レイ駅、女王アレハンドラ、ドクトル・バベッジ、ヴァシオ・リーフェル(真空式消音銃)アセシナント(惨殺鬼)・ジェイケル。

 全部合わせて、ヴァングラトリアよ」


 最後にそう言い残して、トランクを半ば引きずるように駅を出ると、ロータリーに停まっていたスチームモービルがダニエラの前まで移動する。


「ガルドス伯爵の使いの者です。ダニエラ・ディアス様、お屋敷までご送迎いたします」

「ありがとう。ああ、荷物は大丈夫です。自分でやりますから」


 強引にトランクを後部座席に突っ込んだダニエラはそのままの勢いでスチームモービルに乗り込んですぐ、カルボウ・ギアが励起する高音とともに車が発進する。運転手の冷や汗を一瞥した後でダニエラは、一息ついて窓の外の流れる景色を見やる。排気ガスと蒸気によって不明瞭で霞みがちな景色の中を歩く人々の中に、不安はないようにダニエラは思えた。


【注釈】

 D.V=五年。石炭の半恒常的エネルギー加工技術『カルボウ・ギア』の開発により、蒸気文明によって発達した人々の暮らしはより発展を遂げている。これにより急激に国力を増強させたヴァングラトリアは、D.V=五十一年現在、女王アレハンドラ統治のもとで世界最大級の国家となっている。


 ダニエラが景色の共に過ぎていく人々を観察しながら、スチームモービルは彼女を迷いなくガルドス邸へと運んでいく。


     2


 身の入らない礼拝を、結局途中でやめて帰ってきたその日のわたしは、悪いことを何もしていないのにとことん怒られた気分だった。理不尽さもあるけど、それはそれとしてとても沈み込んだ気持ち。今日エルヴィタと喧嘩したのが、わたしの中でかなり尾を引いているようだった。

 今まで、些細な言い合いは何度もある。そのたびに口の上手いエルヴィタにずっと言い負かされていたけど、今日みたいなことは初めてだった。


 お父様、お父様って、碌に家へ帰ってこないあいつがそんなにいいの? 私たちはあいつの奴隷じゃないのよ?


 普段からエルヴィタの考えは大人びていたけど、お父様のことをそこまで言うなんて思っていなかった。

 お父様はヴァングラトリアの通商関係を担当する議員で、様々な商会や流通を管理するために国内を散々駆け回っているせいで、家に帰るのは大分稀だった。

 けれど、三年前にお母さまが亡くなってからは、わたしたち双子とお父様の間に、約束が一個だけできた。

 毎週土曜日の前日には絶対帰ってきて、翌日は一日中わたしたちと遊ぶこと。

 これまで約束を破ったことはないけれど、つい先週どうしても外せない案件で週末を空けられなくなった。ダニエラはそれで拗ねていたんだろうと思っていたけれど、私が思っているよりもダニエラの考えは深かった。

 わたしは、お父様の言うことを聞いていればいいと思っていた。でも、それじゃあ立派にはなれないと、ダニエラからはっきりと言われたようだった。

 悩みながら屋敷に戻った私は、玄関前におもむろにスチームモービルが停まっていることに気付いて、それまでの気分が晴れやかになった。

 お父様が帰ってきた。わたしたちに、会いに来てくれたんだ。

 逸る気持ちに従うように玄関を開けてエントランスを抜けて階段を駆け上がる。きっとお父様は書斎にいる。入るときにはノックして、丁寧に入るよう心掛けなきゃと思いだけは残して、部屋の前まで一気に走る。

 ここで初めて、違和感を覚える。普段はしっかり閉められた書斎前の扉が、中途半端に開かれて部屋の中身を覗かせていたのだ。

 焦る気持ちに歯止めがかかると、急に頭が冷静になった。

 そういえば、いつも使用人たちが車庫に駐車しているスチームモービルが、なんで玄関の前で置き去りにされていたんだろう。

 今朝あんなことを言っておきながら、父へ真っ先に甘えたがるエルヴィタは……礼拝をサボって、屋敷にいるはずのエルヴィタはどこにいるんだろう。

 頭に浮かんだ疑問が払拭される前にわたしは、書斎に響くすすり泣きの声を聞いて、頭が真っ白になった。

 お父様が泣いている。

 恐る恐る隙間から中を見ると、机を祭壇に見立てているかのように、その前でうずくまっているお父様がいた。


 ダニエラ?


 気配に気づいたのか、お父様がこちらを振り返る。お父様は泣き腫らした瞳をこちらへ向けると、間髪入れずにわたしのことを抱きしめてきた。

 わたしのおなかが、ズシリと重くなっていくようだった。


 すまない、すまない。

 エルは悪魔だった。もう大丈夫だ。ロビーナのいる森に置いてきた、もう大丈夫だ。

 いや大丈夫じゃない。またわたしのせいで家族がまたいなくなってしまった。すまない、私のせいだ。

 いいや違う。違う。私じゃない、私のせいじゃない。こうしなければ私の家も家族も全部全部なくなってしまうからだから仕方ないことだったんだ。

 いつの時代にも、人間には神が必要なんだ。

 エルヴィタはもういない。お前しか、もういない。だから許してくれ。

 許してくれ。


 父のぬくもりから発したぞわぞわした寒気が、背中を駆け巡っていく。

 あんなに好きだったお父様の腕の感覚が、大蛇に締め上げられたような危機感を促す。

 あんなに好きだったお父様の優しい声が、耳に百足を入れられたような不快感を齎す。

 わたしは、ダニエラの心配よりも、父への懸念よりも先に、自分が言いようのないドス黒い沼に落とされてしまいそうな予感に恐怖した。

 そしてただただ臆病なまま、お父様の腕から抜け出し、屋敷を出て行った。


     ◆


 D.V=五十一年 四月七日 ヴァングラトリア首都 レンドロス


 ガルドス邸の客室の一つを更衣室にして、ダニエラは努めて自然な調子で、淡々とトランクからドレスを取り出して着替える。屋敷の中で数少ない侍従たちの手を煩わせるわけにはいかないという建前の関係上、ドレス自体は簡素な作りになっているもの、大きく広がった深紅の袖とスカートは、体型の小さいダニエラの存在を大きく見せるために必要なものとなっている。赤のドレスと調和する赤茶の髪を手早く巻き、廊下を警備する十数体の自動人形を通り抜けて大広間へ向かう。


【注釈】

 ガルドス邸含むD.V=五十年前後のヴァングラトリアの上流階級では、不審人物を感知して警備する自動人形が普及されている。自動人形は特殊な塗料で印刷されたプレートによって認識を行うため、客人は来客用のプレートが渡され、首に下げている。


「あら、大きいトランクを持って来たと思えば、随分と小さくてかわいらしいドレスですこと」

「父親の名声と妹の失踪で、国民の同情を買ってるだけの浅ましい子。ここへだってフェリペ伯直々のお誘いがなければ……」


 囁かれている憐憫を含んだ嫌味が取り巻く大広間の中で、ダニエラが静かな足取りで人の輪の中心へと向かうと、フェリペ・ガルドス伯爵がダニエラを見つける。

 フェリペは丸い顔を撓ませ、ダニエラを肩を軽く叩くと、周りに紹介を始める。


「ああ、よくぞ来てくれた。紹介しよう、我が永遠の友であるマルコ・ディアス通商議員の子女、ダニエラ・ディアス嬢だ」


 紹介されたダニエラは、規則正しい所作でスカートの端を摘まんで一礼する。


「彼女は現在十六歳でありながら、彼の仕事と志を受け継ぎこのヴァングラトリア繁栄の一助となってくれる逸材だ」

「ご紹介いただき、ありがとうございます。父同様、ヴァングラトリア……ひいてはここにいる皆様方の生活をために、粉骨砕身で臨みますゆえ、どうかご助力とご愛顧のほど、よろしくお願いします」


 ダニエラが挨拶を述べると、周囲からささやかな拍手が送られる。それから各人との握手を終えると、フェリペが彼女を呼ぶ。


「今日はこのような場に招待してくださいまして、本当にありがとうございます、伯爵様」

「嫌なに、気になさるな。私と、君のお父上との仲だ。選挙の際には十分な援助を約束しようじゃないか」


 ところで。と、フェリペは神妙な面持ちで尋ねる。


「お父上……マルコの具合はどうかね」

「ええ、七年前から相変わらず。母を亡くして間もなく、妹も行方不明になってしまい……、公務は続けていますが、心労はかさむばかりで」

「ふむ、そうか……使用人もいるとはいえ、心に傷を負った父を娘一人で支えるのは大変だろう。何か困ったことがあれば、なんでも私に言いなさい」

「お心遣い、痛み入ります」


 ふと、ダニエラは中庭を見渡せる窓に顔を向ける。その日はヴァングラトリアによくある霞んだ月が輝く夜で、霧に煙る中庭を各所に配置された自動人形の胸に搭載されたカルボウ・ギアが淡い光を放っている。


「あれは、なんでしょうか」


 ハッとするような快活な声量で、ダニエラの指は中庭の一画を指し示す。ダニエラの声に釣られ、フェリペを始めとしたパーティの出席者たちは、何事かと示した先に注目する。

 直後、大広間に女性の甲高い叫びが響く。

 ダニエラが指差していたのは、遠目から見ても小柄な人物だった。鳥の嘴を模したペストマスクが顔を覆っていること以外、夜の闇と煙に紛れた出で立ちだが、悲鳴の原因はそこではなく、原因はその人間が両手に携えた散弾銃と、周囲を死体のような様で転がった自動人形にあった。

 ペストマスクの怪人は見下ろすダニエラを見返すように顔を上げる。水蒸気とオイルでマスクが、月明かりに照らされ赤く光ると、大広間のパニックはさらに加速する。


「侵入者だ!」


 一泊遅れて使用人の一人が声を上げるのを合図に、怪人は柱の陰に姿を消すのを見届けると、ダニエラは目を見開いたまま、ストンと腰を落とした。


「客人の皆様は客室へ避難を!」

「ダニエラ嬢は、私と一緒に。歩けるか?」


 使用人の避難誘導とは別に、フェリペが自身の寝室へと連れ込むのをダニエラは躊躇いなく受け入れる。

 ガス灯を点けるフェリペの背中を尻目に、部屋を観察しながらバルコニーへ出るための窓の鍵を開けながら、ダニエラはフェリペに適当な言葉を投げかける。


「い、今のは? まさか、噂に聞く惨殺鬼ではありませんか?」

「心配ない。何者であれ識別プレートを持たない者は、自動人形の数で押せば捕まるだろう」


 ガス灯に照らされたフェリペの様子を伺っていると、彼は眉尻を下げてどうしたかと尋ねてくる。


「いいえ。……ああいう下賤な輩からも狙われるというのも、上流階級のしがらみなのかと、思いまして」

「ははは、あんな露骨な者なんてそうはいないさ。それより策略と智謀を巡らせ、人をだまくらかそうする人間のほうが危険だし、大勢いる。気を付けたまえよ」

「気を付けろと言われましても……私には、嘘も真もさっぱり区別がつきません。伯爵様は、どうされてるんですか?」


 その質問に、ニタリと湿った笑いを浮かべたのを、ダニエラは見逃さない。


「ダニエラ嬢は、D.Vという暦の意味はご存じですかな?」


 唐突なその質問に、怪訝そうに首を傾げながら蒸気暦のことですよねと確認から入る。


「蒸気暦……ドクトル・バベッジが、蒸気機関によって稼働する解析機関を発表した年を元年とした暦で、蒸気文明の始まりを記念したもののはず」

「なるほど聡明だ。だが、事実は違う。ドクトルの解析機関は、発表前からすでにその実用性は証明されていたのだよ。つまり、その発表はただのブラフさ」

「ブラフ? では、その真意は?」


 くはは、とフェリペはむず痒く笑う。


「あの日完成し、稼働したものはね、予測装置だよ。個人を対象にした、ね」

「予測装置?」


 くふ、くはっ! と耐え切れなくなったフェリペが噴き出すと、スーツから拳銃を取り出してダニエラへ突きつける。

 五メートル先、胸へ照準を向けた銃口と視線を結び、ダニエラの表情に緊張が走る。


「白々しい芝居はやめたたまえよ、ダニエラ嬢。小娘のいじらしい嘘なんて、私には通じないよ」


 ダニエラは身を翻し、バルコニーを出ると、四月を温い風を一身に受ける。手摺越しに三階の高さを見下ろすと、無駄だよと警告するフェリペに再び向き直る。


「あのペストマスクも、君の差し金だろう? もうすでに、自動人形が殺しているかもしれないがね」

「……一つ壊されているのに、大した自信ですね」

「ここに配置されている自動人形の数は三十を超えている。すべて一人で破壊するのは不可能さ。それに君の目的が私の『占星機』だというのは、わかっているからね」


 押し付けられた鉄の武骨で無遠慮な硬さが、骨に響く痛みを胸に与え、ダニエラは奥歯を噛む。


「名前・生年月日・家系図諸々……これらを入力することで個人の未来を予測する占星機は、その内容を秘匿することで成立するものだ。だからこそ、使用者の間でも占星機を話題に出すことは暗黙のタブーだと言われてきた」

「こ、の……」


 足掻こうと振るったダニエラの腕を片腕で受け止め、フェリペはそのまま力任せに、慣れた手つきでダニエラの体をうつぶせに押し倒しす。


「うぐ……!」

「なに、君を殺す気はない。占星機の予言によれば、計画の破綻したディアス家の長女は、私にとって有益な存在になるそうだからね」

「誰があんたの言いなりなんて……」

「言葉に気をつけなさい。神に代わる新時代の啓示を持つ私……いや、女王含めた我々ヴァングラトリアの真の支配者に歯向かうなど、愚かにもほどがある」


 フェリペの雄弁を後頭部で聞きながら、ダニエラは啓示? と疑問を露わにするも、すぐにその表情は嘲笑へと置き換わる。


「くだらない」


 得意げに持ち上げられたフェリペの口角が、ダニエラの侮蔑を受けて引き締まる。


「なんだと?」

「くだらないって言ったのよ、クソジジィ。予言? 神に代わる新時代の啓示? 人の作った物の奴隷に成り下がっておいて、人の支配者を気取ってるなんて滑稽な話だわ」

「……ああ、淑女らしからぬなんと汚らしい言葉遣いを。これだから下級の成り上がりは困る」

「そんな小娘にいい様に言われても、何もできないのでしょう? ご主人様の言いつけしか守れない犬が、偉そうにしてんじゃないわよ」


 声を震わせながら努めて冷静な口調を保つフェリペだが、それを嘲笑うようにダニエラの挑発が続くと、一度ダニエラから離れて、そのわき腹を蹴り上げる。

 肺の空気を一気に吐き出したような、鋭い苦悶の吐息がダニエラから吐き出される。


「立場を弁えろ。ダニエラ・ディアスが起こす騒動は失敗する。どう吠えようが、貴様ごときでは覆しようがない」

「……たし、かに。私だけじゃ、どうしようもないかも」

 

 嘔吐き、咳き込むダニエラ。

 その琥珀の瞳は涙を浮かべながらも、宿る意思は消えない。


「これが、『ダニエラ・ディアス』だけの騒動だったら、の話だけど」


 呟いたその言葉に対するフェリペの反応は、本人の悲鳴によって遮られる。

 上体を起こしたダニエラが見たものは、右腕から血を流し、銃を取りこぼして倒れるフェリペの姿だった。

 バルコニーの向かいの先へ目を向けると、月明かりに紛れた硝煙が浮かび上がっているのが見える。そこには屋根からヴァシオ・リーフェルを構えるペストマスクの怪人の姿がある。


【注釈】

 ヴァシオ・リーフェル(真空式消音銃)とは、蒸気機関を搭載することでタービン内の真空を利用し消音機能を持たせた自動狙撃銃のこと。


「な、何故だ? あいつは、自動人形が追ってるはず……」


 脂汗を流し、苦痛で奥歯を噛みながら同じ方角を見るフェリペの疑問に、ダニエラが答える。


「自動人形が識別に使うプレートは、無色の塗料でパターンを印刷してから染めているの。色で識別しないから、わかりやすい緑にしてるだけ」


 ダニエラが笑みを浮かべるその先……静かにライフルを構えるペストマスクの怪人は風に煽られ、深紅のドレスが穏やかに揺れる。

 その色味や造形は、ダニエラの着るそれと同じものだった。

 

「そのドレス、まさか……」


 無言で鼻を鳴らしたダニエラは、ペストマスクのレンズの先にある、琥珀の瞳を見つける。

 気まずそうに顔を逸らしたであろうペストマスクの少女の姿に満足したように頷き、さてとダニエラは腕を抑え膝を突いて困惑するばかりのフェリペを通り過ぎて本棚の前に立つ。


「ま、待て……」


 起き上がろうとする床を突いたフェリペの掌を、リーフェルの弾丸が貫く。

 絶叫を他所にダニエラは確信した手つきで収納された本を操作すると、歯車の軋む音を立てて本棚が震えだす。

 目の前の本棚が床下への収納され、その裏にある扉が姿を現す。


「そ、そんな……何故」

「部屋の構造と、見取り図のズレから。後は本の置き場所のパターンを見れば一発よ」


 淡々と解説しながら、ダニエラは拾い上げた拳銃を拾い上げてフェリペの額に突きつける。


「いったいどうなっている……? こんなこと、占星機には書いていない。こんな運命を、私は知らない……!」


 恐怖で膠着した表情まま、フェリペは涙を流して、受け入れがたい事実を否定するよう、ただ首を横に振り続ける。


「い、いやだ。私は伯爵だぞ! こんな運命は、こんな最後は間違っている!」

「ええ、私もそう思うわ」


 喚くフェリペに、冷めた表情で呟く。

 それからしばらくして、轟音が一発、屋敷に響く。

 

     3


 目を覚ますとそこは暖炉の部屋のベッドの上で、何もわからないまま私はエルヴィタに抱き着かれた。

 わんわんと泣きじゃくって、無事なのか、どこも痛くないかと心配してくるエルヴィタに、わたしはこれまでのことを思い出して同様に泣いてしまう。


 ごめん、ごめんなさい。わたしはエルのことを探して森に入ったんじゃないの。あそこから逃げたかっただけなの。それなのにダニエラはこんなに心配して、本当にごめんなさい。


 それでも、とダニエラは言ってくれた。あなたが見つけてくれた、だから私は生きてる。あなたが、運命を打ち負かしてくれたの。

 二人とも落ち着いたのを見計らって、家主を名乗るおじいちゃんが話してくれる。

 占星機と呼ばれる未来を演算する装置のこと。それにより、この国の未来が決まってしまうこと。それを何とかしたくて、ずっとここに住んでいたこと。

 おじいちゃんは不思議な人で、蒸気機関関係のことは何でも知っていた。エルヴィタはそんなおじいちゃんが何者かを確信して、交渉を持ちかけた。

 このまま帰っても、わたしは占星機の運命に呑まれて、いつ危険が及ぶかわからない。

 だから、エルヴィタがわたしの代わりになって、占星機を壊す計画を一緒に立ててほしいと。

 その言葉を待っていたように、おじいちゃんは頷く。しかし、とおじいちゃんはこれだけわたしたちに問いかけてきた。


 君たちが、ここで私と出会い、占星機の記す運命に立ち向かう。これもまた、占星機の記述通りの出来事だとしたら?


 わたしは考える。お父様の奴隷になることから逃げたわたしは考える。

 それでも、運命に立ち向かうことからは、逃げたくない。そうしたら、わたしはエルヴィタ・ディアスにもなれないから。

 おじいちゃんは、わたしの答えに穏やかな笑みを浮かべた。


     ◆


 D.V=五十一年 四月八日 ヴァングラトリア首都 レンドロス


【注釈】

 この日の号外によれば、ガルドス伯爵邸は謎の火災により焼失し、逃げ遅れたダニエラ・ディアスを助けるためにフェリペ・ガルドスは犠牲になったと報じられている。


「例のものは?」

「抜かりなく」


 ガルドス駅構内で、昨日と同じくベンチにアーロンと背中合わせで座るダニエラは、アーロンの背中を見ないままにバインダーが詰められたトランクを滑らせる。


【注釈】

 バインダーとは、D.V=三十年以後に普及した、パンチカードを折り畳むことで計算結果を小さく収納するための道具。


「中身は確認した。間違いなく、占星機の予言書のはずよ」

「……解析機無しでパンチカードを読めるっていうのは、本当だったんだな」

「じゃなかったら、あのおじいさんは私なんかに注目しないわよ」


 とにかく、とダニエラは膝を組んで背もたれに寄り掛かると、停車してる蒸気機関車の後ろから遠くに伸びる線路を見渡して一息つく。


「これで契約は完了よ。あなたたち『森のロビーナ』は私が雇う」

「ああ、問題ない。これであんたも、ジジィの小間使いだ」


【注釈】

 森のロビーナとは、アーロンをリーダーとし、レンドロスを中心に活動する裏社会の組織の名称。主に同じく裏社会での取引の警護・事前調査・暗殺などを担当している。


「あいつは使えたか?」

「ええ、問題なく。この七年、あんたたちの下で何をしていたか、想像に難くないほどには」

「全部あいつが望んだことさ。お前を守るためにな」


 吸殻を踵で踏みつぶし、アーロンは立ち上がって大きく伸びをすると、トレンチコートの裾を静かに揺らしながら去っていく。ダニエラはそれを横目で見送った後、構内の屋根を仰ぎ見る。

 ガラス張りアーチから差し込まれる始発前の穏やかな朝日の眩しさに、ダニエラは目を閉じる。

 しかし次の瞬間、アーロンが座っていたベンチに、誰かが座る気配を感じると、ダニエラの瞳が目を覚ますようにハッと見開かれる。


「……何しに来たの」


 背中越しの気配は所在なさげに視線を下げたまま、何も答えない。しばらく沈黙が続くと、諦めたようにダニエラはため息を吐き、前を向いたまま口火を切る。


「今回のこと、あなたがいなかったら……殺されはしなくても、もっと痛い思いはしたかも」


 男性用の大きなダッフルコートに包まれた小さな肩が、不安げに跳ねるのを背中で感じて、ダニエラは鼻を鳴らす。


「この七年間、何があったか知らないけど、あなたは間違ってない。昨日も、七年前も、あなたに助けられた私が言うんだから、間違いない。だから、合わせる顔がないなんて、言うんじゃないわよ。寂しいじゃない」


 誰に言うわけでもなく零した言葉を払うように、ダニエラは勢い良く立ち上がる。


「渡したドレス、大事にしなさいよ。未来のあなたに必要なものなんだから」


 最後にそれだけ言い残して、客車へと入っていこうとくする。

 ふと入り口で、思い直したように振り返ると、ベンチにはもう誰もいない。

 まったく、とダニエラは呆れたように微笑み、そのまま一号車へと入っていく。

 警笛代わりの排気音が、始発の発進を告げる。


 以上の記録を、解析機関より算出した、D.V=五十一年・四月七日十六時三十分から八日七時〇〇分までの、ダニエラ・ディアスの行動計算記録とする。


 D.V=十八年三月七日

 記録者:カルロス・バベッジ

ここまで読んでいただきありがとうございます。

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