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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

わたしを殺したのはだれ

作者: 吉澤雅美

 初冬にしては暖かい日が続いていた。


 美樹夫と久子は病院に向かう車に乗っていた。

 二人の第二子、次女となるはずの赤ん坊の出産予定日だった。


「陣痛も無いのにわざわざ行かんでもええじゃろ?」

「心配なんじゃ。上の子が小さく生まれたけぇ」


 長女は腹の中でうまく育ってないとかで、緊急の帝王切開で産まれた。その後は無事育って今四歳になるが、同じことが起きないか、久子は心配だった。


 それで、今度はわざわざ紹介状をもらって近隣一番の大きな総合病院の産科を選んだ。


 友達は食事が質素だという総合病院を避け、フレンチが出るとかいうクリニックにしたが、それよりNICU(新生児集中治療室)がある総合病院のほうが安心だと美樹夫も久子も判断した。


「それに昨日からあんまり動かんし」

「産まれる前は胎動が減るんじゃないか」


 美樹夫はハンドルから左手を離して、助手席の妻の大きなお腹をなでた。

 美樹夫の手に久子は自分の手を重ねた。


「今度は下から生むんじゃけ、立ち会うんよ」

「どうしてもか?」

「うん! お父さんじゃろ」

「久美、元気で生まれてこいよ」

「何かあっても大丈夫。総合病院じゃけ」


 久美というのは女の子だとわかったときに夫婦で付けた胎児の名前である。夫婦の名前から一文字ずつ取って「くみ」と読ませる。


 二人は仲の良い夫婦だった。


 車は間もなく総合病院の広大な駐車場に滑り込み、二人は手を繋いで正面玄関に向かった。


 予約の時間が来て、


「じゃあね」


 と、久子が二階の産婦人科の診察室に消えてしばらく。

 遠くのテレビを見るともなく見ていた美樹夫は、突然、名前を呼ばれた。


 久子の担当ではない中年男性の医師が待っていた。


「赤ちゃんが危険な状態です。すぐ緊急帝王切開を行いますので、ここに親族の承認のサインを」

「ええっ、どしたんですか?」

「詳細は後ほど。サインを!」


 


 淡いピンク色で統一された部屋の中で久子は横になり、お腹にベルトを巻いて胎児心数を観察するノンストレステスト(NST)を受けていた。

 彼女の耳にも、ザッ、ザッ、ザッ、ザッという規則的な胎児の心音が聞こえていた。


 それが、突然乱れた。


 久子の顔から血の気が引いた。


──上の娘の時と一緒じゃあ!

──このままだと赤ん坊が死んでしまう!


 久子は大声を出そうとしたが、病院の静寂の中でははばかられた。


 幸い十分程で看護師がやって来て、モニターの記録紙を読んだ。


「看護師さん……」

「大丈夫だからね。ただ、下からは産めなくなるかも」


 モニターのベルトを外しながら看護師はそう言い、急いで立ち去った。


「動け、久美、動け」


 久子は腹の子に声をかけた。

 モニターを外されては、腹の子の生死を知るすべは胎動しかなかった。

 久美は動かなかった。


──久美!

──お父さん!


 久子は心をねじ切られるような不安を感じながら、黙って狭いベッドに寝ていた。


──大丈夫、今度は下から産めますよ。


 上の子のような思いをしたくないと訴える久子に、担当の女医は、そう言って笑顔を見せた。


──本当に大丈夫なんじゃろうか


 久子は思ったが、医師の権威の前に黙るしかなかった。


 久子は出っ張ったお腹をはだけたまま、腹の子が死んでいるかも知れないという不安にさらされたまま、三、四時間放置された。



 やっと人が来たと思うと、三人組の看護師に息もつけぬほど急き立てられた。


「車椅子乗って」


 久子は別の階に連れて行かれた。


「緊急の帝王切開(カイザー)になるからこれに着替えて」

「こっちのベッドに」

「点滴入れます」

「はい、ストレッチャー移るよ」


 そのまま、三階の手術室に運び込まれた。




──ひどく時間がかかっている。


 美樹夫は家族控室で時計をにらみながらあせっていた。


「鈴木さんのお父さん!」


 ドアが開いて看護師が顔を出した。


「先生からお話があります」


 美樹夫は呼ばれるままに手術室の前の廊下に急いだ。


 「残念ですが……」


 若い男の医者が言った。


 看護師が、洗いざらしてボロボロの産着を着せた赤ん坊を美樹夫に見せた。


 赤ん坊の顔は鉛色で精気の欠片もなかった。

 死んでいた。

 気味が悪かった。


「もう少し早ければなんとかなったのですが……手を尽くしましたがダメでした……」


 医者は気の毒そうにそう言葉を残して立ち去った。


「もう、ええです」


 小さな赤ん坊を渡されそうになって、美樹夫は固辞した。


「では、地下の霊安室に安置しますね。会いたくなったらいつでも行ってください」

「ありがとうございます」


 美樹夫はあわてて付け足した。


「妻は、久子は無事なんですか?」

「命に別条はありません。ただちょっと麻酔からの回復が遅れていますので今は面会できません」


──久美はダメだったのか……。

──立ち会い出産を望んでいた妻はどんなに心細い思いをしているだろう……。


 美樹夫は今更ながらに呆然と椅子に座って考えた。

 頭を抱えた。


 どれほど経ったろう。

 ドアがまた開いて、


「鈴木さん……」


 と、二階の産婦人科の医局に呼ばれた。


「死産ですので七日以内に役場に届けを出してください。それと、これも」


 病院の名前が入った封筒に「死産届」の朱印があった。

 一緒に渡された冊子の束には死産があったときの父親に役に立つものは何一つ無かった。


「死産ママの集い」というカラフルなパンフレットもあったが、怪しげな感じがした。


「出生届は?」


 事務員は憐れむように美樹夫を見下ろした。


「死産ですのでいりません。名付けも必要ありません。どうしても葬儀を行うのでしたら、葬儀社を紹介してあげますが……」

「おまかせします」

「私にまかされても……お母さんがあんな状態ですから、お父さん、あなたがしっかりしてください!」


 叱りつけるように言われた。


──そんなに言わんでも──。


 美樹夫の唇が震えたが言葉にならなかった。


 


 その頃──久子は回復室でうっすら意識を取り戻した。

 お腹の痛みと、それから頭痛がひどかった。


──何がどうなったのだろう?


 彼女は誰か来て説明してくれるのを待った。

 だから、ペタペタという足音が聞こえてきたときには心から安心した。


 近づいて来た人影は白衣を着ていた。

 影は久子にのしかかるように覆いかぶさった。


「あなた、ハイリスクだったのね! こうなったのはあなたの身体のせいだから! 膠原病か抗リン脂質抗体症候群!!」


 いきなり降ってきたのは、担当の女医の鋭い声だった。


──こうなった? どうなったの?


 久子は真意を捉えかね、女医の表情を見ようとしたが、天井灯の逆光になり、真っ黒い顔しか見えなかった。


 衝撃のあまり、久子の意識はそこで途切れた。


 次に気付くと、四人部屋の病室に寝ていた。

 相変わらずお腹がひどく痛んだ。


「みず……」


 むしょうに喉が渇いた。


「美樹夫、目を覚ましたよ」


 姑の声がした。


「ママー」


 姑に抱かれていた上の娘が久子の首に抱きついた。


「……久美は?」


 美樹夫が枕元の椅子に座って、点滴がついてない方の手を握った。


「久美はアカンかった」

「どして?」

「間に合わんかったらしい」


 沈黙。

 久子は、自分の赤ん坊が死んだという事実を受け入れられなかった。


「久美に会うか?」


 久子は頭を振った。


「間違いじゃ……なにかの間違いじゃ」

「俺も信じられんよ。久美は可愛そうなことをした」


 開きっぱなしのドアから、誰かの赤ん坊の元気な泣き声が聞こえてきた。笑い声も。


 久子と美樹夫のベッド回りだけが暗く沈んでいた。

 窓の外には葉の落ちた木が立っていて、木枯らしに揉まれて枝が窓を打った。


「俺、入院バッグを取ってくる」


 沈黙に耐えかねた美樹夫が席を立った。


「じゃあ、私らも帰るけえ」


 上の娘を抱いた姑が後に続いた。


──久美が死んだ。ちゃんと産んでやれんかった。


 久子はギュッと目を閉じた。

 空になったお腹が痛かった。




 翌朝。

 久子は医局に呼ばれた。

 車いすに乗り看護師に押してもらう。


 例の女医が待っていた。


「鈴木さん。お子さんは残念でした」


 あの恐ろしげな物言いとは異なって、優しい言葉だった。


「胎盤が梗塞を起こしていて通常の半分しか機能していませんでした」


──やっぱり私のせいなん?


「次に妊娠したときには七ヶ月から入院し、毎日モニターを付けます。出産はもちろん帝王切開になります」


──どうして久美にはやってくれんかったん? 気をつけて言うたのに。


 また怒鳴られるかもしれないと思うと、久子は声が出なかった。胸が張り裂けるように苦しかった。


──わたしが、もっと気をつけていれば。

──胎動が減った日のうちに入院していれば。


「私が久美を死なせたん?」


──こうなったのはあなたのせいだからね!


 医師の言葉が頭の中でわんわん反響した。




 なんとか歩けるようになると、久子はベッドを抜け出し、体をくの字に曲げて点滴の棒を杖に新生児室に向かった。 


──全ては間違いで、久美はいるんじゃないか?


 よく探すと、純白のベビードレスに包まれた鉛色の顔があった。

 のぞき込むと、両目をひろげて、赤ん坊は久子を見た。目は真っ黒で、白目がなかった。


「わたしを殺したのはだれ」


 赤ん坊がすすり泣きながら言った。

 久子は後ずさった。


──あなたの身体のせいだからね!


 知らぬ間に新生児用のベッドに白菊の花が添えてあった。


 いつの間に? 誰が? と不審に思っているうちに花は増え、赤ん坊を覆い隠してベッドからあふれた。

 むせるような甘い香りが充満した。


「何をしてるの!」


 看護師の詰問する声に我に返った。


「どうやって入ったの」


 久子には答えられなかった。


──入れたから入った。


 花も赤ん坊も消えて、空のベビーベッドになっていた。


「私の赤ちゃんが……」

「ここにはいないから!」


 看護師は強い力で久子を新生児室から押し出した。

 点滴の棒が倒れ、けたたましい音が響いた。


 


 次に久子がトラブルを起こしたのは授乳室だった。


「搾乳機を貸してください」

「え? あなたの赤ちゃんは……」

「初乳が大事なんでしょう?」

「ちょっと、こっちへ来なさい」


 看護師は面倒臭そうに久子の腕を引っ張って授乳室の隅に連れて行った。


「ここにはあなたに貸す搾乳機はありません。母乳止める薬、飲んでるでしょ」


「久美は……」

「亡くなった赤ちゃんの事ばかりじゃなくて、次の子の事を考えなさいよ」


 久子はしょげかえってベッドに戻った。


──久美は死んだんじゃ。

──次の子なんて考えられん。


 次に、久子は看護師の目を盗んで、NICUまで行ってみた。


 広い窓の向こうに、たくさんの小さな赤ん坊、異常のある赤ん坊を入れた保育器が並んでいた。


「久美……」


 窓に張り付くようにして探していると、若い看護師が出てきて声をかけた。


「……鈴木さん……の奥さん?」

「そうです。久子です」

「赤ちゃん、残念でしたね。新生児科の先生ができるだけのことをしたんですが……もうちょっと早ければ……」

「わたしが、気づくのんが遅れたんですか」

「いいえ。稀にあることなんですよ」


 看護師は遠くを見る目をした。

 若いのに似合わず、過酷な体験を経た人間の表情だった。


「鈴木さん、私で良かったらお話を聞きましょうか?」

「いいんですか?」

「勤務が終わってから少しだけ。夜になると思いますが、消灯時間前には伺います」

「ありがとうございます。ありがとうございます」


 久子は何度も礼を言った。

 そして、待ち続けた。


 消灯の時間になった。

 誰も来なかったが、久子は待ち続けた。


 彼女の知らぬことだが、その日、超未熟児の出産があり、NICUはてんてこ舞いだった。若い看護師はクタクタになり、久子との約束を忘れてしまった。


 久子は、それ以来、夜眠れなくなった。


 翌日、若い看護師は約束を思い出し、久子の様子を見に行ったが、ベッドに座り宙を睨む患者の表情の険しさに、ついに言葉をかけられなかった。


 退院を前に祝い膳が出た。

 久子はアレルギーでエビが食べられない。

 前もって伝えてあった。

 しかし、祝いの海鮮丼にはしっかりアマエビが乗っていた。


──私が言うたことは、何も伝わらん。


 久子の思う世界と現実の世界とが、大きくきしむ音を立てた。


 食事には手を付けずに返した。




 間もなく久子の退院の日が来た。


 これで、赤ん坊の鳴き声や、家族の楽しげな会話から開放される。


 やっとの思いで家に帰り、母屋の玄関を開けると、中にはピンクで統一されたモニター室が続いていた。

 耳を聾せんばかりにモニターの、ザッ、ザッ、ザッという音が響き、突然止まった。


「久美……」

「どうしたんじゃ?」


 一歩足を踏み出すと、幻覚は消え、いつもの重厚な木を組んだ母屋の玄関に戻っていた。


 数日、久子は離れで寝たり起きたりを繰り返していた。


──あの医者のせいだ。気をつけてくれって頼んだのに何もしてくれんかった。思い知らせてやる。


 久子は母屋の台所で刺身包丁を研ぎ、新聞紙でくるんでエコバッグに入れた。


 外に出ると暗くなっていたので、今日やるのは諦め、バッグを玄関に置きっぱなしにして離れで床に付いた。


「久子、飯は?」


 美樹夫が声をかけたが、久子はぐっすり寝込んでいて返事もなかった。


 姑が文句を言いながら煮魚で夕餉の準備をした。


 翌朝、久子は自分の白い軽自動車で病院に向かった。

 みんなしているマスクに、冬だというのにサングラスをかけて。

 二階の産婦人科の医局に例の女医がいた。

 久子がはめ殺し窓をノックすると、気づいた女医が出てきた。


──こうなったのはあなたのせいだからね。


 久子はいきなり包丁で女医の腹を刺した。


──こうなったのはあなたのせいだからね。


 女医はあお向けに倒れた。

 久子は馬乗りになって刺し続けた。

 白衣は血に染まり、女医の体のまわりには血溜まりができた。


──あなたのせい。

──あなたのせい。


 それでも久子は全身の力を込めて刺し続けた。

 

 女医には恨みを買う心当たりは無かった。

 刺されながら、腕を伸ばして久子のマスクとサングラスを引き剥いだ。


 天井の灯りの逆光となり、女医には黒い人影にしか見えなかった。


「わたしを殺したのはだれ」


 それを最後に彼女の意識は遠のき、人影から広がる暗い闇に飲み込まれた。


「何をしているんですか?」


 肩を強くつかまれ、久子は振り向いた。






「何をしているんですか?」


 肩を強くつかまれ、久子は振り向いた。


 病院の玄関だった。

 復讐を遂げに行くどころか、彼女の足はどうしても病院の中に進もうとはしなかった。

 

 混み合う玄関に立ち尽くす女に不審を抱いた警備員が声をかけたのである。


 包丁を入れたエコバッグも持っていなかった。

 サングラスもしていなかった。


「なんでもないです!」


 久子は金切り声を上げ、病院の駐車場に停めた軽自動車まで駆け戻った。


 動悸がして、耳の中で、ザッ、ザッ、ザッという規則的な音が聞こえた。


 あのモニターのように乱れないか気にしながら、いつまでも運転席に座っていた。




 美樹夫はため息を吐きながら、母屋の台所の包丁立てから包丁を取り出した。


 昨日午後いっぱいかけて彼の妻が研ぎ上げた包丁はすべて刃こぼれし、使い物にならなくなっていた。


──限界だ。


 彼は思った。


 どこからともなく戻って来た妻の襟首をつかんで、仏壇の前に引き据えた。


「ええか、久美は死んだんじゃ。これが骨じゃ」


 白絹に包まれた小さな骨壷を抱き、久子はうめいた。


「久美、久美……」

「だれのせいでもない。久美は運が悪かったんじゃ」


──運のせい。

──だれのせいでもない。


 その現実を受け入れるには久子の心は弱すぎた。

 

 久子はいきなり骨壷の蓋を開け、逆さにした。

 ざああっと、砂と灰を混ぜたようなものが座敷の畳の上にこぼれた。


「何をするんじゃ!」


 美樹夫は肝を潰して怒鳴った。

 思わず久子の頬を張った。


「これは久美じゃない。久美は鉛色の顔をした赤ん坊じゃ」

「……なんでそれを知っとる?」


 美樹夫が、赤ん坊の顔色におそれをなしたことも、その後すぐに葬儀屋に頼んで焼いてもらい、久子とは対面させなかったことも……久子は見通しているようだった。


 美樹夫は、すううっと、冬の寒さ以外の悪寒を感じた。


「久美や、ねんねしな」


 久子はやせ細った手で遺灰をかき集めて骨壷に戻した。


「なんで、久美は死んだんじゃ?」


 美樹夫は答えられなかった。


「わたしが、久美を殺したんか。そう思っちょるじゃろう?」


 美樹夫は妻を精神病院にかけようと、姑に相談した。

 思えば夫である彼が一番久子の異常を理解していたのかも知れない。


──体裁(ふう)が悪い。


 姑は美樹夫の心配を一蹴した。


──水子は祟るというから心配なんじゃ。

──あの子は水子じゃぁねぇ。せっかく一人前の葬式も出してやったのに。


 その葬式の日、久子はまともに起きることも出来ず、離れで寝付いていたのだが。


 香の甘ったるい匂いを嗅ぐと、久子は嘔吐した。




 年末の繁忙期、もし仕事に出られるなら来てくれないか──久子の勤め先の印刷工場から問い合わせが来たのはそんなときだった。


 死産の場合、八週間の産後休暇があるが、工場はそれを惜しんだ。


──働いてくれと言われるなら、働きに出せばいい。

──赤ん坊の面倒を見るわけじゃあねえに、いつまでフラフラさせているんじゃ。

──私の年金を当てにされても困る。


 ひそひそ話のはずだったが、すべて久子には聞こえていた。


 久子は化粧台に向かった。


「家にいるより、働きに出たほうが気が紛れるけぇ」


 久しぶりに張りのある久子の顔を見て、美樹夫はちょっと安心した。


 印刷工場と言っても経営は多角化し、久子は自費出版の写真集の編集を担当していた。


 なんの運命の悪戯か、彼女は『有朱(アリス)一歳の祝い』と題する女児の写真集を担当することになった。


──死産したばかりなのに大丈夫か?


 社長は心配したが、写真集担当の専務は、ベテランだから大丈夫だと言い切った。

 年末の繁忙期、布張り箔押しの豪華版、ミスは許されない。


 ところが、久子は大きなミスを犯してしまった。

 発注者の孫、有朱の名前が、一ヶ所、久美になっていたのである。


 刷り直し、製本し直し、箔押し直し……とんでもない大損害である。


 専務は烈火の如く、久子を責めた。


「お前のせいでどれだけ損害が出たと思う! 有朱ちゃんの誕生日に間に合わなかったら、責任を取って辞めてもらうから、覚悟しておけ!!」


 久子は真っ青になって、専務室を出た。


「私のせい、私のせい」

 

 とつぶやきながら階段を登っていく久子の姿を同僚が目撃している。


 生きている久子の最後の姿だった。


 ドンという大きな音がしたのはそれからすぐ。


──ああ、飛び降りやがった。


 専務はその音を以前にも聞いたことがあった。

 

 数年前、ある従業員が過労の末、五階建ての新館の屋上から飛び降りた。


 彼は、専務の愛車のベンツの屋根でバウンドし、そのおかげで一命をとりとめた。しかし、半身不随となり、後始末に懇意にしている政治家の力を借りねばならなかった。

 

 ベンツも大破し、廃車にして買い替えた。

 それが今のベンツである。


 専務は愛車の無事を確かめに急いだ。


 新館の玄関脇、専務用の駐車場に人だかりがしていた。


 ちらっと血塗れの作業着が見えたが、なるべくそっちは見ないようにした。


「専務! こっちです!」


 呼ばなくてもいいものをと思いながら、専務はやむを得ず、ぐしゃっと潰れて駐車場のアスファルトに張り付いた人間の姿を確認した。


 半分無くなった頭部に残った片目が開いた。

 眼窩は真っ暗で目玉は無かった。


 ぽかりとあいたその闇から声がした。


「わたしを殺したのはだれ」


──ひいいっ!


 専務は後も見ずに逃げ出した。

 その日を境に彼は長く精神を病むことになる。


 久子は、葬式もあげずに骨になった。

 一家は田畑を捨てて夜逃げし、杳としてその跡は知れない。

「私を殺したのはだれ」

ずさんな病院、久子の狂気、パワハラ……。

思い思いの理由を探していただけると光栄です。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 納涼企画へのご参加ありがとうございます! 最初は幸せそうだった久子さんが狂気に落ちていく描写にとても引き込まれました。 誰かが決定的に悪いわけではなく、でも誰も久子さんに優しくすることが…
[良い点] 幸せそうな久子の姿から始まるだけに、少しずつ歯車が狂って行く様子に居た堪れなくなりました。唯一、久子に寄り添おうとしてくれた人物が看護師なので、急患が入ってしまったのは何とも言い難い展開で…
[一言] 久子のどうしようもなく救われない境遇と崩壊。 削がれるような怖さと嫌悪(褒めてる)を感じました。久子に対して同情や憐憫、いたわりを思うのが本来の人なのでしょうが、読んでいて、かわいそうより恐…
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