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暗闇の中で僕は久しぶりにルカと会った。僕とルカは自分達のトロワニの儀式を行った時と同じように自分の姿をさらけ出し、お互いの額を合わせた。感じるのは彼女の体温と肌の感触だけ。心の中は空っぽのままだった。僕はルカに触れたくて手を伸ばしたが、その瞬間ルカは暗闇に溶けて消えてしまった。働き者の掌ではなく犯罪者の掌になってしまった僕の掌は、ルカに二度と触れる事が出来ない掌になってしまっていた。
小さく叫ぼうとした瞬間、僕は目を覚ました。目覚めたのは罪人を交流する、街の警備兵が管理する街の地下牢だった。
死んだコルニに代わって僕は強盗をほう助した罪で裁判にかけられ、懲役二年の判決を受けた。本来なら五年は懲役をくらう筈の罪だったが、国の法律では未成年と言う事で三年間の温情を受けたのだった。判決が言い渡されて法廷を後にする時、僕は故郷の村で受けたトロワニの儀式の事を思い出した。あれは一人前として村の一員になる通過儀礼であり、法律上の大人として認められる事ではなかったのだ。自分では一人前の人間で、生きるためには何でも出来ると思い込んでいたが、客観的な事実は違うという事を改めて知った。
僕は大陸東方の監獄に収監された。その監獄は「更生の余地あり。適切な矯正が必要」と判断された囚人が収監される監獄で、一年に五回だけではあるが家族や友人との面会も許されていた。監獄は想像していたよりも明るく、収監されている囚人も間違いを正すために、監獄に入っているという印象を与える人間が多かった。僕は人の幸せを奪った人間だが、その罪を償いまたやり直せる余地があるのかもしれないと思うと、僕は少しだけ救われたような気がした。
監獄では今まで以上に謙虚になる必要があった。そうしないと、自分と同じく心に大きな傷を持った人間を刺激して今まで以上の過ちを犯してしまうと理解していたからだ。
監獄には色々な人がいた。決してしゃべらない初老男性に、神のお告げを聞いていると叫び時折奇妙な声を出す男など。
僕はまだ若く、妙な人間に洗脳されないようにする為か、二人用の房に一人で入れられた。向かいにはもう一人用の寝台があっても、中に居るのは僕一人。罪の代償が二人のものを一人で使うという、自分一人ではどうする事も出来ない喪失感。ルカを失ってしまった時と同じ痛みに耐える事が僕に課せられたと思うと、改めて自分の行ってきた事、短絡思考のまま生きてきた事が悔しく思えて来た。
その鬱屈した気分を紛らわせる唯一の方法が刑務作業に打ち込む事だった。僕が就く事になった作業は屋外に出ての土木工事や、農作業の補助。足に枷を嵌められ自由な行動が許されず、作業と食事の時以外は手枷を嵌められるが、作業中は両手が自由になる。何よりも空の下で生産性のある作業が出来るというのが、こんなにも嬉しい事だとは思わなかった。
僕は監獄の責任者に許可を貰い、監獄で過ごす一日の記録を紙に書いて残しておきたいと頼んだ。担当者は一旦不思議そうな顔をした後、こう続けた。
「まあ、自分の貴重な体験を書き留めておくのは悪い事では無いだろう。一日一枚分の量であれば許可する」
その言葉を聞いた時、僕は頭を深々と下げて礼をした。ささやかな自分の願いが叶ったと思うと、胸が熱くなった。
僕は一日の終わりに、今日一日あった出来事を総括する目的で記録を残し始めた。書く文字は、故郷の村から出てきて見よう見まねで覚えた、王都の言葉。単語の綴りや文法が不自然であっても、書いて記録が残せるというのが僕には大切だった。
ある日の事、外に出ての刑務作業が終わり、監獄に戻る為に囚人移送用の牛車に座っていると、向かいに座る囚人のブルデから声を掛けられた。彼は僕より五歳年上の大陸北東部の出身で、酒に酔って暴れた結果店を潰してしまい、店舗の賠償金が払えず懲役を選んだ男だった。
「お前、囚人なのに記録を書いているんだって?」
「ええ。一日一日を大切に生きようと思って」
真面目な返事をすると、ブルデは小さく笑った。
「悔い改めて人生をやり直すのか。いいじゃないか、真面目な人間になっている証拠だ」
「恐れ入ります」
僕は恭しい言葉を述べた。こんなに真面目に振る舞うなんて久しぶりの事だった。
「俺は故郷に妹が一人いる。たった一人の家族だ」
僕はブルデの自分語りに言葉を返さなかった。付き合えば何か変な方向に誘導されるのではないかと警戒したのだ。
「こんど、年に五回だけ許された家族との面会日だが、お前は合いに来てくれる家族は居るのか?」
その言葉を聞いた時、僕は頭と心臓の辺りが真っ白になる感覚を覚えた。僕は呼吸を整えると、僕は俯いて殻に閉じこもるような感じでこう答えた。
「いません。故郷からは逃げるように出てきましたから」
「訳ありの人間だから、流れてここにたどり着いたんだな」
ブルデは皮肉交じりに漏らすと、こう続けた。
「良かったら、お前も俺の妹に会ってみろよ。少し話せば気が紛れるし、目標があれば楽しく過ごせるぞ」
その言葉を聞いた瞬間、僕は俯いていた顔を上げる。ブルデの顔には、弟分の関係性を持つ人間に対しての親愛に満ちた笑みがあった。
「でも、面会には事前に申請を出さないといけないんですよ」
「まだ間に合う。名前はアイセだ」
ブルデはにこやかに言った。
監獄に戻ると、僕は面会の申請用紙を貰い、ブルデの妹のアイセの名前を書いた。一度も会った事のない人間の名前を書く行為など、生まれて初めての事だ。自分は監獄と言う人生の最果てに居るが、その中で希望の一筋の光を見たような気がした。
そして面会当日、僕は看守に呼び出されて房を出て、手枷を嵌められて面会場に向かった。
面会場は幾つかのテーブルが用意され、向かい合わせで面会者と囚人が座るようになっていた。面会者一人に対して囚人一人が原則だったが、過去二か月間に問題を起こさず、懲罰処分を受けていない囚人ならば、特別に面会者か囚人のどちらかが二人までの面会が許される。僕とブルデは幸運な事にその特別な例に該当する、正しい囚人だった。
監視役の看守に睨まれながら、まず囚人たちが席に着く。その後看守が手枷や拘束具の緩みなどが無いことを確認して、問題が無いことを看守長に報せる。その後面会場の反対側の扉が開いて、面会に来た人間達が入ってくる。入って来た人間達は、性別も年齢も民族も様々だ。もしかしたら、この大陸に住む様々な民族の代表者がこの狭い面会室の空間に押し込まれているのかもしれない。僕はアイセという人間は誰だろう焦るような気持ちになりながら目で探した。
「ああ、兄貴」
黒髪の目の大きい若い女が、僕の方を見て声を出した。一瞬僕とその女の視線がぶつかったが、女はすぐ僕から視線を外して隣にいるブルデの事を見た。
「ようアイセ。遠路はるばるありがとう」
朗らかな口調でブルデは答えた。アイセは晴れやかな笑顔を浮かべながら席に着いた。面会者と囚人はテーブルに向かい合わせで座り会話する事が出来るが、お互いの身体に触れる事は許されなかった。
「兄貴、ここに来てから大分痩せたよね」
「無駄の多い生活とは無縁だからな。ここは」
アイセの言葉に、ブルデはにこやかに答えた。兄と妹と言う家族関係ではあるが、社会的関係は囚人と一般人だ。それなのにこんな朗らかな会話がすぐに出来るというのは、二人がお互いを人間として尊重し合い、支え合う関係を築いているからなのだろう。僕は一人っ子で故郷を捨て一人で生きて来たから、親友や友人と呼べる関係の他人が居ない。唯一、お互いの事を知ろうとしたルカと言う異性なら居たが、彼女が目の前から消えてしまった瞬間、僕はその事実を受け入れられず、自分の出発点から逃げ出してしまった。
「お隣の人が、ここで仲良くなった人?」
「そうだ。挨拶しろよ、コウ」
ブルデに促されて、僕はぎこちない表情で「コウです」と名乗った。
「はじめまして。私はブルデの妹のアイセと言います」
アイセは僕に対して身構えるような表情も素振りも見せず、にこやかに返してくれた。異性から柔和な反応を受け取るのは暫くぶりの事だったので、僕は恐縮してしまった。
「彼とは、ここでどんな関係なの?」
「こいつは面会に来る人間がいない寂しい人間だから、俺が気を利かせてここに連れてきてやったんだ。誰とも会わずに刑期満了だなんて辛いからな」
ブルデは柔らかい表情で事実を述べた。二人の柔らかい表情で自分の事を話されると、僕は今の自分の境遇を、遠い将来に苦い思い出として語れるような感じがした。
「兄貴は何時出所なんだっけ?」
アイセが不意に質問する。
「あと八か月だ。コウは?」
「あと十か月」
僕はぼそぼそと事実だけ答えた。嘆く事も喜ぶ事も出来ない事実だった。
「俺の二か月後か。どこか行く当てはあるのか?」
「ない」
「そうか」
ブルデは小さく答えた。彼の表情は何か含みのある表情だったが、真意を訊く勇気は無かった。
その後、面会は時間一杯になるまで続いた。ブルデとアイセの話は楽しく続いたが、よそ者の僕はその会話を一歩離れた場所で聞く事しか出来できない。僕と二人は同じ面会室のテーブルに座っているが、自分から見る世界や体感する物は全く異なるのだ。その違いは、今の自分にはどうにもできそうに無かった。