旦那さまは私のために嘘をつく
旦那さまのエリクシスさまは、私には勿体ないほど素敵な方です。
さらさらとした漆黒の髪に形の整った眉、薄い唇。白皙の肌はその端正な顔立ちを惹きたてます。
紅玉のような目は私を一度捉えると、嬉しそうに細められました。
「行ってくるよ、シェリル」
旦那さまは出かける際、玄関先で必ず私に口づけをします。これは精霊の加護がより強固に受けられるためのおまじないです。いつも額、瞼、頬、耳そしてまた額とキスの雨を降らし、私を強く抱きしめるのです。
最後に背中をひと撫でして、名残惜しそうに離れると仕事へと向かいます。
私たちが暮らす家は峡谷の間に浮かぶ小さな島――浮島の上にあります。ここへは旦那様の作った魔法の小舟と通行許可がなければ家まで渡ってこられません。
私と違って旦那さまは魔法が使える方で、いつも浮島から空中を歩いて向こうの山崖へと渡っていきます。
まるでそこには見えない道があるかのよう。彼が歩く度、足下の空気は水の波紋のように揺らぎ、キラキラと魔力の粒が躍ります。魔力の粒はやがて空気に溶け、静かに消えていきました。
魔法使いとは体内に流れる豊富な魔力を使って様々な魔法を操る人を指します。その数はあまり多くありません。
魔法使い――といってもその括りは広く、魔力量には大きな差があります。そよ風を起こすことしかできない人もいれば、街を呑み込むほどの巨大な竜巻を起こせる人もいます。
後者のような魔力量の多い人は瞳の色が赤や金の色をしていて、彼らは試験を通れば上級魔法使いとして宮廷で働きます。
旦那さま曰く、自分は赤色を有しているので形の上では上級魔法使いだが、宮廷のお抱え魔法使いほどの腕はないとのこと。
どこで何の仕事をしているのか教えてもらってはいませんが、それでも旦那さまが日々魔法で生み出す道具は人の役に立とうとするものばかり。
水のなくならない水甕や薪のいらないキッチンストーブ、苦みを感じないようにする薬匙など。宮廷魔法使いでなくても、私からすればとても立派な人だと思います。
未だ顔の熱が取れない私は、送り出した旦那さまの背中を見つめます。口元を手で押さえながら心の中で行ってらっしゃい、と言いました。
向こうの山崖とこちらの間は今日も今日とて生憎の濃霧で、旦那さまの姿が小さくなるまで見送ることはかないません。
しょんぼりと肩を落としていたそのときです。
「ううぇうぇぇ。朝から甘ったるい空気で胃もたれ半端ないです~」
上から声が降ってきたので見上げると、玄関の庇にカラスのような黒鳥が留まっています。
彼は精霊のラプセルさん。
私たちが暮らしているウィンザリー王国は古くから精霊信仰があるので、魔力の強い者は精霊を精霊界から召喚します。精霊に気に入られれば契約を結び、力を借りることができるのです。
ラプセルさんは旦那さまの使い魔で鳥の姿をしています。が、本当の姿は違うそうです。
いつも旦那さまが仕事に行く時間になると霧の中からふらりと現れます。
おはようございます、と私は口をパクパクと動かしてラプセルさんに挨拶します。
――そうです、私は喋ることができないのです。
ラプセルさんは気にせず私に話しかけます。
「おはようございます~。今朝も早くから主にこき使われてクタクタです~。シェリルの美味しいご飯が食べたいですよ~」
朝ご飯は野菜の入ったオムレツと厚切りベーコン、それからバジルのパンを焼いていますよ。
「わあい! オッムレツ、べーコン、バッジルパン~!!」
口が利けなくとも、使い魔は察しがいい生き物なので意思疎通ができます。
彼は上空へ飛び立つと旋回して、開いている窓から家の中へ華麗に入っていきました。
一人残された私は旦那さまの後を追いかけるように浮島のふちまで移動します。真っ白な霧の先を見つめながら、口を動かして旦那さまの名前を呟きます。
――でも、やっぱり声は出ません。
原因は分かりませんが今から丁度一年前、私は何かの衝撃で声と記憶を失ってしまいました。
旦那さまによると大きな事故に巻き込まれたらしく、その場にいたほとんどの人が重傷だったそうです。凄惨な事故に巻き込まれた私は発見された当初、瀕死の状態だったとか。
意識を取り戻した時、私は王都の病院にいました。回復魔法を掛けてもらってはいるものの、指一本動かすこともままならない寝たきりの状態でした。
自分が誰かも分からず、これまでどんな人生を歩んできたのか分からない。
声が出ないのは先天的なものか、この事故による後天的なものか。自分に関する一切の記憶が抜けてしまっているのです。
医師は記憶喪失だと分かると「助かっただけでもありがたく思いなさい。生きていればなんとかなる」と元気づけてくれました。けれど、そこには私を哀れむだけの感情しかありません。
己が何者か分からないことほど恐ろしいものはありません。自分自身の存在があやふやでうまく認知できないのです。仮にもし私を知る人が現れたとしても、その人と今までのように接することはできません。
そもそも病院にいる間、誰も探しにこなかったので、私という人間は昔から天涯孤独だったのかもしれませんね……。
誰も私を知らず、私も私を知らない。
たっぷりと時間がある中で悪いことばかりが頭を過り、孤独と恐怖に心が蝕まれていく。私はすっかり生きる気力をなくしていました。
旦那さまに出会ったのはそんなとき。この病院の魔法使いが不足しているために自ら奉仕活動としてやって来ていました。
彼は私を一目見て、何かを察したのか動かない私の手を優しく包み込んでくれました。
「大丈夫、あなたはもう独りじゃない。よくここまで耐え忍んだ」
その言葉から、声から、同情や哀れみは微塵もありません。彼の大きな手から伝わる体温は私の冷え切った心を溶かすようにじんわりと染み渡っていきました。
いつの間にか私の瞳からはぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちていました。胸のつかえが下りたのです。旦那さまは私が泣き止むまでずっと手を握って励ましてくれました。
それからは彼がつきっきりで介抱してくれました。
名前を訊かれて答えられないでいると、名前がないのは不便だと言って私に「シェリル」という名前を与えてくれました。
何故その名前なのかは分かりません。でもシェリルと呼ばれる度、不思議と胸の奥がきゅっとして懐かしい気持ちになります。
もしかして、記憶をなくす前もシェリルという名前だったのでしょうか……。
旦那さまのおかげで身体は瞬く間に快方に向かいました。けれど一難去ってまた一難。次の問題が起こりました。
記憶をなくし、話すこともできない私が一人で生きていけるほど現実は甘くなかったのです。
まず仕事に就くには身分証が必要で、役所で書類の発行が必要です。けれど、私は自分が誰かも分からないのでその時点で打つ手がありませんでした。
加えて頭の打ちどころが悪かったのか料理や洗濯、裁縫などの家事が壊滅的なほど重症でした。裁縫をすれば何度も針で指を刺し、清潔で真っ白だった布が完成する頃には不気味な赤黒いマダラ模様になりました。料理もこの世のものとは思えない、名もつけられない料理が完成します。
これでは奇跡的に身分証を手に入れられたとしても、どこにも雇ってもらえないばかりか、糊口を凌ぐ生活すら危ういです。
遅かれ早かれ路地裏に屍として転がるのがおちです。
どうしたものかと頭を抱えていると「あなたを放っておけない。これも何かの縁だ」と、旦那さまは私を妻として迎え入れてくれました。最初は丁重にお断りしましたが、最終的に彼の申し出を受けることにしました。
何故なら私の方が旦那さまの優しさに触れて、好きになってしまっていたのです。好きな人の妻になれるなんて、女冥利に尽きます。
もちろん養われるだけの身では肩身が狭いので、旦那さまやラプセルさんに教えを請い、家事の一つ一つを覚えていきました。
今では旦那さまのシャツのボタンをつけ直せますし、彼の好きな料理や味つけも熟知しています。
今夜は好物である胡椒がきいたパンとミートパイを作る予定です。
「シェリル~、そろそろいつもの配達のおじじが来ますよ~」
過去を追想していると、窓枠にちょこんと留まるラプセルさんが叫びました。
我に返って耳を澄ませば、遠くから一定のリズムでオールを漕ぐ音が聞こえてきます。
私は小走りで一度家に戻ると、ランプに灯りをつけて船着場へと移動します。音がする方へランプを高く掲げ、ゆっくりと左右に動かしました。
暫くそうしているうちに、真っ白な霧の中から丸いオレンジの光と黒い影が浮かび上がります。小舟の先端にオレンジのランプを吊り下げ、生活必需品を積んだそれが浮島の船着場に到着しました。
「やあ、シェリルちゃん。いつも案内ありがとさん」
小舟から降りてきたのは背の高いがっしりとした体躯の中年の男性。彼は峡谷近くの街で商店を営んでいて、いつも我が家に生活必需品を届けてくれます。
彼は積み荷を小舟から玄関まで運んでくれました。
私はポケットから銀の万年筆を取り出すと宙に向かって手を動かしました。それに合わせて空気中に青白く発光する文字が浮かび上がります。
『配達 ありがとう』
これは口のきけない私のために旦那さまが作ってくれた魔法道具です。持ち手には赤色の貴石が二つはめ込まれていて、中に旦那さまの魔力が充填されています。
ここから魔力を供給することで魔力のない私でも魔法の行使ができるのです。
「いやいや、構わねえよ。女の子一人街まで買い出ししてここまで運ぶなんて無茶だしよ。旦那にはたんと金を支払ってもらってるしな。今日は頼まれてた食材と日用品、あとこれは来る途中店で買ったお土産だ。たまにはこういうのもいいと思ってね」
おじさんは親指を立て、茶目っ気たっぷりなウィンクをするとまだ僅かに温かい新聞紙の包みを渡してくれました。
包みを開けると、砂糖がたっぷりまぶされた一口サイズの丸いドーナツが数個入っています。
私はぱっと顔を綻ばせ、直ぐに万年筆を動かします。
『嬉しい ありがとう』
文字を読んだおじさんはきりりとした表情をへにゃりと崩しました。
「へへっ。シェリルちゃんの笑顔が見られておじさん嬉しいよ。それじゃあ今後とも変わらぬご愛顧を」
するとラプセルさんがふらりと飛んできて、私の肩に留まりました。
「おじじ、あんまりシェリルにちょっかい出してると主が鉄槌を下しますよ~?」
「ええ、これだけでか!?」
「黙っといてやりますから、今度は七面鳥の丸焼きを買ってくるのです」
ラプセルさん、それは共食いでは……?
ぽつりと心の中で呟いていると、おじさんが手を振りながら渋面で言いました。
「その手には乗らねえよ。買ってきて欲しけりゃあんたの主様に強請るんだな。俺は精霊のお願いは真に受けるなって言われてるからよ」
「ええっ、なんてヒドイッ! シェリルはよくて私がダメなんて!! 精霊の権利侵害甚だしいっ!!」
激憤するラプセルさんを無視して、おじさんは挨拶もそこそこに小舟に乗り込むと慣れた手つきでオールを漕いで帰っていきました。
「七面鳥の丸焼き……香辛料がきいた皮はパリッと中は肉汁がジュワッな七面鳥の丸焼きが食べたい……」
しょぼんと頭を垂れるラプセルさんを見て、私は慰めるように撫でました。
七面鳥は値段が高いので、今度鶏肉でよければ再現してみます。
「っ! シェリル~、シェリルだけが救いです~! 約束ですよ? 絶対ですよ?」
私はラプセルさんの言葉に頷きながら家の中に戻りました。
玄関に置かれた荷物はほとんどが食材です。私は食材の入った木箱を抱えてキッチンまで運び、傷みやすいものは地下の冷蔵室へ、日持ちする食べ物や嗜好品は食品庫へとしまいます。
残りの荷物は洗剤や手触りの良い布など。それらを決まった場所に置いてやっと荷物整理が終わりました。
次に家中を掃除してまわり、最後に旦那さまの仕事場である書斎へ足を踏み入れます。
棚や机には書類だけでなく、怪しく光る謎の液体や溜息が出るほど美しい鉱物石が雑然と置かれています。好奇心を刺激され、思わず触れたくなるようなものばかりですが、書斎のものには基本触れてはいけないと言いつけられています。
私は辺りを見回して目的のものを探します。と、ソファーの肘掛けにくたくたになったそれがありました。
旦那さまが魔法使いであるという証――ローブです。これは魔法使いという権威を象徴する代物なのですが、旦那さまはあまり頓着しません。私が注意しておかないとすぐにぼろ布のようになってしまうのです。それを回収して他の衣類と一緒に洗濯しました。
洗濯物を干し終えてキッチンへ戻ると、テーブルの上でラプセルさんが、ドーナツの隣でそわそわしていました。私の家事が終わるのを待っていてくれたようです。
「シェリル、シェリル。ドーナツ食べた~い」
私は頷いて返事をするとお茶の準備を始めました。キッチンストーブにかけていたヤカンを取り、テーブルに置いたポットに茶葉を入れてお湯を注ぎます。
蒸らしている間、新聞紙の包みを開いてドーナツをお皿に移します。最後の一つを移し終えて新聞紙を手に取るとふと、ある記事が目に留まりました。
――姫は、未だに行方不明。犯人の……も同じく逃走中でどこかに潜伏している模様。当時事故に巻き込まれたメルボーン国王陛下は……辛い表情を見せながらも、必ず彼女を見つけ出しこの手で犯人から救い出すと改めて表明した。
今後は宮廷魔法使いや王立騎士の部隊数を増やして近隣領都や辺境の森林まで捜索範囲を拡大する予定だ。
最初や文章のところどころの内容はすり切れて読めませんでしたが、お姫様が誘拐されてしまったという内容でした。メルボーン国王陛下は、ここウィンザリー王国を治める君主です。
この三年、領土拡大のために隣国である複数の小国へ侵攻し、次々と王朝を滅ぼして取り込んでいきました。
四十路で未だに野心を燃やす彼は世界に冠たる大国を目指し、国民の安寧など顧みず、血税を使って他国へ侵攻しています。自分と対立する者は家族も含めて処刑する、傍若無人な人間だといいます。その結果、彼の周りには首を縦に振ることしかできない役人ばかりだとか。
一般市民の私ですら知っているので、恐らくは有名な話なのでしょう。
でもメルボーンという名前を見た途端、胸の奥がどきりとして、いてもたってもいられない気持ちになりました。
一体どうして……? 国王陛下は、私が記憶をなくしたことと何か関係があるのでしょうか? 国王陛下と一般市民の私が?
判然としない感情に動揺していると、突然手にしていた新聞紙が上へ引っ張られました。驚いて頭を動かせば、いつの間にか旦那さまが私の後ろに立っていました。
いつも家に帰ってきたら、真っ先に私の名前を呼んで「ただいま」と言ってくれるのに。今日の彼は私を咎めるような目つきで一言も発さずに仁王立ちしています。
私は困惑して、身が竦んでしまいました。
あのう、旦那さま……?
不安げな目つきで旦那さまをじっと見れば、突然彼は新聞紙を握りつぶし、手のひらの上で跡形もなく燃やしてしまいました。
――――怖い。
自分でも分かるくらい青ざめていました。
どうしていつものように優しく私の名前を呼んでくれないのか。何が気に入らなくて旦那さまの機嫌を損ねてしまったのか。見当もつきません。
ほどなくして沈黙を破ったのはラプセルさんでした。
「シェリル~いい加減待ちくたびれましたよ~。ドーナツ、食べていい?」
テーブルの隅にちょこんと留まっていたラプセルさんはいつの間にか私の目の前まで移動していて、こちらを向くようにと翼を羽ばたかせます。すると口を閉ざしていた旦那さまが、ピョコピョコと飛び跳ねておねだりをするラプセルさんを見て、漸く口を開きました。
「……昨日こっそり角砂糖を食べていたでしょ? 砂糖の摂りすぎは身体に毒だし、食い意地張りすぎでは?」
「まったく。これだから青二才は~。こっそり食べる角砂糖と堂々と食べるドーナツの味は別物なんですよ~? それに、私は主にこき使われてるんだから甘いものを食べないとやってられないですよ~。少しは労ってもらいたいくらいです~」
講釈を垂れるラプセルさんに対して旦那さまは苦笑交じりにやれやれと肩を竦めました。ドーナツを食べやすい大きさに割ると差し出します。
ラプセルさんは嬉しそうにピョコピョコ跳ねながら旦那さまの手に近づくと嘴でつついて食べ始めました。
良かった。いつもの旦那さまです。私はほっと胸をなで下ろしました。
ラプセルさんがドーナツを食べ終わる頃合いを見て、銀の万年筆を使って空中に伝えたい言葉を書きます。
『今日 いつもより 早いです』
「久しぶりに仕事が早く終わったんだ。最近は帰りが遅くて食事もろくに一緒にできなかったね。これはちょっとした罪滅ぼし」
旦那さまは私の腕に植物がモチーフの金の腕輪をはめてくれました。私の髪と同じ金色の腕輪には、同じく私の瞳と同じ緑の貴石が一つ埋めこまれています。
『こんな高価なもの 受け取れません』
「大したものじゃない。これはお守りみたいなものだから肌身離さずつけておいて。月光に当てるともっといい。シェリルに精霊の加護があらんことを」
旦那さまが呪文を唱えるとぶかぶかだった腕輪の大きさが私の腕にぴったり合うように収縮してしまいました。これでは外すことはできません。
いつも贈り物は日用品以外断っていたので今回は先に手を打たれました。腕輪から旦那さまへと視線を移すと、してやったりな微笑みを浮かべています。
こうなってしまえばお礼を言うより他はありません。
『ありがとうございます 大切に扱います それと今日の晩ご飯はミートパイです』
旦那さまはミートパイという字を見て、ぱっと目を輝かせました。
「それはとても楽しみだなあ。今日の俺はツイている。だからできれば……隠し味に唐辛子は入れないで欲しいな」
「っ!?」
旦那さまは私の耳元に顔を寄せると悪戯っぽい口調で囁きました。
私の顔は火を噴いて、耳の先まで真っ赤になってしまいました。
パクパクと口を動かしながら、慌てて万年筆を取って空中に走り書きします。
『それ 半年以上前 意地悪です!』
半年以上前はまだ料理の基本すらまともにできない頃で、たくさんやらかしたのです。熱い頬を手で押さえて俯いていると旦那さまが私の頭を撫でてきました。
「揶揄ってみただけだよ。シェリルが俺のために頑張って作ってくれたものは、すべて俺にとってかけがえのない宝物だよ。いつもありがとう」
ああ、旦那さまの私を慈しむ眼差しが、どうしようもなく私の胸を焦がします。
もしも、声を発することができるなら旦那さまの名前を、私の想いを伝えたい。声が出せないのがもどかしくて、私はきつく目をつむって彼に抱きつきました。
けれどそれも束の間。旦那さまは私を優しい手つきで離すと、調べることがあると言って書斎に引きこもってしまいました。
いつもなら、帰宅したらまずはお茶の一杯を飲んで寛ぐのに。やはり、今日はどこか様子が変です。
そのことが気がかりで尋ねてみましたが、はぐらかされるだけでした。私は小さく息を吐くと仕方なく晩ご飯の支度を始めました。
きっとただの杞憂だろう、そう思って……。
けれど、その日を境に旦那さまの表情はどんどん険しくなっていきました。何かに追いつめられている様子で仕事へ行って帰ってきても以前のような柔和な雰囲気はなく殺伐としています。
少しでも力なりたくて私が何かあったのかそれとなく尋ねますが、やはりはぐらかされるだけでした。
私は旦那さまの奥さんなのに。私は旦那さまの力になりたいのに。
夫婦というものは病めるときも健やかなるときも、お互い支え合って生きていくものではないのでしょうか……?
結局何もできず、悶々とする日々が過ぎていきました。
「今日はおじじの他に誰か乗ってます~」
ある朝、ラプセルさんが朝食を食べながら配達のおじさんがこちらに来ていることを教えてくれました。
いつものようにランプを持って船着き場へ行くと、オレンジのランプを吊り下げた小舟が現れました。生活必需品が乗った荷物の上に、小さな女の子がちょこんと座っています。
「やあシェリルちゃん。今日は嫁さんの悪阻がひどくてね。娘も一緒に連れてきたんだよ」
娘さんはおじさんに船から降ろしてもらうとにこにこと笑いながら元気よく挨拶をしてくれました。
彼女は人見知りしない子で、まだ小さいのにとても聞き分けが良く、賢い子です。おじさんが荷物を運んでくれている間、私は相手をしました。すると、急に娘さんはこちらを観察するようにじっと見つめながら言いました。
「お姉さん、どこかで見たことあると思ったけど、思い出したわ。行方不明になってるお姫様、シェリエーナ姫よ!」
突拍子もないことを言われて、驚きました。
私がシェリエーナ姫? いいえ、私はシェリエーナではなくシェリルです。
否定を込めて首を横に振ると娘さんは大げさに肩を落としました。
「やっぱりそう、だよね。でももしお姉さんがシェリエーナ姫なら、私は島に閉じ込められた姫を救う騎士になれたのになあ」
彼女の呟きを聞き咎めました。私が、島に閉じ込められた姫?
私はこの島から出ることを禁じられてはいません。出たいとも思いません。
しかし言われてみれば、旦那さまはこの浮島に移ってから一度だって私を外へ連れだそうとはしませんでした。病院を退院してすぐにここに移ったので、街を二人で歩いたこともありません。
そのことが何故か引っかかって、私は二人を見送った後も思い悩みました。
退院しても当時はまだ本調子じゃなかったから……旦那さまは気遣ってくれたのかもしれません。悪い方に考えるのはよくないですね。
私は悪い考えを振り払うように頭を振りました。
いい加減、家事に集中しようと思い立ち、洗濯物を集め始めます。いつものように書斎へ行き、くたくたのローブを探し当てて部屋を出ようとしたとき――足下に二つ折りの紙がひらりと落ちてきました。
拾い上げた紙は一見何も書かれていません。これは魔法使いがよく使う手法です。秘密の文書は大体魔法をかけて見えなくしているのです。解除できるのは差出人と受取人、そして彼らの使い魔だけ。
いつもだったら見なかったことにしてやり過ごしますが今回ばかりは最近の旦那さまのこともあって、嫌な予感がするのです。
私は紙を持って居間にいるラプセルさんのもとへ急いで向かいました。ラプセルさんはこの時間帯、居間のソファで居眠りをしています。
ラプセルさん、ラプセルさん。この紙にかかった魔法を解除してください。
私はラプセルさんの前に紙を突き出します。
「……うん? なにこれ? かいじょ? カイジョ……」
うとうとしていたラプセルさんは一瞬だけ目を開けますが、再び眠りに落ちました。と、頭が下がった拍子に嘴が紙に触れ、白紙だった紙に文字が浮かび上がります。
私はお礼を言うと、その文面に目を通しました。
親愛なるエリクシス
あれの日は近い。準備は整っている。
すべてが終わるまであと少しだ。
そうすれば夫婦ごっこも終わる。
君は晴れて自由になれる。
だから、どうか我々を信じて最後まで協力して欲しい。
頭の中が真っ白になりました。夫婦ごっこ? 終わり?
困惑しながらも、心のどこかでその言葉を冷静に理解している自分がいます。
私のような声も記憶もなく、生活力もない娘を妻にしようと思う人はいません。かりそめの夫婦をするなら、奥さんらしい家事のできる別の誰かを雇えばいいはずです。その方が任務とやらには都合がいいでしょう。
じゃあどうして、旦那さま私を迎え入れたのでしょう?
――もし私が、シェリエーナ姫だったら?
先ほど娘さんに顔立ちが似ていると言われました。先日の新聞記事には、姫は未だ行方不明で捜索中だと書いていました。旦那さまは新聞記事を見て態度を豹変させました。
お姫さまは家事仕事なんてしません。私はここで生活を始めるまで、家事は壊滅的でした。そしてこの手紙には旦那さまを励ます言葉が書かれています。
導き出される答えは、どう考えても一つだけ。
私がシェリエーナ姫で、旦那さまは攫った犯人。そして任務のためにかりそめの夫婦になっている、ということです。
私の身体は小刻みに震え始め、その場に膝から崩れ落ちました。視界がぼんやりし始めて、前がよく見えません。気づけば瞳から涙が溢れていました。私は顔を両手で覆いました。
――本当はこんな手紙を読まなくても、旦那さまが私を好きじゃないかもしれないと薄々気づいていました。
だって、旦那さまは私に結婚指輪を贈ってくれなかったんです。一年経つのにキスだっておまじないのときだけで、唇にはしてくれないんです。
寝室だってずっと別。私が寝室のベッドで、旦那さまは居間のソファをベッド代わりにして眠っています。
本当は心のどこかで気づいていました。利用されているだけだって。でも夢のような時間が終わるのが怖くて、現実から目を背けていたんです。
「……っ」
自然と乾いた笑みが浮かびました。自分が滑稽で声を出して嘲笑ってやりたい。
私はなんてばかな女なのでしょう。
私はただひたむきに彼を想っていました。愛していました。そして、愛されていると思っていました。
旦那さまは優しいから私の想いを受け入れてくれます。でも、その想いを返してくれる日は永遠に来ないでしょう。
まだ夫婦になって一年の段階で、気づけてよかったです。傷が浅くてすみます。
そう思いたいのに切り裂かれるように胸が痛い。
胸元を押さえ、すすり泣いていると、玄関のドアが開きました。
「珍しく忘れ物をしてしま、って……シェリル?」
泣き腫らした顔をおもむろに上げれば、出かけたはずの旦那さまが息を切らして帰ってきていました。
彼は視線を動かして状況を把握しようとしています。やがて、私の側に落ちている手紙に気づくと、ばつの悪い表情をしました。
「シェリル、それ……」
『ごめんなさい 内容 読みました』
私は震える手で落とさないように万年筆を握り締めます。
『ここに書かれていることは 本当ですか?』
涙が出るのを堪えるように唇を噛みしめ、旦那さまから答えが返ってくるのをじっと待ちます。
「…………ごめん」
「っ!」
彼は口元に手をやって、私から視線をそらしました。
「仕事場へ持って行って処分しようと思ったのに。忘れて取りに戻れば一足遅かったみたいだね。その手紙を読んで分かったと思うけど、俺がシェリルを利用しているのは事実だよ。本当にごめん」
『どうしてこんなことをしたんですか?』
「それは、その……」
『私をここに連れてきたのは 私がシェリエーナ姫だからですか?』
すると、旦那さまからばつの悪い表情がすーっと消えていきました。この間の新聞記事の時と雰囲気が同じです。
「……一体、どこでそれを知ったんだい?」
優しさが一欠片もない、冷たい声。旦那さまは私に近づくと、しゃがんで視線を合わせてきます。
「知られてしまったから変に言い訳せず、本当のことを話しておくね。どうでもいい相手とのごっこ遊びはそろそろ限界だったんだ。……君はフィサリア王国のシェリエーナ姫。ウィンザリーへ嫁ぎにやってきたんだけど、王宮内で起きた事故に巻き込まれて瀕死の状態で倒れていたんだ。だから事故のどさくさに紛れて俺が攫ったんだよ。目の前に金のなる木が転がっていれば、誰でも手に取るよね?」
彼の口から直接聞かされた内容は、手紙よりも残酷でした。傷をさらに深くまで抉られたみたいに胸の痛みに鋭さが増します。
『私を攫って懐柔したのは お金欲しさからですか?』
金のなる木でしか、旦那さまの私は存在価値がないのでしょうか?
今まで頑張って覚えてきた家事は、旦那さまの喜んだ姿を見たかったから。私を助けて支えてくれた彼に、恩返しがしたかったから。
あの優しい旦那さまも全部嘘だったのですか?
目に涙を溜めて見上げると、旦那さまは困ったように笑い、私の頭に手を伸ばします。
「……そういうことになるかな。大丈夫だよ、シェリル。逃げようとしなければ、怖い思いはせないし、ちゃんと最後は無傷で解放するから。大人しくここにいて。何も不自由はさせない。君が望むなら、愛の言葉も囁くよ?」
「……っ!」
私は彼の手を払い除けて寝室に駆け込み、鍵をかけると泣き崩れました。
そんな言葉をかけて欲しかったわけではありません。それは優しさではなく、ただただ残酷な言葉です。
それから丸一日、私は寝室に閉じ籠もって一度も外に出ませんでした。ずっと部屋の隅で飽きもせず泣いていました。
あれから旦那さまは、一度も訪ねにきてくれません。ごっこ遊びは限界だったと言っていたので、私と顔をあわせるのも嫌なのでしょう。
彼のことを考えただけで胸が痛みます。でも、ずっとこのまま閉じ籠もっていても仕方ありません。
最後に話し合ってけじめをつけなければ……。
私はいい加減、涙を拭いて部屋の外へ出ました。
廊下に出ると家の中はしんと静まりかえっていて、ラプセルさんの姿もありません。今なら簡単に逃げられるのでは? ともう一人の自分が語りかけます。けれど、彼は上級魔法使い。
逃げられないよう対策を施しているはずです。そうでなければ、大事な金のなる木を自由にさせたりはしません。
未だズキズキと痛む胸を押さえながらキッチンへ水を飲みに向かいます。すると突然、家の中も外も真っ暗になりました。バリバリと何かの崩れる音が響き渡り、やがていつもの明るさに戻ります。
何が起きたのか分からず身を竦ませていると、窓のガラスが音を立てて割れ、黒い塊が床に転がり落ちました。
――それは、力なく倒れているラプセルさんでした。
「シェリル……あいつらが来る、隠れて……」
ラプセルさん! 何があったんですか!?
私は尋ねましたが、彼はそれだけ言うと、意識を失ってしまいました。と、同時に玄関のドアがこじ開けられ、複数の騎士が中に入ってきました。
「シェリエーナ姫がいらっしゃったぞ!」
「まさかフィサリアの秘宝をこんな辺境に隠していたなんて。……あの魔法使いも独占欲の強いことだ」
私は二歩ほど後ずさると、急いで寝室まで走りました。けれど、私の動作に気がついた騎士に行く手を阻まれます。
「姫様、怖がらなくても大丈夫ですよ」
敵意のない目から、あなたたちが危害を加えようとしないことは知っています。
「我々はあなたを救いに参ったのです」
分かっています。探しに来てくれてありがとうございます。
でも、ここを離れてしまったら、私は旦那さまと二度と会えなくなる気がします。あんな酷いことを言われても、あの人に会いたいんです。会ってちゃんと話をしたいんです!
「――シェリル!!」
いつの間にか、私と騎士の間に旦那さまが姿を現しました。彼は私の腰に手を回して抱き寄せました。
恋というものは恐ろしい。彼に名前を呼ばれ抱き寄せられて、こんな逼迫した状況なのに、不覚にも私の心臓はドクドクと脈打ちます。嫌われていようと利用されていていようと、そう簡単に私の心から旦那さまの存在は、消えてはくれないようです。
旦那さまは騎士たちに向かって威嚇魔法を放ちながら声を荒げます。
「どうしてだ! 話が違うじゃないか!」
「話が違う? 何のことだ? いつまでも我々が身代金の要求を素直に呑むとでも思ったか?」
旦那さまは舌打ちをして、手を前に突き出しました。再び魔法を発動させます。が、それが放たれるよりも先に、屈強な騎士に背後を取られ、手刀で気絶させられてしまいました。
「……っ!」
瞳には、ゆっくりと倒れていく旦那さまが映りました。私は彼に駆け寄って身体をゆすります。けれど、彼は何の反応も示しません。
「大丈夫です。ただ気絶しているだけですから。退いてください」
旦那さまに近寄ろうとした騎士を前に、私は柳眉を逆立てて立ちふさがりました。
旦那さまを助けなければ。その想いに突き動かされて、両手を広げます。
咄嗟に出た行動に自分でも驚きました。あんなに残酷な真実を突きつけられ、傷つけられたのに。さっきまであんなに泣かされていたのに。
どうして……?
自問自答すると答えはすぐに見つかりました。
だって彼は一度だって私に酷いことはしませんでした。いつだって私のことを大切に扱ってくれました。慈しんでくれました。彼の愛が嘘だったとしても、私を大切にしようという思いやりの心は本物でした。だから私は旦那さまを助けたいのです。
「姫様は懐が深い方のようですが、この罪人に同情する必要はありません。国王陛下から然るべき裁きを受けてもらいましょう。――暫くの間、大人しく眠っていてください」
「!!」
騎士はいつの間にか手に布を持っていて、それを私の鼻と口にあてがいました。途端にふわりとした嗅いだこともない甘い香りに包まれます。
それを吸い込んだ私は、誘われるように深い眠りに落ちてしまいました。
――シ……シェリ……。
誰かが私の名前を呼んでいます。
声に応えるようにうっすらと目を開けると、見たこともない金細工の煌びやかな天井が目に映ります。身体に残る倦怠感に苛まれ、手を動かすことも思考も巡らせることも億劫です。
ぼうっとした頭で暫く天井を見つめていると、突然視界に人影が映りました。
「目覚められました。シェリエーナ姫が目覚められました!」
白衣を着ている初老の男性がそう叫ぶと、私の頭の中の靄が晴れていきました。やがて、眠る前に起きた出来事を思い出した私は飛び起きて顔を真っ青にしました。
この豪奢な空間を見て、一目でお城の中にいるのだと分かりました。それはつまり、旦那さまも捕らえられ、投獄されていることを差します。
どうすればいいのでしょう?
苦悶の表情を浮かべていると、侍女たちが部屋に入ってきました。
旦那さまのことで頭がいっぱいで、とにかくまず自分がどのくらい眠っていたのか尋ねなくてはいけません。
しかし、ポケットに入れていたはずの魔法道具の万年筆が見当たりません。それどころか着ていた服もシルクの上質な生地のものに着替えさせられていました。
置かれた状況に戸惑っている間に、私は医務官に診察され、侍女たちに着替えさせられました。
今まで身につけたことのない上品なドレス。レースがふんだんに使われ、スカートには貴石や真珠が散りばめられて揺れる度にきらきらと輝きます。髪もブラシで丁寧に梳かされ纏められました。
「シェリエーナ姫、目覚められたばかりで申し訳ないですが、陛下より目覚められた際はすぐに政務の間へ来させるようにと仰せつかっております」
侍女の一人が淡々と告げると、私は陛下のもとへ連れて行かれました。
明るい部屋から長い廊下に出て、初めて今が夜なのだと気づきました。廊下の窓からは美しい満月が見えます。
ほどなくして、私は政務の間に通されました。
壁は深紅のビロードが張られ、金の糸で精霊信仰である証のアカンサス柄が刺繍されています。机の上には大陸の地図が置かれていて制圧した国々には赤いピンが刺さっています。
「こちらに来るがよい」
絶対服従が込められたような物々しい声に私の身体は強張ります。視線をまっすぐ向けると、筋骨逞しい男性が壇上の椅子にふんぞり返っていました。隣には金細工でできた鳥かごがあり、中には黒鳥が止まり木にとまっています。
守りを固めるように彼の後ろには二人の騎士が立っていました。
間違いありません。この人がメルボーン国王陛下です。
私は玉座にある程度近づくと足を止め、最敬礼をします。顔を上げるとさらに近くに来るよう手招きされ、私は緊張しながら彼の側へゆっくりとした足取りで歩きました。
「シェリエーナ。私の可愛いシェリエーナ。よくぞ、無事に戻ってくれた。ああ、前よりも線が細くなっているではないか」
陛下は私の手を握り締めると、労るように手の甲を撫でてくれます。が、節くれ立った大きな手はどこまでも冷たく、金壺眼の目は怪しく光っています。
「……っ」
触れられた途端、胸の奥がどきりと音を立てました。心臓の鼓動が速くなるのはどうしてなのでしょう。記憶を失う前の私は国王陛下が好きだったのでしょうか? でも、旦那さまの時の胸の高鳴りとは種類が違うような気もします。
とにかく今は喋れないことを打ち明けなくてはなりません。不敬に当たらないよう態度で示さなくては。
私がおずおずと口を開きかけると、陛下は手で制しました。
「よせ。わざわざ大事な声は出さなくて良い。記憶がなくなったという報告は受けているから教えてやろう。其方らフィサリアの女性王族は人前で声を出したりはせぬ。特にフィサリアの秘宝である其方はな。その奇跡の声は歌うためにあるのだ。私のために、もう一度歌っておくれ。ああ、精霊殿はあの忌々しい罪人のせいで吹き飛んでしまった。だが、もう場所など別に関係あるまい。其方さえいてくれればそれでいい」
精霊殿が吹き飛んだ? それに私の声が大事とはどういうことでしょう。
目を白黒させていると、脇に控えていた宰相が話をしてくれました。
私はフィサリア王国の姫でメルボーン国王陛下のもとへ身も心も捧げるために嫁ぎにきたそうです。そして私がフィサリアの秘宝と呼ばれる所以は、私の声に希有な魔力が宿っているから。
「フィサリアの女性王族の声には、彼女らしか使うことのできない古の精霊魔法が宿っています。それは精霊歌を歌うことで発動し、願いを叶える魔法です。シェリエーナ姫は五人の姫の中で最も強力だそうです。丁度去年の今頃、姫君は精霊殿にて我が国ウィンザリー王国の繁栄を祝して歌魔法を披露してくれました。しかし、フィサリアから連れてきた従者があなたを裏切り、逆罪を犯しました。それによって大規模な爆発事故が起き、精霊殿は吹き飛んでしまったのです」
私はハッとして陛下の顔を見ました。
いつの間にか手のひらに汗を掻いていました。その先の答えは想像に容易く、私は拳を握り締めながら心の中でどうして? と延々と呟きました。
宰相はゆっくりと口を開きます。
「――その従者の名は、エリクシス。姫君を拐かし、そして王国に身代金を要求した男ですよ」
目の前が真っ暗になりました。
もともと旦那さまは私の従者でした。それなら立場上、怪しまれずに私を城から王都の病院へ理由をつけて連れ出すことも可能です。
従者なら、私がどういう性格なのか把握しているはずです。
だって、記憶をなくしても私という人間そのものが変わってしまうことはないから……変わらない?
そこで私は弾かれたように、心の中であっと声を上げました。
そうです。旦那さまは優しくてとても誠実な方。私たちがかりそめの夫婦だとしても、私を愛していなくても、彼の性格は変わらないはずです。
私は自分の鼓動が速くなるのを感じながら、手紙の内容を思い返しました。
あの手紙の送り主が旦那さまに対して激励をしていました。
もし手紙の内容が、夫婦ごっこが嫌になっている旦那さまに対して我慢してくれというものではなく、協力を募るためのものなら彼は…………私を裏切ってなんかいない。
「のう、シェリエーナよ」
今まで椅子の肘掛けに肘をつき、退屈そうに話を聞いていた陛下が私に話しかけました。
「私はとても心が広い人間だ。だから其方にどうするか選ばせてやろう」
国王陛下が手を叩くと政務の間の扉が開きます。金属のぶつかる音と怒号が聞こえてくると、衛兵に引きずられるようにして旦那さまが連れてこられました。
美しかった彼の顔は殴られて醜く腫れ上がり、口の端からは血が滲んでいます。身体の至るところに傷や殴られた痕が痛々しく浮き出ていました。
手枷には魔力を吸収する石がはめ込まれていて、それによって魔法を封じられているようです。
旦那さまは息も絶え絶えで、立っているのがやっとな状態でした。意識朦朧としていて気を失いそうになると、衛兵が鞭で何度も叩いて覚醒させます。
鞭の乾いた音と、旦那さまの痛みに耐える呻き声が、部屋に響き渡りました。
凄惨な光景に、私はきつく目を閉じて顔を背けました。
「シェリエーナ。記憶をなくして忘れたかもしれないが、其方は私にとても惚れていた。私も其方が可愛くてしかたがない。だから其方に決定権を委ねるのだ。さあ、シェリエーナ、自分を裏切った従者をどのようにいたぶって殺す?」
私の背筋には冷たい戦慄が走りました。
陛下は観劇でも観ているかのようにとても愉しげで、残酷さを知らない子供のように無邪気です。
――狂っている。
ぽつりと心の中で呟きました。私は本当にこの人のことが好きだったでしょうか?
いいえ、そんなことあるはずがありません。
民を蔑ろにし、傍若無人に振る舞うこの凶悪な男に尽くしたくありません。
「そうだ。精霊歌で其方の考える殺し方を再現してみよ。それも一興だと思わんか?」
私は陛下の後ろに控えていた騎士に無理矢理旦那さまのもとへ連れて行かれました。陛下はああ言いますが、私はもう声が出ません。歌を歌えないと知ったら、どんな目にあうのでしょう。
「シェリエ……さま。もう……申し訳ござ……ゴホッ」
旦那さまの口から大量の血が溢れ、その場に崩れ落ちました。今の発言から、彼が私を裏切ってはいなかったことに確信が持てました。
頭を床にぶつけないよう、私は咄嗟に両手で包み込みます。それに応えるように彼は私の手に自身の手を重ね合わせ確かめるように何度も触ってくれます。
こんな状況だというのに、旦那さまの手は温かくて安心感があって、冷え切った心を包み込んでくれます。さきほど陛下に触れられたときは怖くて心の芯までもが凍えそうだったのに。
記憶はなくても、本能が私に本当の答えを示してくれている。
私は旦那さまににっこりと笑みを浮かべ、額にキスをしてから離れました。彼は驚いて目を見開きます。
「姫……っ」
ごめんなさい旦那さま。
従者としてずっと、主人である私を守ってくれていたんですよね。あなたは私を裏切ってはいなかった。逃亡中、姫として接することは難しかったから、夫婦という怪しまれない手段を取ったのでしょう?
それからあの手紙、あれは良心の呵責に耐えられなくて悩んでいるのを送り主に励まされたのではないでしょうか? 旦那さまは優しくて、誠実な方だから。
あなたがこれ以上、私のせいで傷つくところは見たくありません。
私は口元を動かして、彼にお礼の言葉を口にしました。そして、後ろを振り返って陛下を睨みつけます。
泰然として構えていた国王陛下がぴくりと身体を動かし、立ち上がりました。
「ほう。どうやらシェリエーナはその罪人に洗脳されているようだな」
彼は壇上から降りて大股でこちらに歩いてきました。渋面を作り、私の胸ぐらを掴むと怒号を浴びせます。
「いいか小娘、貴様が仕えて尊ぶべき男はこの私だぞ? この世界の覇者となるべくして生まれてきたこの私なのだ! こんな死に損ないではない!!」
「……」
私が冷ややかに睨みつけると、その様子に虫唾が走った陛下は私の手首を掴み、腕をへし折る勢いでねじり上げてきました。
腕に激痛が走ります。でも、旦那さまが受けた拷問に比べればまだまだ耐えられます。
「泣いて謝ってももう遅いからな。貴様は不敬罪でなぶり殺してやる!」
陛下はさらに力を込めるため、私の腕を掴み直します。彼の手が腕輪に触れました。
その瞬間、腕輪から激しい稲妻が起きました。雷鳴のような轟きに空気が揺れます。同時に腕輪は粉々に砕け、キラリと光った緑の貴石からは、黒鳥が姿を現しました――ラプセルさんです。
陛下は私の腕をへし折ることも忘れ、現れた黒鳥に口をあんぐりと開けています。
やがて、震えるような声を絞り出しました。
「どういうことだ。おまえは、おまえはあの鳥かごの中に閉じ込めているはず。何故おまえがここにいる?」
鳥かごに視線を向けると、確かに黒鳥がいます。が、中の黒鳥はたちまち木彫りの人形に変わってしまいました。
「何故? それはね……」
ラプセルさんは空中で羽ばたきながら、目を細めて陛下を見下ろしています。陛下は慌てて長剣を取りに引き返しました。
「王位を簒奪し、私に呪いをかけたあなたから、すべてを取り戻すためだ!」
彼は空中で黒鳥の姿から人の姿に変化しました。金髪碧眼の青年となり、腰に下げていた長剣を抜くと陛下の肩から心臓を貫きました。
血が吹き出る瞬間を目の当たりにした私は、恐ろしくなって顔を背けます。
部屋には断末魔の叫びが響き渡りましたが、それは一瞬のことでした。すぐにどさりと床に倒れる音がします。
恐る恐る、顔を向けると絶命した陛下の身体が横たわっています。
この場にいる誰一人として陛下を助けようとはしませんでした。それどころか人間の姿になったラプセルさんを前に、全員が跪きます。
「ハルバート殿下、あなたさまのご帰還を大変喜ばしく思います」
宰相がそう告げると、ラプセルさん――ではなくハルバート殿下は淡々と指示を出して事後処理に入られます。
「メルボーンは死んだ。死体を速やかに片づけるように。エリクシス殿には治療魔法を施してくれ。あと、たこ殴りにした輩は捕らえて牢屋に入れておけ。彼は私の呪いを解く手助けをし、この国を救ってくれた救世主。傷つけることも死なせることも許さない」
騎士は短く返事をすると、旦那さまを運び出します。
慌てて私もついていこうとすると、ハルバート殿下に呼び止められました。
「姫君とは話すことがある」
殿下は新しい椅子を二つ持ってこさせると、私に座るように言いました。互いが椅子に腰掛けたところで、殿下が謝罪の言葉を口にします。
「恐ろしい思いをさせて申し訳ない。いろいろと混乱しているだろうし、まずは私のことから話しておこうか。私の本当の名はハルバート・ウィンザリー。この国の次期君主であり、先王の息子だ。五年前に父が病死し、私は王位を継ぐはずだった。だが叔父であるメルボーンによって戴冠式前日に呪いをかけられた。ウィンザリー王家とフィサリア王家は絶対使ってはいけない禁術の魔法がある。我が王家の禁術は、人を半精霊にする呪い。呪われた者は呪った相手が死なない限り一生隷属の身になるというものだ。私はメルボーンの命令で鳥かごから外へ出ることは許されず、国が傾いていくのを見守ることしかできなかった」
殿下は穏やかな表情で話してくれていますが、今日を迎えるまで五年もの歳月がかかっています。その間にメルボーンが起こした数々の戦争。民を顧みない行いを見て万斛の涙を注いだことでしょう。
私はふと一つの疑問が生じました。
殿下は彼を殺して呪いを解く前に人間の姿になりました。人間の姿にもなれるのに何故、今までずっと鳥の姿をしていたのですか?
私は彼の顔をじっと見つめて尋ねます。しかし、彼は肩を竦めて困ったような表情を浮かべました。
「申し訳ない。呪いを受けていた間の私は半精霊だったからあなたの考えが読み取れた。だが今はもうただの人間だ。魔法道具の万年筆を持ってこさせるから、それまで私が詳しく説明する。その後に質問してくれるか?」
今までと同じように接していることに気づかされ、私は慌てて頷きました。殿下は再び話してくれます。
呪いは満月の夜に限り、一定以上月の光りを浴びれば人間の姿に戻れるというものでした。呪いを受けた後、すぐにメルボーンによって鳥かごに入れられ、暗い部屋に閉じ込められたそうです。隷属の身になってしまった以上、相手の言うことは絶対。出ることが許されない鳥かごでただ時間だけが過ぎ、何もできない自分に絶望したそうです。
「虚無に心を呑まれ死を渇望し始めた時、姫君とエリクシス殿がやってきた。エリクシス殿はメルボーンの隣にある鳥かごを一目見て、中の鳥が私だと気づいていたようだ。彼はフィサリアでも五指に入ると言われる上級魔法使いだから。ただ、問題は鳥かごから救い出されたとしても、メルボーンの声を聞いたら、私は再び逆らえなくなってしまうこと。だからエリクシス殿に頼んで呪いの抜け道を使った。上級魔法使いである彼と半精霊である私だからできる、精霊契約だ」
呪いと違って精霊契約は精霊王の強い加護を受けられます。魂の結びつきによって呪いの主従関係よりも強い絆で上書きされるので、殿下は自由がきくようになりました。そして、旦那さまが作ったダミーの黒鳥を鳥かごに入れて脱出したそうです。殿下は王家の禁術を知っている宰相や一部の騎士たちによって、王位を取り戻すための計画を立てたそうです。
「もともとウィンザリー王家とフィサリア王家は傍系だ。だから互いの禁術なども詳しく知っている。互いが争って国を二つに分断したわけでもないからね。フィサリア王はこちらの状況を全て見抜いていらっしゃった。だからあなたがたをこちらに送り込んだんだ。国を救うために。そして――姫君に精霊歌を歌わせ、メルボーンを破滅させるために、ね」
丁度、宰相が万年筆を持ってきてくれたので、私はそれを受け取って質問しました。
『フィサリア王家の禁術、歌魔法とは一体どういったものなのでしょうか?』
「歌魔法は精霊歌を歌って、対象者を破滅へ導く呪いだ。しかし、歌を途中で終わらせてしまうとそれは歌った本人とその周囲に跳ね返るという制約つき。一年前の事故は、あなたが途中で歌をやめたから起きてしまった」
一年前の事故、それは私が記憶と声を失った事故のこと。殿下の話から、あれは私が起こしてしまったことになります。
どうして歌をやめてしまったのでしょう。
記憶をなくす前の私は自分の行いで、どれほどの人が傷つくか分かっていたはずです。
自身の身勝手な行いに胃が握りつぶされるような痛みを覚えました。
額に冷や汗をかいて、私は膝の上に乗せた拳をきつく握りしめます。
「話は最後まで聞くように。途中で歌えなくなったのは、エリクシス殿が陰で妨害したからだよ。姫君を救うためにね」
私を救うため?
私が二度目を瞬けば、殿下は分かるように言いました。
「歌魔法は相手を破滅に導けたとしても、その代償として歌った本人は命を奪われてしまうんだ。フィサリア王はそれも承知であなたを送り込んだ。姫一人の命とウィンザリー王国の国民の命。それを天秤にかけ、後者を選んだ」
私は目眩を覚えて椅子の背に身体をつけました。
記憶をなくして、フィサリア王がどんな人なのか思い出せません。けれど、彼が良き君主であることは確かです。私が王様なら、少ない犠牲の方を取ります。合理性に基づけば誰でもきっとそうするはずです。
それならどうして旦那さまはそうしなかったの……?
心の中で疑問を呟いていると、殿下は答えてくれました。
「エリクシス殿は歌を止めた。それはどんな形であれ、あなたには死なずに生きて欲しかったからだ。私も、姫君を犠牲にしてまで王位を取り戻したくはなかった。だから、彼の考えに乗ることにした。王位を取り戻す計画には資金も必要だったから。姫君を攫って身代金を要求する形にしたんだ。宰相に頼んで、姫君の精霊歌はなんでも願いが叶う力があると吹聴しておいた。おかげで、ある程度はスムーズに動いたな。最後はエリクシス殿とこちら側で相違があって揉めた。無理矢理決行したけどね」
『どうして 揉めたのですか?』
「……それは姫君、エリクシス殿がこのままあなたを危険な目に遭わせずに事態を終わらせたいと言ったからだ。私からすれば姫君をメルボーンにぶつけなければ決着はつかないと考えていた。意見が違ったんだ。彼にとって最優先事項は、姫君の安全。毎日熱心に精霊の加護のおまじないをしていたのも宮廷魔法使いに気づかれないためだ」
あの毎日のおまじないには目くらましの効果があったようです。いつも熱心にされると思っていましたが、そういった経緯があったのですね。
「それから彼の最後の望みは、姫君が幸せになること」
殿下は言い終わるが早いか席を立ち、突然私の前で胸に手を当てて跪きました。
私はその光景に青ざめました。
これは、精霊王の名の下に男性が女性に誓いを立てるときの姿勢。つまり、結婚を申し込む時にするものです。
「私は救世主であるエリクシス殿の願いを聞き入れなくてはいけない。彼の望みは、私がシェリエーナ姫と結婚すること。何不自由なく心穏やかに過ごせることを誓う」
殿下の言葉を聞いて、全ての謎が解けたような気がしました。
旦那さまが妻として迎え入れてくれても、一向に触れてこなかったのは私を傷物にしないため。
全部、私の将来のためだったのです。私が殿下と問題なく結婚できるように。幸せになれるように。
ここで一つ思い出したことがあるんです。旦那さまは何か隠しごとや嘘を吐くとき、口もとに手を当てるんです。
手紙を読んで、旦那さまに酷いことを言われたときは気が動転していました。でも今思い返せば、旦那さまは口もとに手を当てていました。
私は嗚咽を漏らしながら、涙を流しました。
旦那さまの嘘つき。嘘つき嘘つき嘘つき。
金のなる木だから攫ったとか、どうでもいい相手とのごっこ遊びとか。わざと遠ざける言葉を選んでいた。
全部私の幸せを思って吐いた嘘。
そんなの、全然嬉しくありません。全然幸せになんてなれません。
記憶をなくした私はもうシェリエーナではありません。シェリルです。
私が、私が一緒にいたいのは従者じゃないエリクシスさまです。私の旦那さまのエリクシスさまです。
おばあさんになっても一緒にいたいのは、旦那さまだけなんです。
ボロボロと涙を流して泣いていると、殿下が私の手を取って柔和な表情で言いました。
「ねえ、シェリル。これは私からの提案なんだけど――」
殿下と話し終えた後、私は急いで旦那さまのいる部屋へ案内してもらいました。足を踏み入れると、ベッドの上で横になっている旦那さまの姿があります。治癒魔法で傷は癒え、あとは体力が回復するのを待つだけのようです。
私はベッドに駆け寄ると、そのまま旦那さまの胸の中に飛び込みました。
いつもはこんな大胆な行動なんて恥ずかしくて取りません。でも、こうでもしないと旦那さまはまた私を遠ざけます。
案の定、旦那さまは私の行動に動揺して、目を白黒させていました。
「シェリっ……姫様!? いけません。すぐに俺から離れてください。こんなところを殿下に見られでもしたらっ!」
私は旦那さまの身体にしがみつき、嫌だという意志を込めて首を横に振りました。
エリクシスさま、と私は唇を動かして旦那さまの名前を呼びます。彼は私の唇の動きに反応して「はい!」と短く答えます。
私は彼をじっと見つめて、さらに唇を動かしました。
『エリクシスさま。私はあなたが好き。――大好きです』
旦那さまは今までにないくらい動揺して、耳の先まで真っ赤になっています。
殿下は私に秘密を教えてくれました。旦那さまは、私が言葉を話せなくなった日から読唇術を身につけた、と。
ずっと私の言葉は旦那さまには届かないと、勝手に思いこんでいました。だから彼の前ではほとんど口を開きませんでした。が、そうではなかったのです。これは私の過ちです。声がでなくても心の声を口にしていれば、きっと旦那さまとこじれることはなかったのです。
旦那さまは耐えられなくなったように顔を伏せると、頭を抱えます。
「シェリエーナ姫……どうして。俺は、あなたの幸せを望んでいるんです。ただそれだけなんです」
『その幸せにあなたが含まれていないのは私にとって不幸です。私はあなたの側にいたいです。主従関係でもかりそめでもない、本物の夫婦として私はあなたの側にいたいです』
「そん、な! 俺はもう殿下と約束をしたんです」
『エリクシスさま』
私は彼の目をまっすぐに見つめて、殿下と二人で決めたことを話します。
『救世主はあなただけじゃない。私もこの国の救世主で、そして私はあなたの主です。殿下には私のお願いを聞き入れていただきました』
「まさか……」
旦那さまは私の意図に気づいて目を見開き、息を呑みました。やがて泣き出しそうな顔を手で覆います。
殿下にお願いを聞き入れてもらった瞬間から、私はもうシェリエーナ姫ではありません。ただのシェリルです。あなたが攫ったのはただの女の子ですよ、旦那さま。
「そんなのずるい」と涙を流して反論する旦那さまの頬を、私は両手で優しく包み込みます。
そして幸せに満ちた表情で、旦那さまの「ずるい」という言葉を塞ぎました。