Killing Me Softly
どんなに頑張ってみても人は道具ナシじゃ鳥のように空は飛べないし、魚のようにずっと水の中で泳げない。津波や地震は避けられないし、人類は自然の営みには抗うことができない。戦争は繰り返されるし、好きあった人々はベッドで愛を交わす。わたしと優くんは煙草をやめられない。つまりは、そういうことなのだ。
2人とも煙草を忙しなく吸うから、席に着いて30分も経つと、わたしたちの前に置かれた小さい灰皿はたちまち吸殻の山になった。渋谷に最近できた、このカフェの喫煙スペースはテーブル4席だけの狭い空間で、席はすべて埋まっていた。換気扇では処理し切れないほどの煙が辺りに充満していた。
わたしは向かいに座る恋人に煙がかからないように横を向いて吐き出すけれど、送風機の風がわたしの真後ろから吹くからどうやっても恋人に煙が少し当たってしまう。ごめんなさい、と言ったら優くんは、ぜんぜん気にしてへんよと、いつものように素っ気なく、でも優しさのこもった声で返した。
わたしは優くんの3個上。たった3歳の違いでもたまにそれはとてつもない距離を感じる。この間も中学生の時にみていたドラマの話で盛り上がったけど、長澤まさみがヒロインだった学園ドラマを挙げたら、それは小学生の時にちょっとだけ観たと優くんは言った。わたしはその頃、とっくに生理もはじまっていたし、恋もしていた。でも優くんはきっと精通もまだはじまっていなかったに違いない。わたしはそんなことを考えるとひどく憂鬱になる。まるで宇宙に置き去りにされたお婆ちゃんのよう。
「煙草切れちゃった」わたしは今日20本目のハイライトメンソールをもみ消した。
おれのあげる、と優くんが青色の箱のハイライトを差し出した。ありがとう、わたしはそこから一本抜き取って、口にくわえ、火をつける。一口吸うと、ガツンとした刺激が脳を直撃する。
わたしはわたしの斜め前のテーブルに座る男の人をみた。30代くらいの筋肉質で、浅野忠信みたいに髭を生やしていた。
優くんはさっきからずっとスマホを触っている。わたしも優くんも浅野忠信が主演の「Helpless」が好きだった。ねえ、あそこに座っている男の人、浅野忠信みたいじゃない? とわたしは優くんにそっと小声で伝えた。優くんはスマホから目を離して、そうかな、とボソッと言った。優くんが髭を伸ばそうと試行錯誤しているけど、なかなか生えてこないことをわたしは知っている。
わたしは優くんが好き。
優くんとわたしを結びつけているのは間違いなく煙草とセックスだ。
わたしたちは同じ大学に通っていて、学内の喫煙所で出会った。火貸してくださいと優くんがわたしに声をかけたのが会話のはじまりで、それからも度々、喫煙所で顔を合わすようになって、時々デートするようになり、鳥貴族で焼き鳥を食べた帰り道に、公園で初めてキスをして、その夜に、ありきたりの関係になった。恋をした。
性行しているとき、優くんはわたしの首をしめつけた。やめてと言っても少し力を緩めるだけで全然やめようとしなかった。それでもわたしと優くんの身体的合性は画期的なほど抜群だった。首をしめつけられるのもいつしか快感に変わっていった。吸えなかった煙草が気づけばやめられなくなるように、わたしはどんどん優くんに染まっていった。
今年、優くんは大学を退学した。無気力になり、就職もせず、夏になってもだらだらと過ごしていた。少し音楽ができるからと、さいきんはヒップホップのミュージシャンになろうと頑張っている。いまもスマホのメモ帳に歌詞の韻を書き込んでいるに違いない。どうしようもない男に惚れちまったわたしはもっとどうしようもない女だ。先月、大学卒業してから1年3ヶ月勤めたアパレルの販売員をやめた。いまはわたしも無職だ。
「下賤なる悪臭と野蛮なる行為」「目に忌まわしく、鼻に厭わしく、脳に有害にして、肺に危険な悪習」。
15世紀に英国王のジェームス1世が発表した「タバコ排撃論」の中の一説だ。名文だと思う。誰がなんと言おうと煙草は有害だ。吸う人にも吸わない人にも忌まわしい存在。その後、高すぎる関税から密輸入が増えて、逆に英国の喫煙率は増えたというが。
ジェームス1世の努力も水の泡となったが、歴史は繰り返されるように、いつかまた彼のような人物が現れるのだろう。そして一度は喫煙行為は廃止されて、また再興するだろう。
人と煙草は切っても切れない腐れ縁だとわたしは思う。
とはいえ、わたしは現在世界中で行われている禁煙運動は受け入れるつもりだ。だって、わたしも煙草を吸わなかったら、喫煙者なんて、目障りだし、街の片隅の狭い部屋に押し込みたいと思う。
それでもわたしは、わたしの財力が許す限りハイライトメンソールを買い続けるし、吸えるところならいつでもどこでも忙しなく煙草を喫むだろう。
エアコンが効きすぎてすこぶる寒さを感じる。出よう、わたしは立ち上がり、優くんの腕を引っ張った。「カラオケ行こか」いい感じのリリックできたから聴かせたるわ。優くんはプラモデルで遊ぶ小学生みたいな顔をしていた。わかった、行こ。楽しみにしている。わたしと優くんは、狭くて薄暗い喫煙スペースから、8月の眩しくて、蒸し暑い渋谷の街に出た。わたしは優くんの手を握った。
わたしはニコチン中毒。カフェイン中毒で、たぶんセックス依存症。優くんなしじゃ生きていけない。ただいまの貯金残高、7万3000円也。