悪霊の沼地
――悪霊の沼地。
五年前、森の中に突如出現したその場所を、人々はそう呼んだ。
世界で最も危険とも言われる場所でもある。
通常、土地の危険度とは、気候、地形、そして出現する魔物の危険度によって決定される。そして、厳しい環境であればあるほど、出現する魔物が強力になる傾向があった。
しかし、悪霊の沼地に魔物はいないとされていた。にもかかわらず、世界屈指の危険地帯と言われる理由は、過酷という言葉さえ生温いほどの環境にある。
まず、沼地の上空は常に雲が覆い、そこから雨が絶えず降っている。これだけでも異常だが、雨は猛毒で、触れれば命はない。
加えて、沼地全域に毒の霧が立ちこめており、吸い込めば当然命はない。
さらには、至る所に底なし沼が点在しており、はまれば飲み込まれ、やはり命はない。
この地獄のような環境ゆえ、悪霊の沼地は魔物が存在しないにもかかわらず最高ランクの危険地帯に認定されているのだ。
「――というわけで、悪霊の沼地は絶対に生き物が住めるはずがないんです!」
セーラの説明に、アルフレッドは首を振って反論する。
「だが、実際に俺はそこに住んでいる」
「もし仮にそうだったとしても、アルフレッドさんの家にたどり着く前にわたしが死んじゃいますよ!」
「それなら問題ない」
そう言ってアルフレッドは、腰のポーチから包帯のようなものを取り出してセーラに渡した。彼が顔に巻いているのと同じものだ。
「抗毒布だ。これを巻いておけば、霧を吸い込んでも死ぬことはない」
「……ああ、なるほど。そういうことでしたか」
毒を防ぐアイテムがあるから、アルフレッドは悪霊の沼地も平気なのだろう。そう思ったセーラは、アルフレッドにならって渡された抗毒布を顔に巻いた。
そして、アルフレッドの後に付いて左の道をしばらく行くと、少し開けた所に出た。木の看板がぽつんと一つ立っており、そこには「危険!これより悪霊の沼地。命が惜しければただちに立ち去るべし!」と書いてあった。その先は霧が立ちこめ、何も見えない。どうやらここが悪霊の沼地の入り口のようだ。
「こ、この看板はアルフレッドさんが立てたんですか?」
「いや、ギルドの者だ。万が一、間違って入ってくる者のないようにと」
「わたしでさえ知っていたくらいですし、悪霊の沼地の名を知らない人はいないでしょうからね」
「……そんなに有名なのか?」
「ええ、それはもう。悪霊の沼地の名を出せば、泣く子も黙ると言われているんですよ?」
「……そうなのか。俺にとっては庭のようなものなのだが」
「……悪霊の沼地を庭だなんて言う人は、アルフレッドさんくらいですよ」
「……まあいい。もう少しで家だ。ついてこい」
「は、はい!」
そして二人は、悪霊の沼地へと足を踏み入れるのだった。
沼地の内部は、噂に違わず地獄のような有様だった。
まず、なんといっても視界が悪い。霧のせいで、セーラは五メートル先すら見通すことができなくなってしまっていた。だというのに、アルフレッドはまるで霧などないかのようにすいすい進んでいく。おかげでセーラは、何度もアルフレッドに止まってもらうようお願いしなければならなかった。
さらに厄介なのは、底なし沼だ。道中何度かアルフレッドが教えてくれたが、セーラには他の地面とまったく見分けがつかなかった。
だがそもそも、絶えず降り続ける毒雨と毒霧をどうにかしなければ、沼にはまるどころか歩き回ることさえできないのだ。ちなみに、地面までもが毒素が沈着したことにより、毒性を帯びている。したがって、泥が跳ねるだけでも危険極まりない。
構成するものすべてが、毒。
生物拒む毒地獄。それが悪霊の沼地と呼ばれる場所の正体であった。
セーラは自分が今いる場所の危険性を、改めて実感した。
そして、前を行くアルフレッドの背中を見つめ、こう思うのだった。
彼はいったい、何者なんだろう、と。
「……抜けたぞ。あれが俺の家だ」
「え? ――わあっ……!」
沼地に入り、アルフレッドについて歩くことおよそ二十分。唐突に霧が晴れ、現れた景色にセーラは目を奪われた。
湖の真ん中に、家が浮かんでいた。正確には、湖の真ん中に浮き島があり、そこに家が一軒、建っていた。湖には半径一メートルほどの巨大な蓮の葉がいくつも浮かんでいる。水は青く澄んでいて、月明かりを受けて輝いている。湖を囲むようにスズランが咲き乱れ、辺り一面、爽やかさの中に微かに甘さの混じった、なんとも言えぬ華やかな香りで満ちていた。
まるでお伽噺のようなその光景に、セーラはしばし言葉も忘れて見惚れていた。
空を見ると、この場所だけ晴れるよう、雲に円形の穴が空いていた。
どう考えてもおかしいが、それよりも目の前に広がる光景に圧倒されて声が出ない。歩き通しで疲れていたはずだが、そんなものはどこかへ吹っ飛んでいってしまった。
「……こ、ここ、ほんとにあの『悪霊の沼地』なんですか……?」
「? よくわからんが、沼地の外には出ていない」
やっとそれだけ絞り出したセーラに、素っ気なくそう答えると、アルフレッドはすたすたと歩き出した。慌ててついていくと、アルフレッドはためらいもせずに蓮の葉に乗り、葉を伝って家に向かって歩いていく。
「あ、アルフレッドさん! これ、落ちたりしませんか?」
「落ちることはないし、万一落ちても下はただの水だ。問題ない」
おそるおそる、葉に足を乗せる。まるで地面の上にいるようで、葉はびくともしない。安堵のため息を漏らしたあと、セーラは葉を渡って家の入口で待つアルフレッドの元にたどり着いた。
「部屋は、空いているのが一つあるから、そこを好きにしてくれてかまわない」
「ありがとうございます。……あのう、お風呂はどうしたら……」
「あとで用意する。その前に夕食になる。もうできているはずだ」
「本当にありがとうございます。何から何まで――」
そこまで言って、セーラは今のやりとりのおかしなところに気がついた。
――もうできている? 夕食が? 今帰ってきたところなのに?
その時、入口の扉が開き、一人の人物が現れた。
「おかえりなさいませ、アルフレッド様。それと、見慣れぬお客様。色々とお話はあるでしょうが、まずはお夕飯にいたしましょう?」
透き通るような白い肌、すらりとした細身の手足、華奢な腰に豊かな胸元。
青い瞳に青い長髪の、エプロン姿の絶世の美女が、にっこり笑ってそう言った。