風の使徒と強欲の魔神
夏風邪にやられました。みなさんも体調にはお気をつけくださいね。
メルヴィナを街に送り届けた後、アルフレッドは仲間達と合流すべく森を駆けていた。しかし、それに待ったをかけた者がいる。精霊たちだ。
四大精霊と呼ばれるもののうち、風を司るとされるもの。手のひらに乗るくらいの、羽根の生えた小さな子どもたち。無邪気に笑い、森を飛び回る自然の体現者。
彼らはみなアルフレッドの袖を引き、別の方向を指し示した。
「……なんだ。あっちへ行けというのか」
精霊たちは「そうだ」と言いたげにアルフレッドの周りをくるくる回る。いや、実際そう言っているのだが、それが音として発せられることはないので常人には普通は理解できないし、そもそも並の人間には精霊は見えないので彼らを認識すらできない。
しかしアルフレッドは精霊を友とし、彼らの声なき「言葉」を聞くことができる。わずかに逡巡したのち、アルフレッドは進路を変えた。森そのものでもある彼らが行けと言うからにはそうするべきなのだろう、と考えてのことだ。
背中から伸びた<毒肢>を駆使し、森を突き進む。
どれくらい進んだだろうか。やがて、アルフレッドは小さな池のほとりに出た。
「……なんだ、これは」
そこには、異様な光景が広がっていた。
池の周囲は薄い膜のようなものに覆われており、池の底にはおびただしい数の蜘蛛人の石像が沈んでいた。
「……」
視線を池の底から外すと、そこには鎖で雁字搦め(がんじがらめ)にされた一本の樹が生えていた。そして、樹には一人の女性森妖精が繋がれていた。
「……やはりな」
どこか腑に落ちた様子で呟き、アルフレッドは内部へ入ろうとしたが、それは叶わなかった。膜に阻まれたのである。
「ぬ……」
ある程度進むまでは膜は何の抵抗も示さないのだが、そこから先へ行こうとすると凄まじい力で押し返してくる。拳で何度か殴りつけてみたが、いずれもはね返されるだけだった。
「おそらく魔法的なものだろうが……今の俺では破れんか」
悩んだのは一瞬、アルフレッドは静かに決意した。
「一撃だけなら問題なかろう」
そしてアルフレッドは、力を解放した。
「<蝕毒活性>」
「う……」
「いつまで寝ている。起きろ」
地面に横たえたエルフを起こすアルフレッド。彼女はゆっくりと目を開けて、周囲を見回した。アルフレッドを視界に捉えると、彼女は蕩けるような笑みを浮かべた。
「アルフレッド……ありがとう。あなたが助けてくれたのね」
男なら誰もが見惚れてしかるべき笑みだったが、アルフレッドの鉄面皮は崩れない。
「まあな。お前ほどの者が不覚をとるとは、相手は相当な実力者だろう……違うか、ライラ」
ライラ・テイルウインド。『原初のエルフ』と呼ばれ、森の守り神として信仰される存在。
尖った耳、シルヴィアと同じ若草色の絹糸のように滑らかな髪、白磁の如き白い肌。
アルフレッドの瞳が紫水晶なら、彼女の瞳は翠玉か。
緑の瞳を細めて、忌々しげにライラは言った。
「ええ、大結界の維持に力の大半を回しているとはいえ、油断したわ……。相手は――」
そこでライラは言葉を切った。同時にアルフレッドは背後を振り返る。
何の前触れもなく、背後の地面に魔方陣が出現していた。そこから恐ろしい気配を放ちながら、一人の悪魔が姿を現した。
「――そちらの子ははじめましてねえ。わたしは『強欲』の魔神、マルグリット・グリーディア。よろしくね♪」
口元に蠱惑的な笑みを浮かべ、聞く者の骨の髄までどろどろに蕩かしてしまいそうなほどの甘い声で、金色の瞳の悪魔は挨拶した。目眩がするほどの色香と同時に、物理的に「圧」を感じるほどの、まさしく格の違う存在感を見事なまでに受け流しながらアルフレッドは問うた。
「『強欲』の魔神……あのとき感じた視線はおまえのものだったか」
「あら、やっぱり気付いてたのねえ? お仲間も含めて、中央都市での戦いは見事だったわあ。あなたに負けた子、とっても悔しかったみたいで、次は勝つって魔界で意気込んでたわよ?」
「興味無い。それで、何の用だ」
「うふふ。君には一目見たときから注目してたのだけれど、まさかわたしの張った結界が破られるとは思わなかったわあ。――正直、街より君の方が欲しくなっちゃった♪」
「――アルフレッドッ!」
ライラが警告を発するとともに、矢を放った。早業どころの話ではない。一瞬前には弓も矢もなかったのに、まばたき一回分にも満たぬ間に矢が放たれていた。
後方から放たれたそれを、アルフレッドは振り返りもせず横っ跳びに躱す。矢は吸い込まれるようにマルグリットの眉間へ飛んでゆき――。
地面より飛び出した鎖によってはたき落とされた。同時に、鎖が砕け散る。
「すごい威力ねえ。わたしの『欲望の鎖』を砕くなんて……それが力を解放した『神器』の力なのかしら?」
「教える義理はないでしょう? 前回の雪辱を果たさせてもらうわ」
「ふふっ……そう。まあ、わたしもまだまだ本気じゃないけれど」
マルグリットがぱちんと指を鳴らせば、彼女の足下から無数の鎖が湧き出す。
対するライラも三本纏めて矢を番えており、完全に臨戦態勢であった。
一触即発の空気の中、それに待ったをかけた者がいた。アルフレッドである。二人の間に割って入ると、マルグリットに向き直り、質問を投げかける。
「一つ聞きたい。あそこに沈んでいるアラクノイドたちはお前の仕業か」
「ええ、そうよ。石にしたのはいいけれど、運ぶのが大変そうだから、森を手に入れた後で持って帰ろうと思っていたの……あっ、いいこと思いついたわあ」
マルグリットは手を叩いた。足下から湧き出していた鎖が消える。
「ねえ、アルフレッド君。お姉さんと取り引きしない?」
「どんなだ」
「この森は諦めるから、代わりにわたしのモノになってくれないかしら? みんなで一緒に魔界で楽しく暮らしましょう?」
「なっ……! そんなの認めないわ!」
「あなたには聞いてないわ。わたしはアルフレッド君に聞いてるの。それに、石になった子たちを元に戻せるのはわたしだけよ?」
「くっ……」
アラクノイドたちを人質にとられていては黙る他ない。悔しげにライラは目を伏せた。
「それで、どうかしら?」
「断る。俺は誰のものにもなるつもりはない」
「でも、その子たちは――」
「嘘を吐いても無駄だ。この『眼』を欺くことはできん」
「……そう。どうやって人間に化けたあの子たちを見分けていたのか気になっていたのだけれど、そういうことだったのね」
納得したように頷くと、特に悪びれた様子もなくマルグリットは再び話し始めた。
「じゃあ、せめてアルフレッド君をもっと近くで見させてくれないかしら? お姉さんのお願い、聞いてくれる?」
「断ったらどうなる」
「そうねえ、ルミナリアとリゼルのところとも協力して大規模に動いたのに、何も得るものがないなんて寂しいから、中央都市にでも攻め込もうかしら?」
本来、中央都市にいるはずのイニシエーター三人はいない。そんな状況で魔神に攻め込まれてどうなるかは火を見るより明らかだ。
「……仕方あるまい」
「うふふ、ありがとう。メルヴィナちゃんを助けてもらったこともあるし、石になってる子たちは元に戻すわ」
マルグリットは鎖を出すと、池の底から石像と化したアラクノイドたちを引き上げた。そして何事か呟くと、アルフレッドに向き直った。
「石化は解除したから、この子たちはそのうち戻るわ」
「そうか」
「それで、アルフレッド君にはこの子を頼みたいの」
マルグリットは自身の肩に乗るカラスを指差した。カラスは飛び立つと、アルフレッドの肩に留まった。
「わたしの使い魔、マモンちゃんよ。この子を通してアルフレッド君たちを見てるから、お世話をよろしくね」
「……わかった」
「じゃあ、話も纏まったしわたしは帰るわあ。――また会いましょうね、アルフレッド君♪」
最後にウインクを一つして、再び魔方陣を通ってマルグリットは帰っていった。
「……ごめんなさいアルフレッド。わたしが不甲斐ないばかりに……」
沈痛な面持ちでライラがそう絞り出した。
「気にするな。みな無事だった。それで十分だろう」
「……ええ、そうね」
終始無表情だったアルフレッドだが、マモンと名付けられた肩のカラスを見て、わずかに眉をひそめた。
「……ところで、カラスはどう飼えばいいんだ」
――魔界某所に存在する、『強欲』に属するものたちの居城、黄金神殿。外壁から内装までが黄金で構成されたその一室で、マルグリットは思案していた。内容はもちろん、アルフレッドのことである。
(ふう……、あの場では上手く余裕を保っていられたつもりだけど、アルフレッド君にはどう見えてたかしらねえ。彼にはどうやら隠し事を見抜く『眼』があるみたいだし……)
実のところ、内心ではライラとアルフレッドの二対一にならないか終始はらはらしていたのだ。
『風』の使徒、ライラ・テイルウインド。四大精霊の一角、シルフを従え、現存する生物の中でも最も精霊に近い『原初のエルフ』。ゴブリンを招くために邪魔な結界を解除するべく、彼女に挑んだ初回の戦闘ではどういうわけかシルフを使ってこなかったが、もし使われていたらどうなるかわからなかった。
そして、それ以上に恐れていたのは――、
(『アレ』はなんだったのかしら……、思い出したらまた背筋が寒くなってきたわ……)
アルフレッドが自身の張った結界を破壊する際に見せた、正体不明の『モノ』。ほんの少しの間だったが、たった一撃で容易く結界を破壊した姿を見たときは冷や汗が流れた。もし『アレ』が姿を見せたときには、一目散に逃げようと思っていたのだ。
(アルフレッド・ヴェノマイザー……謎の多い子ねえ。まあでも、マモンちゃんをつけることはできたし、ルミナリアは自分にもアルフレッド君を見せてくれたら今回の失敗は不問にするって言ってたし、リゼルは作戦が成功しても失敗してもどっちでもいいみたいだったし、結果的に良かったと思うべきかしらねえ……なんにせよ、必ず手に入れてみせるわあ)
そして、彼女は笑う。果てなき欲望を抱いて。
世にあまねくすべてを欲するのが彼女が『強欲』の魔神たる所以なのだから。