第7話 サキュバスのモーテル
「Oh……」
その建物の外観を目にしたマルナが呻いた。
外国の片田舎にありそうな2階建てのモーテルだ。年季が入っている。看板には「異世界のお金使えます!」と書いてあった。利用可能な世界の一覧には、地球の名前もあった。
また電飾の看板の「HELLO」の「O」が消えて、「HELL」となっている。
不気味だが、俺にとってはこの世界だって地獄だ。気にしないようにしよう。
「……ここに泊まるの?」
マルナが不安そうに言った。
「他に選択肢があるなら教えてくれ」
俺たちはいくつか宿泊施設を見てきたが、地球の金が使えない、または値段の問題により、候補から除外されていった。これ以上歩き回るのはうんざりだ。
「路上でカラダくっつけて寝た方がよくない?」
それも良い気がしてきた。だが、やはり安心して寝られる場所が必要だ。
「部屋はきっと良いさ」
自分に言い聞かせるようにそう言って、俺はマルナの手を取って受付に進んだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「いらっしゃいませっす! 今夜は――うわっ……!」
受付の少女は挨拶の途中で小さく悲鳴をあげ、口元を両手で押さえた。
俺たちの姿があまりに汚かったからだ。ホームレスだって、もう少し綺麗だろう。臭くて、ボロボロで、俺たちは本当にみじめな姿だった。
受付嬢は、ハンチング帽をかぶった肌が浅黒い少女だ。オレンジ色の長い髪を一本の三つ編みにし、右の肩に垂らしている。ネームプレートには、「ルル・ピロテース」とあった。
カウンターの横には雑誌のラックが置いてある。
ラックには、異世界に関するエッセイ、あるいは異世界旅行をオススメした雑誌やパンフレットが突っ込んであった。
『ザコモンスターだけを倒し、最高レベルまで到達した勇者のメソッドとは?』
『これであなたも神様になれる! 魔王を倒してわざと封印されよう』
『異世界でできる投資。申請なしでできる土地の売買』
などなど、興味深い本が置かれている。
俺はラックから視線を剥がして、カウンターに近づいた。
「どうもこんばんは。俺たち、中央区のホテルに泊まってたんだが、ハメを外して飲みすぎてしまって……。悪いことに、車とホテルの鍵を落っことしてしまったんだ。品性と一緒にね」
最高に愚かな観光客だと装って説明する。昔、父親が北海道旅行でやらかした。旅行の内容よりも、母親のぶちキレた顔を強く覚えている。温厚なプリウスも噛みついた。
「あぁ、それは災難っすねぇ」
まるで自分も経験があるようかのように、ルルはうなずいた。
「いやぁ、まったく大変だよ。それで、部屋は空いているかな?」
「お二人でひと部屋っすか?」
「あぁ」
本当は良くないが、金の問題があった。マルナも「しょうがないにゃぁ。ヘンなことしないでね」と事前に了承している。
「お支払い方法は?」
「現金で。地球の金は使えるよね?」
「もちろんっすよ。どこの国のお金っすか?」
「日本だ」
すると、ルルは「おぉ~」と感嘆の声をあげた。
「あそこは寿司がおいしいっすよねぇ~。キャタピラーとか」
なんだそれは? 俺はうなずいておいた。
「1泊だと、おふたりで8300円になるっす」
なかなか良心的だ。俺はそれで良いと首を縦に振った。
「身分を証明するものはあるっすか?」
来たな。
マルナが不安そうな顔をし、俺の服の裾をぎゅっと掴んだ。
「それなんだが、鞄ごとどこかに落としてしまって。届けたら、見つかったって連絡はあったんだ。明日になら……」
俺は説明しつつ、ルルの手に1万円を握らせた。
「本当に困ってるんだ。雨が降ってるし、これ以上この子を歩き回らせたくないしね」
俺はちらりとマルナに視線をやり、それからルルの目をじっと見つめて、「本当に困ってるんだ」と繰り返す。
マルナは胸の前で両手を組み、捨てられた子犬のような哀れっぽい顔をした。
ルルはちょっとだけ考え、すぐに微笑んだ。
「オーケー。もう遅いですっしね。今日は良いっすよ。これが部屋の鍵……209号室っす。チェックアウトは10時っす。そんときにでも身分証明書を見せてもらうっすかね」
ルルは背後のコルクボードから鍵をひとつ取り、俺に手渡した。
つまり、10時になる前にチェックアウトしろということだ。
マルナが感心したような顔をした。小さい商いというのは、こういった〝帳簿に乗らない取引″を好む。それは人間も神も同じのようだ。
「本当にありがとう。助かるよ」
俺も微笑み、宿泊者名簿に名前をサインする。俺は「伊藤宗也」、マルナについては「マル子・アトナー」と書いた。
偽名を使う時は、名前を呼ばれたときにすぐに反応できるように、本名に近いものが良いと聞いたことがある。どうせコンピューターに入力しないのだ。問題ないだろう。
マルナは「マル子」という偽名が気に入らないらしく、「あたしゃ、怒ったよ」と膨れた。
ノリノリじゃねーか。
「よかったら、とってもステキなオプションも付けるっすか? すんごいサービスするっすよぉ」
サインと支払いが終わると、ルルは大人の女性も顔負けの妖艶な笑みを浮かべた。カウンターの後ろから先端がハートのような尻尾が左右に揺れる。まるでサキュバスだ。
「いやぁ……今日はやめとくよ」
疲れているのが本当に残念である。それに、いくら取られるのかわかったもんじゃない。
だいたい、どんなサービスだ。
「そこのオチビちゃんもどうっすか? ウチはどっちでもイケるっすよ」
なかなかドキドキさせてくれる衝撃発言をし、ルルはマルナにウインクした。
マルナがどう答えるか見ものだったが、その前にルルは不審な顔をする。
「あれ? お客さん、どこかで見たことあるような……」
まずい。
「いや、彼女も疲れてるし、オプションは結構だ。それじゃあおやすみなさい」
俺はマルナをかばうように身体を移動させ、ルルに挨拶した。それからマルナの手を引いて受付を出る。
「おやすみなさいっす!」
受付をそそくさと出る俺たちの背中に、ルルの元気な声が届いた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
モーテルの廊下は吹き抜けで、外と廊下を隔てるものは、錆びついた鉄製の柵しかなかった。ここからは、鬱蒼とした木々と、雨のせいで形が揺らめいているように見えるビル群が遠くに望めた。
「いいのぉ? あたしのことは気にしなくていいのにぃ」
廊下を歩きながらニヤニヤと笑うマルナが、俺をおちょくってきた。「うるさい」と言おうと思ったが、その元気もなかった。
「それより、受付の子と知り合いか?」
マルナが人気アイドルなみに名前と顔が知れているのだとすると、この街で身動きすることはできない。
「ううん。たぶん向こうが知ってるだけ。あたし、スーパーゴージャスゴッド最強神だからね。超有名人なの。セレブなの」
「……ほんとかよ」
よほど俺は不安そうな顔をしていたのだろう。ぷっ、とマルナは小さく吹き出した。
「うそうそ。だいじょうぶ、だいじょうぶ。観光客や移住者はもちろん、普通の神様のなかに、あたしの顔を知ってる奴なんか殆どいないって。もしかしたら――」
話していると、209号室に到着した。
鍵を入れてドアを開けると、カビの独特な臭いが飛び込んでくる。ライトのスイッチを入れると、暗闇からみすぼらしい部屋が現れた。必要最低限の家具しか置いていない。ゲーム機は置いてないだろう。まぁ、こんなものか。
大変なことに、ベッドはひとつしかなかった。寝転ぶと軋んだ音が出そうなダブルベッドだ。枕とシーツは綺麗だった。ルルが何を勘違いしたのか、元々そういうものなのか、いずれにせよマルナと一緒には寝られない。
ダブルベッドを見た俺たちは顔を見合わせた。
「あたしベッド、あんた床ね」
自分と俺に人差し指を向け、マルナが当然のように言った。
「……あぁ」
あたり前のことというのは、相手にあたり前のように言われると腹が立つ。
神様なのだから、もう少し迷える子羊に気を遣ってもらいたいものだ。