来訪
『 来 訪 』
朝六時に起きて、NHK・FM放送から流れるバロック音楽を聴きながら、バナナを切って入れたヨーグルトとコーヒーで簡単に朝食を済ます。
コーヒーはブレンドでは無く、生粋のストレートコーヒーと決めており、少し濃い目に淹れる。
今日は、苦めのマンダリンG-1にした。
とりたてて他には贅沢はしないが、コーヒーだけにはこだわりを持つこととしており、少し贅沢をしている。
コーヒーを味わって飲みながら、今日という一日の過ごしかたに思いを巡らす。
シンプルだが、優雅な朝のひとときだ。
座っている食卓から、少し開けたブラインド・シャッター越しに庭を見る。
今日はよく晴れており、雲ひとつ無い。
暖かくなる予感がした。
庭には雀が来て、妻が植えた野菜の若菜をついばんでいる。
妻は口惜しがっているが、餌には事欠かないとみえて、ここら周辺には、まるまると太った雀が多い。
あんなに太って、よく飛べるものだと思うくらい、肥満しているのだ。
肥満は万病のもとだと云われている。
齢を取ったら、自分の健康には若い時以上に注意しなければならない。
私は随分と摂生している。
昨日は歯医者に半年毎の定期健診で行き、別に虫歯も無く、歯石もほとんどありません、良好ですよ、と言われ、何だか一日中機嫌が良かった。
今日は、内科の医院に行き、一ヶ月毎の糖尿病の定期健診を受ける。
先月の採血の検査結果を聞くこととなる。
数値が良くなっているか、悪くなっているか、いつも少しドキドキするのだが、良好に維持されています、この調子で頑張ってください、と言われると思わずニコリとしてしまう。
とるに足らぬ小さなことでも、人は十分幸せな気持ちになれるものだな、と思いながらいそいそと家に帰る。
今日も、そのパターンだと良いのだが。
そんなことを思いながら、朝食の片付けをしていたら、インターフォンが鳴った。
宅急便の配達かなあ、と思いながら、インターフォンに出てモニターを見ると、意外な人物が映っていた。
驚いた。
東京に居るはずの、長田一郎の顔が映っていたのだ。
長田と私は、高校以来の友達だ。
今、東京近郊にマンションを購入し、暮らしているはずの長田がどうしてここに来たのだ。
不思議に思いながら、私は玄関口に出た。
ドアを開けると、長田のいかつい大きな顔が笑っていた。
「やあ、元気かい」
「おう、元気だよ。だけど、一体、どうしたんだい。驚いたよ」
「いやあ、わるい、わるい。別に、驚かすつもりは無かったんだが」
「まあ、とにかく、上がれよ。立ち話も何だし」
「車、玄関脇の駐車場に入れているけど、問題無いかい」
「ああ、大丈夫だ。うちは小さいけど、駐車場だけは広く造ったから」
私は長田を家に招じ入れ、居間に通した。
「アラッ、長田さん、いらっしゃい」
「奥さん、お久しぶりです」
妻が現われ、今、コーヒーを淹れます、と言ってキッチンに向かった。
「本当に、久しぶりだなあ」
「うん、佐藤が退職して東京を離れて以来、ということかなあ」
「もう半年以上にもなるよ。時に、美代子さんは元気?」
「ああ、元気だよ。おかげさまでね。あいつはいつも元気、元気」
「なんだよ、その言い方は。元気が一番さ。元気印の美代子さん、何よりじゃあないか」
「美代子のことは、ともかく。今の暮らしはどうだい。暇、持て余しているんじゃないのかい?」
「うん、今、働いていないから、暇を持て余していると言えば、言えるけど。まあ、なかなか、いいものさ。しっかりと、失業保険も貰っているしさあ。もうじき、満期の五ヶ月になるけどね」
「佐藤の会社は何と言っても旧財閥系の会社だから、退職金も良かったんだろうな。今は、悠々自適といったところかい」
「長田君もよく言うよ。それほど、多い退職金は貰っていないし、悠々自適とまではいかないけれど、時間だけはたっぷりあるという暮らしはなかなかいいものさ。働く、ということは、結局、時間を切り売りするということだからさ」
「佐藤の持論がまた、始まったな。俺なんて、その逆さ。生涯現役が俺の理想で、暇なんて、無いほうがいいんだ。小人閑居して不善をなす、ことになるからね」
「いや、俺は別に、不善をなしているわけではないよ。閑居はしているけど、ちゃんと、時間は有効活用しているからね」
「今、どんなことをしているんだい?」
「例えば、朝は十時頃まで家で新聞を読んだり、音楽を聴いたりしてのんびりと過ごす。十時になったら、車に乗り、市立図書館に行き、新聞各紙、週刊誌の類を昼頃まで読む。図書館に行かない時は、港の水族館に行く。水族館は有料だけれど、僕は年間パスポートを買っているから、都度、入場料を払う必要は無い。何、年間パスポートと言っても、ディズニーランドの年間パスポートと比べたら安いものさ、二、三回分の入場料で済んでしまうんだ。お昼になったら、図書館周辺の食い物屋でランチを食べるか、家に戻って、食パンを二枚くらい食べるかして、お昼を済ます。午後は、図書館で本を読んだりして過ごすか、車でフラワーセンターという遊歩道のある野外植物園に行き、暫く、ウォーキングをして四季折々の植物を見ながら散策する。夕方頃、ここに戻り、早めの夕食を摂り、食後三十分ほどしたら、家を出て、近くの農村の畦道を夕陽を見ながら歩く。夜は、野球のナイターを一喜一憂しながら観戦する。この五十インチの大型テレビで観るんだが、なかなか迫力があっていいよ。後は、ドラマを観たり、本を読んで、十一時頃に就寝、といった毎日さ」
「へえー、俺と違って、優雅なものだなあ」
「そういう、長田の暮らしはどうなんだい?」
長田はニヤリと笑いながら言った。
「俺の暮らしはこんなものさ。朝、九時に三鷹のマンションを出る。九時頃の時間帯になると、漸く通勤ラッシュも落ち着いて、悠々と座れるんだ。中央線で四ツ谷に出て、地下鉄・丸ノ内線に乗り換え、銀座に着く。知っているように、俺が勤めているところは銀座にあるんだ。運良く、中央特快に乗れれば、三十分で着く。勤めていると言っても、俺は嘱託扱いだから、まあ、言わば小遣い銭稼ぎといったところさ。俺は昔、外資系の会社に居たろう。それで、その経験を生かして、言わば、外国ビジネスのアドバイザーといった役回りで仕事をしている。勤務時間は、まあ、適当でいいんだが、俺は五時頃あたりまで事務所に居る。退勤後は、少し銀座をぶらつくこととしている。真っ直ぐ、家に帰っても、女房も、ほら、仕事をしているだろう。帰ってもしょうがないんだ。それで、伊東屋、あの文具店さ、その伊東屋に入って、いろんな文房具グッズを眺めて、時間を潰し、家に帰るのは七時頃ということにしているんだ。時々は、銀座から丸ノ内まで歩いて行って、東京駅前のオアゾに行って、丸善あたりを覗いてから帰ることもある。どうも、昔からの癖で、文房具に弱いんだ。洒落たメモ帳とか、ボールペンが有れば、つい買ってしまう。ほとんど使わないのにね。七時頃に帰れば、女房が普通は家に帰っている。息子は別な街で暮らしており、娘は吉祥寺に勤めており、一緒に暮らしてはいるけど、帰りが遅いしね。まあ、君と同じく、女房殿と二人暮らしのようなものさ。夜は、レンタル・ビデオ屋から借りたビデオを観ているね。その内、娘が帰って来て、お風呂に入って、寝る、といった毎日さ」
「ふーん、それで、休日は?」
「うん、毎日サンデーのお前と違って、休日はぶらぶらとしており、とりたてて、何もしていない。齢だから、この頃は昔と違って、あまり出歩かなくなったなあ。それでも、時々は女房に連れられて、いろんなところに行くよ。女房は保険会社で働いているだろう。保険の外交員というのは結構、休日も忙しいんだよ。顧客に対するケアを忘れては駄目なんだ。在る一流上場会社の役員さんの趣味が絵を描くことだと情報を得れば、彼の個展には必ず行って、挨拶するんだ。この間なんか、女房に連れられて、八王子くんだりまで行って、個展を覗いて来たほどだよ。勿論、素人の個展だから、親戚・知人とかいった人しか来ない。ギヤラリーは閑散としている中、女房が挨拶するとまあ、喜んでねえ。いろいろと絵の説明をしてくれたよ。俺も適当に話を合わせてさ。そこで、女房は彼から会社の人事の情報を訊き出すんだ。誰が、次の役員人事に上がっているとかね。耳よりの情報があれば、その役員候補に挨拶に行き、役員になれば普通は生命保険の契約を大口の方向で見直しますよ、とか何とか言っちゃって、契約して貰うんだって。その役員候補の方も挨拶に来られて満更でも無いし、誰々さんの紹介で、と情報をくれた役員さんの名前でも挙げれば、まあ、ほとんど保険契約が決まるってさ」
「なるほど、美代子さんは優秀な外交員だからなあ。長田君には出来過ぎた奥さんだよ」
私と長田は笑いながら、家内が淹れたコーヒーを飲んだ。
どうも、清子が淹れるコーヒーは少し薄めだなあ、でも、今日は二杯目だから、まあいいか、と私は飲みながら思った。
長田一郎と奥さんの美代子さんの出会いは傑作だった、と私は昔の記憶を辿りながら思った。
僕たちは団塊の世代でもあり、大学では全共闘エイジでもあった。
長田と美代子さんは同じ大学の学生で、学部は違ったが、全共闘主催のデモで知り合った。
あの当時のデモ行進は結構過激で、機動隊にお伴されるのが普通だった。
時には、機動隊と揉み合うのもしょっちゅうだった。
長田は元々、血が頭に上がりやすい性質の男だ。
その時も、機動隊にデモ行進の中からごっそりと引き抜かれ、危うく逮捕されそうになった。
いわゆる、公務執行妨害とやらで、パクられそうになった。
その時、引っこ抜かれそうになった長田の腕を強く引き止める腕があった。
おかげで、引っこ抜かれて逮捕されるという事態は免れたよ、と長田は言った。
但し、肩を脱臼しそうになるくらい、痛かった、と言って笑った。
その時、長田の腕を死に物狂いで引き止めた腕の持ち主が、何あろう、美代子さんだった。
あれくらい、力を出したことは無かったわよ、と美代子さんも笑って言っていた。
長田は眉毛が太く、どちらかと言えば恐い顔をして、がっしりしている男だ。
一方、美代子さんは美人でほっそりした感じの女子学生だった。
その美代子さんがまさに柳眉を逆立てて、細い腕で、長田の太い腕を死に物狂いに引っ張っている。
その光景を想像するだけで、私は思わず微笑んでしまうのだ。
それ以来、長田は美代子さんと付き合うようになった、と云う。
二人の関係には、びっくりしたこともある。
当時、漫画で、同棲時代という漫画が人気あった。
若い学生は皆、同棲という言葉に憧れていた。
大学は長田との大学とは違っていたが、同じ東京ということで、時々は長田の下宿に遊びに行っていた。
長田は当時、中野に住んでいた。
私は近くの高円寺に住んでいた。
高円寺から中野までは中央線でひと駅の距離にある。
私は電車賃が惜しくて、いつも歩いた。
中野の駅を出て、雑多な店が並ぶアーケード街を通り抜けて少し歩くと、長田の下宿があった。
いや、下宿では無く、アパートだった。
部屋代は月五千円ぐらいの安アパートだった。
みしみしと音がする階段を上り、長田の室のドアをノックした。
どなた、という長田の声がしたので、佐藤だよ、と私が言うと、少し待て、と云う。
おや、少し変だなあ、と私は思った。
いつもはさっとドアを開ける長田が少し逡巡しているのだ。
おかしいな、と思いながら少し待った。
やがて、ドアが開けられ、私が、元気かい、と言いながら入って行くと、正面の卓袱台兼炬燵に一人の女性が澄ました顔で座っていた。
それが、美代子さんを見た初めだった。
「しかし、それにしても、ここらへんはかなりの田舎だな」
「そうかい。でも、長田君の実家ほどでは無いよ」
「ああ、まあ、そうか。俺のところは狸が出るくらいの田舎だからなあ」
「美代子さんも昔、言っていた。結婚する前に、長田の家に行って、私は驚きました、だって、駅から下りたところから長田のところまで一キロほど歩きましたが、家が二、三軒しか無かったんですもの、と言っていたっけ」
「そうか、そんなことを言いやがったのか、あいつめ」
私たちの笑いに誘われたのか、妻もキッチンから出て来て、私の隣に座った。
「今日は美代子さんはご一緒では無かったのかしら」
「実家に用事があって、僕だけで来たんです。まあ、しかし、ここらへんは同じような家ばかり並んでいて、少し道に迷いましたよ」
「一番小さい家だから、目立たなかったのかな」
「家はともかく、庭は広いね。駐車場も広く、三台か四台は楽に置けるかも」
「現実的には、一台で十分さ。子供は滅多に来ないし、来客もほとんど無くてね」
「そうよ。久しぶりに長田さんが訪ねてくれたんだから、一杯歓待しなくっちゃ」
「時に、長田君、良ければ、今夜は泊って行けよ。久しぶりに、酒でも飲もうや」
「そうだねえ。今日、明日と別に用事も無いしね。じゃ、お言葉に甘えるとしようか」
高校時代の同級生、長田と会うと、どうしても高校時代とか、東京の大学時代の話になってしまう。
と言っても、思い出話のきっかけを作るのは私で、長田はそれほど思い出話に熱心なようには見えなかった。
「長田君、君は早弁が得意だったねえ」
「早弁、ああ、そうだねえ」
「学校に着くなり、弁当を広げてさ。第一時間目の授業が始まる頃までには、持ってきた弁当の中身はすっからかんになっていたっけ」
「それで、お昼は学校の売店でパンを買って食べるか、学校をちょっと抜け出して、正門前の雑貨屋でパンを買って食べたものだね」
「この間、行ってみたら、正門前の雑貨屋は無くなって、代わりに、小綺麗なコンビニみたいな店が新しく出来ていたよ。パンとか、お握りとか、中華まんなどが売られていたよ」
「まあ、昔の俺たちみたいな悪童が、昼休み、校舎を抜け出して買いに来るんだろうな」
あの雑貨屋の向かい側にはラーメン屋もあって、私は放課後、よくラーメンを食べてから帰ったものだった。
特に、片栗粉がたっぷり入った広東麺が美味かった。
スープは少ししょっぱかったけれど、十六、七の高校生にとってはそのしょっぱさも美味しい味となっていた。
「佐藤よ、あの頃、放課後さ、よく連れだって、映画を観に行ったよな」
「うん、覚えている。駅近くの映画館だろ。時々は、教師が見廻りに来て、補導される者も居たな」
「俺たちも、危なかった時があった」
「そうそう、覚えているよ。数学の山口先生に一度捕まったことがある」
「でも、補導はされなかった」
「あー、映画を観るという行為は悪くは無い。あー、但し、放課後、制服・制帽を被ったまま、観てはいけない。あー、今日は、君たちを僕は見なかったことにする。あー、以後、気を付けるように」
私は当時の山口先生の口調を真似て、話した。
長田が噴出して笑い、私も大きな声を上げて笑った。
笑いながら思った。
こんなに、大きな声で笑った最後はいつだったか。
どうにも、思い出せなかった。
昼食を摂った後、長田を誘い、私は近くの田圃の畦道を歩いた。
田圃では、そろそろ田おこしが始まる季節であった。
「ここらあたりは、六月になると、蛍が飛びまわるところなんだ」
「へえー、蛍が見れるのか。のどかなところだなあ」
「小さい蛍でね。源氏では無く、平家蛍だと思うんだ」
「俺の実家の方でも、蛍は居るぜ。大きさは、さあ、どうだったかなあ」
「時に、長田君。嘱託で働いているということだけれど、給料はどの程度、貰っているの?」
「給料か。ほんの雀の涙さ。でも、何もしないでいるよりは、ましさ」
長田は昔、外資系の会社で働き、営業部長をやっていた。
年収二千万は貰っていたと言っていた。
でも、佐藤よ、外資系では四十歳以上の社員は要らないんだ、と長田は或る時、私に言ったことがある。
リストラが日常茶飯事さ。
部下のリストラばかりやらされて、そのうち、俺も嫌気がさして、五十歳になる少し前に、退職してしまった、と長田は言っていた。
その後は、彼なりに苦労したらしい。
でも、美代子さんが居た。
保険外交員の美代子さんの稼ぎで、家計は何とか凌ぐことが出来た、と長田は私に語った。
美代子さんの話だと、長田は一念発起し、調理士学校にも入って勉強したらしい。
でも、白衣は俺には似合わないと三カ月ほどで辞めてしまった、と美代子さんは言っていた。
その後、貿易会社に勤めたり、知り合いの人材派遣会社に勤めたりしたが、どこでも長続きはしなかった。
でも、長田は挫けない。
俺は生涯現役でやるぞ、と言いながら、今も懸命に職を探して頑張っている。
私は、職を転々とする長田に半ば呆れながらも、半ば尊敬している。
とにかく、前向きに考える男で、私には無いものを持っている男だ、と思っている。
「佐藤よ。こんなことを言うのも何だが、お前、働くつもりは無いのか?」
長田が歩きながら、ぼそっと呟くように言った。
私は少し、ドキリとした。
「何だよ、急に」
「まあ、佐藤の場合は、退職金とか年金で、ガツガツと働く必要は無いんだろうが、何か急に老けこんだように見えるぜ」
「ふーん、そうかなあ。老けこんだように見えるのか」
「うん、見える。東京で暮らしていた頃のお前は、もっと生き生きしていたよ。俺の目から見たら、輝いて見えたものだよ」
「長田君には、そう見えていたのか。でも、僕は東京では一杯いっぱいだったよ」
「そうは見えなかった」
「僕の担当業務は、品質保証でねえ。君も知っていると思うけれど、なかなか神経が疲れる仕事なんだ。僕が知っている人なんか、精神安定剤を飲みながら仕事をしている人だっているんだ。僕は飲まなかったが。そんな仕事を三十年近くやったわけで、いいかげんうんざりしていたんだよ」
「で、今は?」
「ようやく、解放されたと喜んでいるというわけさ」
「でも、老けこんじゃ駄目だよ。まだまだ、現役でやれる仕事があるじゃないか。特に、これからやっていく、まあ、ライフワークみたいな仕事が無い限り、とにかく働けるうちは働いた方が健康のためにもいいと思うよ」
私は彼の言葉を聴きながら、黙って歩いた。
長田の話にも一理ある。
このところ、私と妻との会話は知らず昔の話になってしまうのだ。
ともすれば、新婚時代の話にも遡ることもあり、思わず顔を見合わせて笑ってしまうこともあるのだ。
昔の思い出を語ることは結構楽しく、懐かしい思い出に浸ることもそう悪いことでは無いが、その後、今の変化の無い暮らしを思い、何だかがっかりすることも多くなっているのだ。
これが、リタイアーした後の虚しさというものか。
何だか虚しい、何だか淋しい、こんな感じで老後を迎え、死んでいくのか、と思うと時には遣りきれない気持にもなる。
何か、生きている張り合いが持てるようなことを見つけようか。
そんな気持にも実はなっていたのだ。
夜、酒を飲みながら、お互いの子供の話に興じていたら、電話がかかって来た。
私が電話口に出たら、聞き覚えのある声が耳に飛び込んで来た。
何のことは無い、美代子さんの声だった。
「うちの人、お邪魔していない?」
思わず、長田の方を見遣った。
長田は妻と話に興じていた。
「今、彼と酒を飲んでいるよ」
「やっぱり。そうじゃないか、と思っていたわ」
いつもなら、この後、あまり飲ませないでね、と続くが、今回は違った。
「実は、長田と喧嘩をしてね。彼、うちを飛び出して行ったのよ」
私は驚いた。
声を潜めて、美代子さんと話した。
子供の結婚のことで、喧嘩したらしい。
「あの人は娘が付き合っている男性が気に入らないらしく、結婚に反対しているのよ」
「男親というのは、一般的にそんなもんですよ。娘をいつまでも傍に置いておきたがるものです。まして、長田君は麻耶ちゃんを随分と可愛がり、まさに、目の中に入れても痛くないといったほど、可愛がっていますから、なおさらですよ。きっと、麻耶ちゃんを奪っていく相手の男が嫌いなんでしょう」
「佐藤さんも男の人ねえ、長田の味方をしてしまうのねえ。でも、いつかは、娘は嫁いで行ってしまうものなのよ。それに、麻耶の相手の男の人、それほど悪い人じゃないのよ。一応、大学は出ているし、今は不景気でフリーターみたいな暮らしをしているけど、適当な就職口さえ見つかれば、立派にやっていけると私は思っているのよ」
そんな会話が続いたが、最後に、早く帰るよう、私の方から長田に言って欲しいという美代子さんからの頼みがあって、その電話は切れた。
「美代子からの電話だったろう」
電話機から離れて、座に戻った私に長田が言った。
「やっぱり、そうか。どうも、そうじゃないかと思っていたんだ」
「長田君、美代子さん、随分と心配しているよ。今夜はもう、無理だから、明日の朝早く、帰ってあげなよ」
私からこう言われて、長田は少しぼんやりとした顔になった。
ビールを一口飲んでから、呟くように言った。
「どうも、子供のことでこの頃、美代子と喧嘩してしまうんだ」
妻が私の顔を見ながら、少し頷いた。
「うちも同じだ。昔から、子供は悩みの種だよ」
私が慰め顔で言うと、長田は笑いながら言った。
「でも、佐藤のところは、子供の出来がいいから、俺のところほど悩んではいないと思うよ。俺のところなんか、息子のことで悩み、結婚してやれやれと思っていたら、今度は娘が変な男と一緒になりたいなんて言うし、・・・」
長田はどうにも情けないような顔をした。
翌朝、長田は帰って行った。
私は妻と一緒に長田の車を見送った。
「疾風のように現われて、疾風のように去って行く、月光仮面のおじさんは、・・・」
私が唄うように呟くと、妻は声を上げて笑った。
「長田さんって、いつもそうね。さっと、つむじ風のように現れて、つむじ風のように去って行くって感じねえ」
「吉祥寺に居た時もそうだった。土曜日の午後、のんびりしていると、美代子さんと一緒にふらっと現われて、焼き鳥でも食べながら、飲もうと言いだす。久しぶりに、焼き鳥もいいだろうと、いせ屋に行って、日も高いうちから飲みだすこととなる」
「あなたも、迷惑そうな顔をしていながら、飲みだすうちに調子に乗って」
「焼き鳥をばかばか注文しながら、がばがばとビールを飲むこととなり、目出度くその土曜日は轟沈となる次第、だったか」
「最後は、俺が払う、僕が払う、といったことで喧嘩騒ぎとなってねえ」
あの頃は、子供にも手がかからなくなり、ぼちぼちと余裕が持てた時か。
「あれ、覚えているかな。あれさ、・・・」
と、言いかけて、私は止めた。
「いや、もう、止めよう」
「アラッ、どうしたの。言いかけて、止めるなんて」
「いや、もう、昔のことをあれこれと思い出すのは止めよう。昨日なんか、長田君から言われてしまったよ。少し、老けたな、ってさあ」
「まあ、そんなこと、言われたの」
「そう言えば、長田君は全然老けていないな。昔のまんまだよ。現役で仕事をしているせいかなあ。一方、僕は毎日サンデーの身で、呆けはしないけど、どことなく、前より老けてしまったのか」
妻はそう言う私を見て、笑っていた。
「よし、もう、昔のことを言うのは止めよう。明日のことを考えよう。未来のことを考えることとしよう。さあ、明日はハローワークに行って、求職活動でもしてみるか」
妻はそんな私を面白そうに笑いながら見ていた。
「明日は駄目。実は、美由紀が来るのよ」
「美由紀が。一体、どうして」
「朝見たら、携帯にメールが入っていたの。来る理由は書いてなかったけど」
「何だろう。もしかすると、仕事を辞めるとか、結婚するとかいったことじゃないのか。突然の来訪はろくなもんじゃない」
「長田さんの突然の来訪はどうだったの」
妻が笑いながら言った。
私も笑いながら言った。
「彼の場合は別さ。別だよ。だって、僕は元気付けられるもの。ありがたい突然の来訪だよ」
「さあて、美由紀の突然の来訪はどうでしょうかねえ。あなた、楽しみでしょう。私よりずっと若い恋人が来るということで」
妻の言葉に、私は美由紀の顔を思い浮かべた。
さて、厄介なことにならなければいいが、と思った。
完